池田屋事件で命を落とした松下村塾三秀の一人
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シービー @MrCB_Harukaze

天保12年(1841)閏1月24日、吉田栄太郎(稔麿)が萩松本村新道の萩藩十三組中間・吉田清内の長男として生まれる。号は風萍軒。母はイク、後に11歳違いの妹フサが生まれる。中間身分であったため、吉田姓は公認されていなかった。 pic.twitter.com/V3ZVN1cDZe

2021-03-23 19:25:56
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嘉永元年(1848)2月3日、吉田栄太郎は、久保五郎左衛門の私塾に入学している。この塾には、数年遅れて俊輔が入塾する。俊輔が後に「一人稔麿には一籌を輪し」と学問ではかなわなかったと回顧している。栄太郎は自負してか「天下を家とするとか下級役人では終わらない」と周囲に語っていたという。

2021-03-23 19:33:16
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嘉永6年(1853)3月6日、吉田栄太郎は父と一緒に、参勤で江戸に向かう藩主毛利慶親(敬親)に従い江戸に出発する。栄太郎のお役目は「江戸番手道中御到来御昼旅籠払方手子」である。要は旅籠の手配などをする役目である。

2021-03-23 19:37:51
シービー @MrCB_Harukaze

吉田栄太郎が江戸に着いて間もなくの6月3日、ペリー提督が率いる黒船が浦賀沖に来た。7日には幕命が下り、萩藩でも江戸詰の藩士約500名と火砲3門、和銃100丁で大森海岸の警備についた。栄太郎は加入を願いでたが、子どもなので却下された。このとき松陰先生や桂さんも黒船と遭遇している。

2021-03-23 19:45:41
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安政元年(1854)1月11日、吉田栄太郎は「伊豆の沖へ米国より大船七艘参り候と申す注進有り」と日記に記している。ペリーの再来である。栄太郎は14日に本牧まで黒船見物に行く。そして、4月26日、藩主毛利慶親に従い帰国の途につき、5月26日に萩に着く。

2021-03-24 17:49:40
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帰国した吉田栄太郎は、13人の師に就き学んだという。安政2年(1855)9月2日、栄太郎は再び藩主参勤のお供で萩を出発。今度は江戸番御番手御昼水というお役目で、要は藩邸の茶室の下働きである。道中10月2日に安政大地震に遭遇し、上屋敷で古木を取り除く作業に従事していた。

2021-03-24 17:58:47
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そこに藩主世子毛利定広が通りかかり、吉田栄太郎の働きを気に入り小姓として取り入れられる。安政3年(1856)2月19日に帰途につき、3月18日に萩に到着する。栄太郎は身分は低いが藩主のお供をしていたことや日記をつけていたこともあり、比較的動向がはっきりしている。

2021-03-24 18:02:32
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密航未遂事件を起こした松陰先生は、安政元年10月24日萩に送り返されている。最初野山獄に投ぜられたが、安政2年12月15日に獄から出され杉家で謹慎となっている。その後3代目松下村塾を主宰する。その頃塾に通っていた増野徳民という医者の子が近所の吉田栄太郎を誘い11月25日に塾に連れて来た。

2021-03-24 18:09:46
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は、吉田栄太郎に対し、まず立身出世の学問を進める。栄太郎はそれを否定し、次に主君を諫めない臣が智賢だという書物を読ませるが、栄太郎はこれにも反発した。これは松陰先生の入門試験であろう。この後、栄太郎は塾に通い読書に専念する。

2021-03-24 18:14:13
シービー @MrCB_Harukaze

松下村塾入塾後の吉田栄太郎は熱心に学問をし、安政3年12月には「晋語」「日本外史」「孝経」「国語」「唐鑑」などを読んだ。年が明けて1月2日は、もう塾に来て経済要録を読んでいる。この頃になると松浦亀太郎、久坂玄瑞らも続々と入門して来る。

