「楽しく……なって、きたかな」何かを確認するようなアリカさんのささやかな笑顔に、桐生くんは問いを重ねる事をやめた様子でした。「それなら、いいんじゃない。楽しいのが一番だよ」「そうかな」いつになく真摯な声色で桐生くんは答えました。「そうだよ。ほんとだよ」43
2019-09-01 21:45:00【CM】白亜の塔で一生の思い出を――海を見下ろす展望台、風と自然のガーデン、ARやPMが鮮やかな屋内式場などが揃って、お二人の門出に華やかを添えます。シャトー・ブランのウェディング
2019-09-04 20:30:00サザンカ月【11月ごろ】の曇り空。アリカさんが、冷たい風の通り過ぎる第三ルーフのドアを開くと、楽器の音が聞こえてきました。44
2019-09-04 21:02:00眉を寄せながらいつもの場所へ足を向けると、スカートの下に運動着のズボンをはいた桐生くんが、木製のバイオリンを演奏していました。ウィッグもウィッグネットも外して、手と鼻の頭を真っ赤にして、真剣な面差しで音に集中しています。アリカさん、思わず立ち止まってしまいました。45
2019-09-04 21:06:00やがて、大きなため息をついた桐生くんがアリカさんに気が付いて、弓を持った右手を振ったことで、ようやくアリカさんは体が動いたようでした。46
2019-09-04 21:07:00「桐生、楽器弾けるんだ」「習ってる」桐生くんは、お家の方針で、学習塾の他に三つの資格塾、テニスにも通っているそうです。「さぼってたの?」桐生くん、何かと理由を付けて、全部の教室にほとんど出席していません。47
2019-09-04 21:12:00それを知っているアリカさんが尋ねると、「そんなわけないじゃん」棘のある言い方で否定した桐生くん。アリカさんが鞄の持ち手を握る手を見て、慌てて駆け寄ります。「ごめんー! 八つ当たりしちゃった! これは、マジのやつなの。ちゃんと通ってる」右手に持った弓のネジ部分で頭をかきました。48
2019-09-04 21:14:00「こっちこそごめん。からかったりして」いいよ、と言うように桐生くんは首をふりました。「そっちが走り終わるぐらいで俺、今日帰るよ。コンクール近くて、レッスン延長してもらうんだ」桐生くんが指揮棒のように右手を振るさまに、アリカさんは靴を履き替えながら笑顔になります。49
2019-09-04 21:17:00「好きなんだね」桐生くんは、アリカさんが見たことのない穏やかな顔で頷きました。「楽しいんだ。上手く言いにくいけど、ちゃんと自分だなーって感じがして。でも、あんまり……家の人は分かってくれないね」50
2019-09-04 21:21:00桐生くんが『家の人』と言う時は、出て行ったお父さん以外の家族の事です。お母さんと、上のきょうだいたち。「もし家の人の言う通りに生きるのが正しいなら、俺はすごく間違えてる。服もそうだし、音楽もそう」左手でバイオリンの弦をはじきます。51
2019-09-04 21:23:00「でも、音楽もファッションもないなんて、どっかで死ぬと思う」桐生くんのお母さんは、学校関係の案件を扱う弁護士です。理想どおりの航路へ、ご自分の子どもたちを導くことを、お仕事とは別のライフワークにしています。その方針の違いから、桐生くんのお父さんはお家を出て行ってしまいました。52
2019-09-04 21:26:00アリカさんの肩越し、遠くを見る桐生くん。アリカさんは少し首を傾けて、桐生くんの大きな目を見ました。「桐生は、偉いよ」アリカさん、「桐生は」を強調して言います。「楽器も服も、続けてるじゃん。戦ってんじゃん。偉いよ」桐生くんは、アリカさんと数秒目を合わせて、照れ笑いを浮かべました。53
2019-09-04 21:29:00「……俺でいるために必要だから」桐生くんは背筋を伸ばし、もう一度バイオリンを構えました。「なんか、語っちゃってごめんね」アリカさんは何か言おうとして、結局、首を横に振りました。「全然。邪魔しちゃったね。聞いてるから。練習、頑張って」54
2019-09-04 21:32:00今日の伴走曲は、友達のバイオリンです。同じ箇所を丁寧に繰り返し練習してから、何度か通して演奏しています。満足できるものだったのか、アリカさんが通るまで待っていた桐生くん、笑って手を振ると第三ルーフを出ていきました。56
2019-09-04 21:37:00