池田屋事件で命を落とした松下村塾三秀の一人
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シービー @MrCB_Harukaze

萩藩は9月14日、吉田稔麿に江戸行きを命ずる。幕府への申し開きのためであろう。このとき、遠近付という八組士に次ぐ位に昇進している(ただし、道中限り)。ところが、突然、稔麿の江戸行きは中止となる。その後改めてお役目を命ぜられるが、これもまた中止となる。

2021-04-02 21:24:10
シービー @MrCB_Harukaze

このころの時勢は複雑で、萩藩としてもやむを得ない事情があったのだろうが、吉田稔麿の気持ちは収まらない。憤慨した稔麿は、脱刀し、剃髪し、細髷を結った。さらに安芸厳島に参拝し、毛利元就墓所を訪問している。

2021-04-02 21:26:58
シービー @MrCB_Harukaze

江戸に着くと、吉田稔麿を以前世話してくれた旗本妻木向休(田宮)が手紙を送ってきた。稔麿は将軍が言い出した攘夷を断行したにもかかわらず、幕府から猜疑を受けたため、その誤解を解くのが目的で江戸にやってきたと返答する。

2021-04-03 18:28:44
シービー @MrCB_Harukaze

妻木は、密かに吉田稔麿と会い、老中板倉勝静への面談を画策する。稔麿が板倉に会えたかは定かでは無いが、密かに面談したと伝える書もある。稔麿はしばらく江戸に滞在し、昔のように妻木と親交を深める。だが、稔麿の本来の目的は達せられなかった。稔麿はその後運命の京都に向かう。

2021-04-03 18:33:48
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)1月15日、吉田稔麿は京都に到着した。孝明天皇は攘夷の方針はこれまでどおりとしながら、三条実美が自分の命を曲げたことや外国艦を砲撃したことを非難し、「必罰せずんばあるべからず」と将軍徳川家茂に対して宸筆の勅旨を発している。ただ、裏で薩摩藩が糸を引いていたようだ。

2021-04-03 18:38:19
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)3月7日、吉田稔麿は京都に到着する。この頃朝廷は島津久光ら諸侯の参与会議で政治の舵取りを行おうとするが、一橋慶喜との対立で会議は分裂した。3月25日、久坂義助(玄瑞)が萩に居る妻フミ宛ての手紙で「吉田年丸も上京している。年丸の母へお伝えなさるべく候」と書いている。

2021-04-05 16:14:48
シービー @MrCB_Harukaze

藩は吉田稔麿に洞春公(毛利元就)と観光公(毛利宗広)の霊牌を守り山口に帰るよう命じた。稔麿は4月15日に山口に到着する。稔麿は「管見」と題する意見書を藩に提出。幕府を非難し、薩摩と会津は仲間割れをすると予測(当たっている)。萩藩は実力を蓄え内修外攘の大功」を立てるべきと説く。

2021-04-05 16:22:39
シービー @MrCB_Harukaze

この頃の吉田稔麿は、「進発論」に反対し「割拠論」を主張していたように思える。このあたりは晋作坊ちゃんに近い考えだったように感じる。藩主毛利慶親は幕府に対し嘆願書を提出しようと稔麿を使者に立てる。稔麿は4月24日に出発し、5月初めに京都に入る。

2021-04-05 16:27:34
シービー @MrCB_Harukaze

今日に入った吉田稔麿は、嘆願書を萩藩京都留守居役桂小五郎に渡す。桂さんは老中の稲葉正邦を通じて将軍徳川家茂に提出する。ひとまずお役目を果たした稔麿は、京で2つの歌舞伎公演見物に出かけ、「両芝居とも大出来にござ候」と両親に手紙を書いている。意外と陽キャかもしれない。

2021-04-05 16:32:49
シービー @MrCB_Harukaze

吉田稔麿は、旧知の旗本妻木に手紙を書き、攘夷を断行しなかった幕府への怒りをあらわにしている。また、5月23日には萩藩中村文右衛門に、列強との戦いは大規模になると藩の防御強化を訴え、自分も帰国して「屠勇急急取建の宿志」を果たしたいと書いている。