2021-03-25 18:12:52
シービー @MrCB_Harukaze

吉田栄太郎はさらにまでに「孟子」「武教全書」「三国志」「坤與図識」など大量の書物を読む。ただ、栄太郎は学問にムラがあった。松陰先生は「しこうして修学則ち怠る」と日記に書いている。栄太郎は安政4年5月に松陰先生に諱と字をお願いして、夫々「秀実」「無逸」を頂いた。

2021-03-25 18:21:21
シービー @MrCB_Harukaze

余談だが、松陰先生は増野徳民に「無苔」、松浦亀太郎に「無窮」の字を与えて「三無」呼んでいる。吉田栄太郎は松陰先生が塾生の間で喫煙が流行しているのを見て嘆いていると知り、皆の前で鉛管を折って禁煙を誓う。他の塾生もそれにならった。先生は生徒の自発的行為を大変喜んだという。

2021-03-25 18:27:32
シービー @MrCB_Harukaze

ちなみに、牛・裃を着けた坊主、木剣、棒きれを描いて、棒きれは狂介のことだと言った逸話は有名だが、真偽の程は定かでない。

2021-03-25 19:15:48
シービー @MrCB_Harukaze

安政4年(1857)9月5日、吉田栄太郎は17歳となり、江戸番手御供小使として藩主慶親の参勤に従い、3度目の江戸に向かって萩を発つ。松陰先生は、上張地に「愚心の注するは菲薄にはこれなく候」という手紙送っている。また、江戸の桂さんに栄太郎を紹介する手紙を書いた。「前途期すべしと存じ候」と。

2021-03-26 19:46:20
シービー @MrCB_Harukaze

吉田栄太郎は、10月5日に江戸へ到着。その後、萩の松陰先生に江戸の情報をこまめに手紙を送っている。また、12月25日には家に多くの借金があるため、働かなければならないため、江戸でのお勤めが多いことまで書いている。そういう境遇ではなかった先生がどれほど理解できたかは定かでない。

2021-03-26 19:51:17
シービー @MrCB_Harukaze

安政5年(1858)6月10日に吉田栄太郎から叔父里村文左衛門に贈った手紙には、幕府が米国のいいなりになっていると憤っている。そして、勘定奉行利川路聖謨と大目付岩瀬忠震が公家に条約締結許可を願う書面を差し出したら公家に撥ね付けられたことを「心よし」と書いている。

2021-03-26 19:58:31
シービー @MrCB_Harukaze

この頃吉田栄太郎は、幕府は勅許無しで条約締結に踏み切ることを予測し、乱世が始まると手紙で述べている。外様であった萩藩が表舞台に立つチャンスとみて心が躍ったであろう。

2021-03-26 20:03:11
シービー @MrCB_Harukaze

安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が結ばれる。これを知った松陰先生は激怒し、将軍討伐を叫ぶ。だが周囲は、過激に走る先生を持て余す。萩に居た入江杉蔵(九一)は江戸の吉田栄太郎に「栄太郎早々帰れ、先生のもりにこまる人ばかり」と手紙を送る。太郎が帰国の途につくのは10月15日である。

2021-03-27 21:01:10
シービー @MrCB_Harukaze

萩藩は過激な松陰先生を「学術不純にして人心を動揺す」と、老中間部詮勝暗殺の企みにより自宅厳囚を命じ、12月5日夜、先生を再び野山獄に投じようとした。これに対し、吉田栄太郎、佐世八十朗、入江杉蔵、品川弥二郎ら8名の塾生は藩重役周布政之助の邸宅に押しかけ抗議したが、6日全員謹慎に処された

2021-03-27 21:05:08
シービー @MrCB_Harukaze

八十朗は久坂玄瑞からこのときの不尽力を責められ「実に面目なく汗顔の至りに候えども、時宜を得、一死をもって答え申し候」と述べている。この頃から吉田栄太郎は松陰先生から離れてゆく。家族・親戚から諫められたようだ。身分が低く貧乏な家のため藩に仕事をもらえなくなることを恐れたのだろう。

