中元崇智『板垣退助』 より
0
シービー @MrCB_Harukaze

天保8年(1837)4月17日、土佐国高知城下中島町の乾栄六正成と妻幸の嫡男として、猪之助が生まれる。後の乾退助(正形)である。乾家は御馬廻300石の上士であった。

2023-06-13 19:44:57
シービー @MrCB_Harukaze

中島町には後藤象二郎、片岡健吾も出身であり、土佐版加治屋町的でもあった。退助は幼少時代から粗暴な性格であったようで、いわゆるガキ大将的な存在であった。退助は後藤象二郎を「やす」(幼名保弥太の略)と呼び。後藤は退助を「いのす」と呼んだ(幼名猪之助の略)。

2023-06-13 19:45:20
シービー @MrCB_Harukaze

二人は親友だが性格が激しく、喧嘩も激しく、退助は潔癖症で糞が嫌いで、後藤は蛇を嫌っていたので、喧嘩するときには退助は蛇を投げつけ、後藤は糞を投げつけたという(『板垣退助君伝記』)。乱暴が過ぎか、嘉永5年(1852)12月、16歳の退助が同輩に「狼藉同様」をしたと自宅謹慎の処分を受けている。

2023-06-13 19:46:56
シービー @MrCB_Harukaze

乱暴者の評判があった退助であるが、ある日自宅前に乳児を抱えた女○食が食を求めたとき、姉の着物を与えた。姉は当然怒ったが、母幸は「いずれ乾家の家名を高めるのは退助である」と述べたという(『板垣退助君伝記』)。その退助の良き理解者であった幸は退助が13歳のときに死去する。

2023-06-14 20:27:46
シービー @MrCB_Harukaze

退助は、安政元年(1854)12月28日、18歳で江戸勤務を命ぜられ出発する。その後、安政3年(1856)8月8日土佐に戻ったが、「不作法挙動」ありとして藩から家督相続権を剥奪され、神田村に蟄居を命ぜられている。 安政の大獄で藩主山内豊信が幕府から謹慎の命を請け、前藩主の弟山内豊範に藩主を譲り隠居。

2023-06-14 20:28:51
シービー @MrCB_Harukaze

このことでいわゆる恩赦が行われ、退助の蟄居が説かれ安政6年(1859)5月23日城下への帰住が許可された。翌万延元年(1860)閏3月10日父乾正成が死去。退助は、知行50石を削られたが、乾家220石を継いだ。

2023-06-14 20:29:02
シービー @MrCB_Harukaze

安政の大獄のころに土佐藩政を主導していたのは吉田東洋であった。東洋は安政5年1月に土佐藩参政に復帰していた。東洋は積極的に人材を登用していた。彼らは「新おこぜ組」と呼ばれていた。福岡孝弟(藤次)、後藤象二郎などがいた。

2023-06-15 20:51:51
シービー @MrCB_Harukaze

なぜか東洋は門下生ではない乾退助を評価しており、万延元年8月12日に免奉行加役(徴税係)、9月30日には免奉行に引き立てる。このとき退助は24歳。元気も志も盛んなところが気に入っていたらしいが、やはり心配でもあり、後藤から言ってもらえれば退助にも有益であろうとも考えていた。

2023-06-15 20:52:14
シービー @MrCB_Harukaze

文久元年(1861)10月25日、退助は江戸御留守居御内用役を命じられる。土佐藩では、東洋ら改革派に反発する勢力が拡大する。いわゆる「土佐勤皇党」である。武市半平太を中心とした集まりで尊皇攘夷を掲げていた。隠居した山内容堂(豊範)も開国、公武合体を主張し、幕府が朝廷を推戴すべきと考えていた

2023-06-15 20:53:30
シービー @MrCB_Harukaze

文久2年(1862)4月8日、東洋は藩主豊範の講義を終えて高知城からの帰宅途中に暗殺される。犯行は、武市半平太の指示で、那須真吾、安岡喜助、大石団蔵が実行した。東洋の死後、その近しいものは次々と失脚、豊範の近習目付後藤象二郎も免職となる。その一方で保守派が台頭した。

2023-06-16 20:46:51
シービー @MrCB_Harukaze

4月21日、山内容堂は東洋暗殺の知らせを聞き激怒する。その直後の25日、謹慎処分が解かれ公務に復権する。退助は、5月20日に東洋暗殺を知り、藩の役人が暗殺を恐れていることに憤慨する。