2021-04-05 16:39:48
シービー @MrCB_Harukaze

幕府は萩藩に対し、三条実美ら七卿の送還、支藩主らの大阪召喚などを命じる。藩内では来島又兵衛、真木和泉らの「進発派」の勢いが強く、元治元年(1864)6月54日、藩主毛利慶親は世子毛利定広に率兵上京を命じる。進発派は機をうかがう。

2021-04-06 18:43:42
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)6月5日、京では祇園祭りの宵宮の前日であった。この日の夜、三条小橋西にある池田屋という旅籠で志士たちの謀議が行われる。目的は、新撰組に捕らえられた同志古高俊太郎奪還の打合せとも、京都に火を放ち混乱に乗じて天皇を長州に奪い去る計画の算段とも言われている。

2021-04-06 18:48:19
シービー @MrCB_Harukaze

ともかく、この何かの謀議に吉田稔麿や桂さんが関わっていた。京の萩藩邸と池田屋は数百メートルしか離れていない。この日、稔麿は池田屋を訪れ酒肴の準備と数通の手紙の発送を依頼した。池田屋に集合したのは肥後浪士宮部鼎三ら約30名(諸説あり)である。

2021-04-06 18:53:08
シービー @MrCB_Harukaze

志士による不穏な動きを察知していた新撰組は、局長近藤勇、副長土方歳三の二手の隊に分かれ午後十時半ごろから探索を開始する。先に近藤勇隊が池田屋での謀議を発見し、乗り込んでの斬り合いとなった。これに遅れて土方歳三隊も加わる。約二時間程度戦いが続き、肥後宮部鼎三ら多くの志士が命を落とす

2021-04-06 19:01:59
シービー @MrCB_Harukaze

池田屋での犠牲者には長州藩士もいた。広岡浪秀、杉山松介、吉岡庄助、そして、「吉田年麻呂」である。

2021-04-06 19:04:16
シービー @MrCB_Harukaze

吉田稔麿の最期には二説ある。新撰組が斬り込んできたとき池田屋の二階から脱出して萩藩邸までたどり着き、仲間を助けようと再び池田屋に向かい、途中、加賀藩邸前で會津藩兵と出くわし口論の末殺害されたという説。

2021-04-07 16:20:06
シービー @MrCB_Harukaze

もう一つは、新撰組斬り込み時は池田屋にはおらず、その少し前に藩邸にいったん帰り、その後池田屋に向かう途中で加賀藩邸前で殺害されたという説である。

2021-04-07 16:24:41
シービー @MrCB_Harukaze

池田屋事件に関連して命を落とした者は、幕府役人の手で埋葬された。しかし、吉田稔麿(と松山庄助)の遺骸は萩藩が引き取り、東山霊山に埋葬している。遺髪は萩の遺族のもとへ届けられ、松本村の吉田家墓所に稔麿のを建て埋められた。他に、桜山招魂場、朝日山招魂場にも墓がある。

2021-04-07 16:29:58
シービー @MrCB_Harukaze

吉田稔麿の形見は、愛用の懐中であり、その内側には本人の手で「奇才は一世を傾け、妙略は千人を弄ぶ」と書かれていた。吉田家は、妹フサが婿養子を迎えて吉田家を継いだ。

2021-04-07 16:35:50
シービー @MrCB_Harukaze

後に、やじは松陰門下の傑出を問われ一番に吉田稔麿を挙げている。狂介は吉田稔麿と杉山松介のことを思い出し、歌を二首詠んでいる。 (完)

2021-04-07 16:49:02
シービー @MrCB_Harukaze

なお、他の長州藩士ですが、広岡浪秀は池田屋を逃れて長州藩邸付近で絶命。杉山松介は長州藩邸に辿り着いて危険を知らせたが、重傷のため翌日死亡。吉岡庄助は、茶屋近江屋で飲酒中のところ桑名や会津の手勢に襲撃されて死亡。という最期を遂げたと伝わる。

2021-04-07 16:51:10
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.