2021-03-27 21:06:58
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は父の病気を理由に投獄は猶予され、12月24日夜、八十朗と入江を連れて吉田栄太郎の家を訪ねている。先生は、栄太郎に対し強談判に及ぶ。栄太郎は「われはまさに俗吏を学ぶべきのみ」と先生をにらみつける。先生はそのときの栄太郎の声が後々まで耳から離れなかったという。

2021-03-27 21:08:18
シービー @MrCB_Harukaze

12月30日、謹慎となった8名のうち、佐世ら士分のもの5名が宥免されたが、中間である吉田栄太郎ら3名には沙汰がなかった。3名が許されたのは、年明けの安政6年(1859)1月25日である。

2021-03-27 21:10:40
シービー @MrCB_Harukaze

安政5年(1858)12月24日、桂さんが萩に帰ってきて、松陰先生を訪ね、幕府の嫌疑を受けぬよう注意した。また、晋作坊ちゃんと久坂玄瑞も江戸から「義旗一挙」を手紙で諫めた。だが松陰先生は「僕は忠義をなす積もり、諸友は功業をなす積もり」と絶交を言い渡す。塾生は次第に先生から離れていく。

2021-03-28 18:54:56
シービー @MrCB_Harukaze

12月26日、松陰先生は再び野山獄に投じられる。そんな中、なぜか松陰先生は吉田栄太郎に対してのみ執着する。安政6年(1859)1月23日、栄太郎に手紙を書き、なぜ音信を絶つのかと激しい口調で抗議する。両親を思う気持ちは私情であり、今は通用しない。お互い一生懸命思っているのになぜ答えないと。

2021-03-28 19:03:25
シービー @MrCB_Harukaze

吉田栄太郎は、松陰先生の手紙に返信しなかった。翌27日、入江に「無逸は暢夫に似るが小才がきくのが玉に傷であり、そのため気迫が足りない」と述べる。一方「二人とも他人の言いなりにならない高等な人物」とも言う。さらに、栄太郎は自分に似ていて、坊ちゃんや久坂と共に自分の良薬とも言う。

2021-03-28 19:12:33
シービー @MrCB_Harukaze

2月23日には「栄太郎の心は死んでいる」「松下村塾で塾生に香を焚かせ、その心死を弔わせた」と非難する手紙を吉田栄太郎に送った。栄太郎からの返信はない。先生は、やり過ぎたと思ったのか、2月15日、前言を撤回する手紙を書く。

2021-03-28 19:17:24
シービー @MrCB_Harukaze

吉田栄太郎は、松陰先生の手紙には返信せず、先生から送られた「両秀録跋」「名字説」を返却してきた。師弟関係を解消したいという意思表示であろう。先生は泣きながら「受け取れない」と言い、栄太郎が「只々天地間不朽人」になってくれることを願うようになる。

2021-03-28 19:22:15
シービー @MrCB_Harukaze

ちなみに、2月5日には久坂玄瑞も萩に帰国しており、獄をたびたび訪ねるうちに、4月ごろには松陰先生もようやく絶交を解き再び心を通わせはじめる。5月13日には江戸の晋作坊ちゃんに「ご安心くださるべく候」と手紙を書いている。

2021-03-28 19:31:42
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生が江戸に向かった日、吉田栄太郎は、隣家である大野家の娘タツの配慮で、同家の杉垣の穴から松陰先生を見送った。先生は涙を落とし、持っていた生姜漬を一握り栄太郎に与えた。栄太郎も涙を流したという。

2021-03-29 21:42:33
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は、10月27日に江戸で処刑された。安政7年(1860年) 2月7日、晋作坊ちゃんや久坂玄瑞ら塾生が杉家で松陰先生の百日祭を行う。吉田栄太郎は、百日祭に出席していなかったが、百日間家に籠もり喪に服し、精進していたという。