2023-06-16 20:47:13
シービー @MrCB_Harukaze

そして、賊徒を断罪することが藩の安定に繋がると述べている。12月23日、退助は山内容堂の御隠居様御側用役に任ぜられる。容堂の側近となったのだ。容堂は退助を「有為之才」つまり役に立つ才能があると見ていた。

2023-06-16 20:47:18
シービー @MrCB_Harukaze

文久2年(1862)4月、薩摩藩国父島津久光が兵を率いて上京した。その後、5月勅使大原重徳に従い江戸に向かい幕府へ幕政改革を要請した。それを知った土佐藩武市半平太は、公家の中山忠能、正親町三条実愛、三条実美らに政治工作を進める。

2023-06-17 21:26:20
シービー @MrCB_Harukaze

その結果、土佐藩主山内豊範は藩士を率いて上京し、朝廷から京都護衛の任を下された。10月12日、幕府への勅使三条実美の護衛として山内豊範は兵500を率いて随行している。山内容堂は、文久3年1月9日、薩摩藩大久保一蔵(利通)と会談している。

2023-06-17 21:26:33
シービー @MrCB_Harukaze

一蔵は、三条、長州、武市らが容堂を尊攘派に引き入れようとしていると容堂の真意を確認した。容堂は越前藩前藩主松平春嶽、薩摩藩島津久光の上洛を待って朝廷に奉答すると答えた。

2023-06-17 21:26:50
シービー @MrCB_Harukaze

そのとき、容堂の側近に退助と小笠原唯八がおり、「正義之者」と紹介し、両名は涙を流したという。一蔵は君臣の関係さすがと久光側近中山中左衛門に手紙で退助らを褒めている。

2023-06-17 21:26:56
シービー @MrCB_Harukaze

退助は、容堂上京の際護衛として同志50人を連れていくことを提案している。そして土佐勤皇党が暗殺を一人実行した場合、対抗としてこちらはその巨魁(武市半平太)を殺すと触れ回った。それに対して抗議に来た武市を追い返したと回想している。

2023-06-29 00:15:08
シービー @MrCB_Harukaze

東洋暗殺以来勢いを増す下士中心の土佐勤皇党に対して容堂の側近であった板垣が反発したものであろう。容堂上京の際は退助も蒸気船大鵬丸に乗り上京し、文久3年(1863)1月25日に京都に着く。

2023-06-29 00:15:40
シービー @MrCB_Harukaze

容堂は公武合体主義であったが、3月4日に14代将軍徳川家茂が上京、そして攘夷の実行と御親兵の設置を孝明天皇に約束する。この政治展開に怒った容堂は3月26日に京都を発し、4月12日土佐に帰藩した。

2023-06-29 00:15:59
シービー @MrCB_Harukaze

そして容堂は、4月26日に退助を御隠居様側用役を罷免した。退助が尊皇攘夷派であったのが気に入らなかったのであろう。そして、それからは吉田東洋派を登用し始める。

2023-06-29 00:16:15
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)8月18日、薩摩藩、会津藩らの公武合体派は尊皇攘夷派である長州藩、三条実美ら七卿を京から追放した。いわゆる「八月十八日の政変」である。尊皇攘夷派の勢力が打撃を受けたのを見て、山内容堂は土佐勤皇党の弾圧を行う。

2023-06-29 19:39:00
シービー @MrCB_Harukaze

9月21日、首領である武市半平太が京で捕縛され、関係者の捕縛も進んだ。退助は、武市捕縛の日に容堂により再び御隠居様御側御御用役に任命される。そしてその直後すぐに再び解任されるが、10月4日に御馬廻組頭任命される。元治元年(1864)7月24日には町奉行、8月11日には大目付も兼務する。

2023-06-29 19:39:38
シービー @MrCB_Harukaze

大目付は武市らを審理する役目を担っていた。退助は一度だけ武市を尋問している。その際、首領である武市に罪を白状させ他の者は深く究明しないと述べたという。

2023-06-29 19:40:05
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年(1865)閏5月11日武市は切腹した。しかし、退助はその前の元治2年(1865)1月14日に大目付を解任されている。退助自身は尊皇攘夷派であり。武市はともかくとして、他の土佐勤皇党関係者の処刑には消極的だったと言われる。その姿勢を容堂が嫌ったのではと個人的には思う。

2023-06-29 19:40:12
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1867)、退助は江戸に居た。退助は薩摩藩士吉井友実と面会する。退助と吉井は、退助の前回江戸勤務から5年の仲であった。吉井は薩摩と土佐の協力、退助は容堂に諫言を決意したと伝わる。この頃から退助は、単なる尊皇攘夷派ではなく尊皇倒幕派に変化したとも言えるかも。