2021-03-29 21:48:11
シービー @MrCB_Harukaze

万延元年(1860)9月1日、吉田栄太郎は兵庫備御番手を命ぜられ赴任する。ところが、栄太郎は10月に兵庫の陣営から姿を消す。「脱藩」である(さすがは長州男児)理由は定かではないが、里村の叔父・叔母に「嘔吐下痢が八幡宮に祈ったら治癒したので全国の八幡宮参りに出かけると手紙を書いている。

2021-03-29 21:55:52
シービー @MrCB_Harukaze

脱藩した吉田栄太郎は、各地を探索し、一揆を扇動する機会を模索したようだ。これは松陰先生の草莽崛起に影響を受けたのであろう。「四国見分」という自筆の書が残されている。この四国とは丹波、丹後、但馬、出雲を指す。

2021-03-30 19:00:35
シービー @MrCB_Harukaze

吉田栄太郎は、最初丹波を目指したが道が塞がれていて入国できなかった。その後山陰を巡った後備前の岡山城下に潜伏するが突然、文久3年(1861)3月19日、江戸に入る。岩間水之丞という変名を使っている。4月14日から大塚に移りそこで起居した。これは桂さんや久坂の援助によるものと言われる。

2021-03-30 19:05:50
シービー @MrCB_Harukaze

この頃の吉田栄太郎は、読書と女郎買いをしていると萩藩士来島又兵衛に知らせている。そして、母宛に「毎夕風呂に入れるからいんきんにならずに済んだ」と手紙で知らせている。母は手紙は嬉しかったであろうが、内容が・・・

2021-03-30 19:08:41
シービー @MrCB_Harukaze

吉田栄太郎は、8月ごろ、幕府旗本妻木田宮のもとで起居する。松里久輔という変名を使い、正体は伏せたままである。おそらく、幕府側の情報を収集するためであろう。妻木は栄太郎を気に入り、勇という名を与え、他家への使いなどに出していた。さらに、下級旗本の株を買ってやるとまで言い出す。

2021-03-30 19:14:30
シービー @MrCB_Harukaze

文久2年(1862)5月、吉田栄太郎は妻木に自分の正体を明かしている。時勢的に萩藩直目付長井雅楽の「航海遠略策」を引っ込め、薩摩藩が台頭してきた時期である。栄太郎は妻木に対して薩摩藩の活動阻止と攘夷断行を訴えた。妻木は幕府の上層部に意見書として差し出したが、幕府は妻木のお役目を免じる。

2021-03-31 18:09:19
シービー @MrCB_Harukaze

6月2日、妻木は長男に家督を譲り隠居する。吉田栄太郎は居づらくなったのか、妻木家を出て萩藩復帰を目指して京へ旅立つ。7月17日、京に入った栄太郎は萩藩世子毛利定広に脱藩の罪を詫びた。本来なら厳罰に処されるところ、態度神妙ということで赦され、世子への奉公を認められる。

2021-03-31 18:13:36
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩士の脱藩は藩ぐるみで優しい処置までがほぼお約束。萩藩はその前の7月6日に京の河原町で御前会議を開き、藩論を奉勅攘夷に定めている。吉田栄太郎の主張や探索行動に理解を示したとも言える。11月13日、早速栄太郎と野村和作(靖)は家老益田弾正から熊本藩宛の手紙を届ける用を言いつかっている

2021-03-31 18:20:01
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)1月8日、入江九一(杉蔵)、山県小輔、品川弥二郎らが、3月20日には伊藤俊輔が松陰に師事し、尊皇攘夷の大義を弁知し心得宣しきとの理由で士雇に昇格する。足軽・中間から士分になり名字や帯刀が許された。栄太郎は十三組中間に復帰した。脱藩者を簡単に士分にするのは憚られたのだろう

2021-03-31 18:28:16
シービー @MrCB_Harukaze

栄太郎が脱藩の罪にこだわり、もっと功績を挙げてから昇格させるよう頼んだという説がある。

2021-03-31 18:30:07
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)3月4日、第14代将軍徳川家茂は、上洛し、4月21日に5月15日をもって攘夷断行と奏上する。これに先立ち4月15日、久坂玄瑞をはじめとする30名あまりは、長州下関に向かう。攘夷断行期限がきたら関門海峡を渡る外国船を砲撃するためである。この集団の中に吉田栄太郎もいた。

2021-04-01 21:20:43
シービー @MrCB_Harukaze

吉田栄太郎が号として風萍軒を名のったのはこの頃かららしい。光明寺を本拠とした久坂や栄太郎は5月10日に予定どおりアメリカ商船を砲撃。続いて23日にはフランス、26日にはオランダ艦も砲撃する。だが、6月1日にアメリカ軍艦による反撃を受け、長州軍艦は壊滅的被害を被る。

2021-04-01 21:27:15
シービー @MrCB_Harukaze

この頃、吉田栄太郎は親兵として6月3日に京都に向かって旅立っている。5日にフランス海軍の反撃を受け、前田砲台が破壊される。驚いた萩藩主毛利慶親は晋作坊ちゃんを御前に呼び意見を求めた。坊ちゃんは奇兵隊結成を提案する。なお、この少し前、5月11日、聞多と俊輔が英国に密留学のため渡る。

2021-04-01 21:34:55
シービー @MrCB_Harukaze

上京した吉田栄太郎は、堀真五郎と淀の探索に出ている。探索を終えた栄太郎は藩邸に家茂は小笠原長行とは合流しないと藩邸に報告した。栄太郎の予想は当たった。家茂は大阪に向かい江戸に帰ってしまう。

2021-04-01 21:39:20
シービー @MrCB_Harukaze

7月1日、赤禰幹之丞(武人)、野村和作が士雇に昇格する。吉田栄太郎も7月5日に士雇に昇格した。栄太郎は喜び、母に宛て「偏に(松陰)先生のおかげにござ候」と手紙を送っている。

2021-04-01 22:03:05
シービー @MrCB_Harukaze

昇格に伴い吉田姓も公認されるが、八組士に同姓同名の「吉田栄太郎」が居たために、栄太郎は藩から改名を命ぜられる。椿八幡宮神主青山上総に「年麻呂」とつけてもらった。ちなみに栄太郎は「年麿」「年丸」「とし丸」「稔丸」と自署しているが「稔麿」という自署は見当たらない。

2021-04-01 22:06:51
シービー @MrCB_Harukaze

孝明天皇は、攘夷を断行した萩藩に勅使正親町公薫を派遣し、藩主親子に褒勅を与えた。吉田稔麿(栄太郎改め)はこの褒勅を晋作坊ちゃんと奇兵隊に伝えるべく、文久3年(1863)7月9日、下関阿弥陀寺を陣営を訪ね、そのまま留まる。

2021-04-02 21:03:24
シービー @MrCB_Harukaze

この後、奇兵隊と幕府の間でいざこざが起きる。7月23日、幕府は中根市之充(どっかで聞いた名前だ)を使いとし、朝陽丸で関門海峡に繰り出す。奇兵隊士は憤り、8月19日夜中根一行を襲撃し、中根ら数名の死者を出す。吉田稔麿はこの事件の問題解決に乗り出す。

2021-04-02 21:10:17
シービー @MrCB_Harukaze

吉田稔麿は、奇兵隊を説得して朝陽丸から撤退させ船を幕府に引き渡す交渉をはじめる。中根暗殺を知った幕府はすぐさま報告のため9月4日、朝陽丸で帰途につく。稔麿は交渉の場で忠臣蔵になぞらえて長州藩士の忠誠を説いたため幕吏は感激したという逸話があるが、まぁ、作り話でしょう。

2021-04-02 21:14:46
シービー @MrCB_Harukaze

8月18日、いわゆる「八月十八日の政変」が起きる。23日には萩藩にその一報が届く。吉田稔麿は、長州の真意を幕府に伝えるべきと考えた。『東風不競密話』という幕府と萩藩の経緯をまとめた書を記している。弁明すればかならず真意は伝わると考えるあたり、やはり松陰先生の弟子である。

2021-04-02 21:20:12
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.