2023-06-30 21:38:44
シービー @MrCB_Harukaze

諫言のため?慶応3年5月19日、退助は京都に到着するが、山内容堂への目通りは叶わなかった。退助は、次の手として、5月21日土佐藩浪士石川清之助(中岡慎太郎)の仲介を経て在京の谷守部(谷干城)、毛利恭助らとともに薩摩藩家老小松帯刀、西郷吉之助(隆盛)、吉井友実と会談する。

2023-06-30 21:39:03
シービー @MrCB_Harukaze

退助は、このとき、30日以内に土佐藩で討幕の兵を編成して上洛する。できなかったときには切腹すると西郷らに約束したと伝わる。いわゆる「薩土盟約」である。

2023-06-30 21:39:07
シービー @MrCB_Harukaze

薩土盟約は、退助や西郷らが個人的立場で合意したものであり、藩どうしの盟約とはいえないというのが実際であろう。そのころの土佐藩は佐幕派の勢力が強く、山内容堂も後藤象二郎の大政奉還を支持していた。5月22日、退助は容堂に謁見し、やむを得ないときは兵力を用いるよう諫言したと言われる。

2023-07-22 15:07:36
シービー @MrCB_Harukaze

退助は、その決心がなければ「薩長の門に御馬を繋ぐことになる」と言ったと回想している。だが、四侯会議がうまくいかず、5月27日、山内容堂は土佐に帰藩すべく京都を出発、退助もこれに随行した。帰藩後、退助は6月13日軍備御用兼帯大目付、7月24日仕置役へ昇進し、土佐藩の執政、軍政を担う。

2023-07-22 15:07:42
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1867)7月、京都から後藤象二郎が帰藩する。そして、「大政奉還」を山内容堂に進言。容堂はその献策を喜び、公武合体も政令統一が眼目であるとして大政奉還に賛成する。翌9日、後藤象二郎と寺村左膳は藩主山内豊範にも大政奉還を進言し、賛成を得ている。

2023-07-26 18:38:02
シービー @MrCB_Harukaze

土佐藩重役の中で唯一大政奉還に反対したのは板垣退助であった。しかし、最終的には退助も同意する。8月20日、藩主豊範は家老以下に、近々朝廷と幕府に献策することを告げ、命令に従うことを命じた。さらに同日、容堂から後藤、寺村に建白の次第が委任された

2023-07-26 18:38:51
シービー @MrCB_Harukaze

ところが、退助は「討幕攘夷」を主張し、容堂の意に沿わない言動を見せる。そして容堂の意向により、退助はアメリカ出張を命じられさらに、21日、軍備御用役も免職となったが、米国出張は断った。

2023-07-26 18:39:20
シービー @MrCB_Harukaze

退助は、薩摩藩が京都で挙兵した際は、退助らの一党で東国で挙兵するとい手紙も書いていいたようで、後藤はさすがにこれが容堂に漏れたら命は助からないと心配したようである。心配した清岡半四郎は退助を脱藩させることを考える。

2023-07-26 18:40:01
シービー @MrCB_Harukaze

だが退助は「これはすでに容堂公に申し上げている」として脱藩はしなかった。容堂は「退助という男は過激なことをするが、国のため、あるいは主君のためにやっている」と言ったという。大政奉還後の10月19日、退助は藩での役職をすべて解任された。

2023-07-26 18:40:32
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が発せられ、山内容堂は議定に任ぜられた。容堂は前将軍徳川慶喜を巡り参与の岩倉具視と小御所会議で対立する。そんな中、徳川慶喜と旧幕府軍は大阪城に退き、薩摩藩、長州藩らと対立する。

2023-07-27 19:09:40
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年(1868)1月3日、旧幕府軍と薩摩・長州軍が衝突し、鳥羽伏見の戦いが始まる。山内容堂は、これを私闘とし、在京の土佐藩兵の戦闘参加を禁じる。

2023-07-27 19:09:59
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、1月4日土佐藩の山田喜久間と吉松速之助の小隊が戦闘に参加する。さらに、二川元助、山地忠七の小隊、北村長兵衛の砲隊も容堂の戦闘禁止令を無視して戦闘に参加した。彼らは板垣退助が兵制改革を実施したときに任命された隊長たちであった。

2023-07-27 19:10:04
シービー @MrCB_Harukaze

鳥羽伏見の戦いは薩長を中心とした新政府軍の勝利に終わる。1月7日明治新政府は徳川慶喜追討令を発布。最終的に東征大総督有栖川宮熾仁親王の指揮下で各地方に宣布総督兼鎮撫使が組織される。そのころ土佐藩では、1月8日、板垣退助が迅衝隊大隊司令兼仕置格に任命される。

2023-07-28 21:51:47
シービー @MrCB_Harukaze

迅衝隊は鄕士を主体として役600名の特別編成の隊であり、小軍監には谷干城も名を連ねている。迅衝隊は1月13日に土佐藩を出発、20日は高松藩を降伏させ、1月28日に京都に到着した。退助は山内容堂を説得し、佐幕派を失脚させ藩論を武力討幕に統一させる。

2023-07-28 21:52:02
シービー @MrCB_Harukaze

2月9日、退助は東山道先鋒総督府参謀に任命された。迅衝隊はそのまま退助の指揮下に入り、土佐藩の中核軍として戊辰戦争を戦う。このとき、谷干城は大軍監に大出世している。

2023-07-28 21:52:16
シービー @MrCB_Harukaze

迅衝隊は東山道先鋒総督岩倉具定に従い、2月18日、大垣に到着する。ここで板垣退助は谷干城の進言を採用し、隊を二手に分ける。一隊は東山道本隊の碓氷峠・高崎経由に従い江戸に入る。退助が率いる別働隊は甲州街道から江戸に入る、という戦術である。

2023-07-29 18:26:38
シービー @MrCB_Harukaze

このときまで、退助は乾姓を名乗っていたが、先祖(と称する)の板垣信方にあやかり、乾から板垣に改姓する。おそらく、甲州街道を進軍する際、甲斐を攻めることになるための配慮であろう。このことは檄文で甲斐に伝えらた。

2023-07-29 18:27:14
シービー @MrCB_Harukaze

3月5日、退助は甲府城を落とし、さらに、翌6日、近藤勇が火切る甲陽鎮部隊を勝沼で破った。その後進軍を続け、3月18日、江戸市ヶ谷の尾張藩邸に入る。

2023-07-29 18:27:25
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年4月11日、江戸城が無血開城される。大鳥圭介ら旧幕府軍の一部は江戸から脱走し北関東で抵抗を続ける。板垣退助と土佐藩兵はこれを追い、日光に進軍する。

2023-08-05 22:31:57
シービー @MrCB_Harukaze

当時日光附近にいた大鳥軍は諸事情で4月28日、29日にかけて日光から退去した。退助、大鳥双方に事情があり、退助が大きな行動をした訳ではないが、なぜか退助は「日光の恩人」とされ、1929年12月には、退助の軍人姿の銅像が建設される。

2023-08-05 22:32:46
シービー @MrCB_Harukaze

5月1日、退助率いる土佐藩兵は白河城に入る。この後、新政府軍は進撃を続け、6月24日棚倉城、7月26日三春城、7月29日二本松城を陥落させた。残るは会津城である。8月21日、板垣退助と薩摩藩伊地知正治の両参謀は母成峠を攻めて23日には会津若松城下に突入した。

2023-08-05 22:33:25
シービー @MrCB_Harukaze

会津藩の抵抗は激しく。8月23日の戦いでは、退助配下の大軍監牧野群馬ら退助の幹部の数人が戦死する。退助は、狼狽して敗走する兵士に抜刀し、叱咤し、激励したという。会津藩は籠城し、抵抗を続けたが、9月22日に降伏した。

2023-08-05 22:33:56
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)10月19日、戊辰戦争を戦った土佐藩兵は江戸増上寺の本営に凱旋した。11月1日、退助は明治天皇に拝謁し。御太刀料金300両や天杯などを下賜された。11月23日、退助は土佐藩陸軍総督に任命され、家老格として780石を藩から与えられる。

2023-08-05 22:34:06
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)3月25日、板垣退助は土佐藩の論功行賞であらためて家老格として加増600石領地200石を与えられている。新政府からも諸藩に対して論功行賞が行われ永世禄が下賜される。土佐藩士は、板垣退助は1000石、後藤象二郎は1000石、福岡孝弟は400石であった。

2023-08-06 19:24:30
シービー @MrCB_Harukaze

なお、家臣身分としては、薩摩西郷隆盛が2000石。薩摩大久保利通1800石、長州木戸孝允1800石、長州広沢真臣1800石、長州大村益次郎1500石である。それに次ぐ恩賞を拝受しており。新政府も退助の働きを認めていた。4月9日、退助は新政府の参与に任命される。

2023-08-06 19:25:08
0
まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.