真は誠に偽に似、偽りは以て誠に似たり
0
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人は調停の方策を探り、吉川監物、秋良敦之助、木谷(世良)修蔵、芥川十右衛門らと会って説いたが、結局賛同を得られなかった。赤禰は失意のうちに故郷の柱島に帰り潜伏した。この行動も逃げたという印象を与えてしまう。さらに、幕府から十五万石のお墨付きをもらったというデマを拡散される。

2021-09-08 18:58:40
シービー @MrCB_Harukaze

12月27日、赤禰武人捕縛の命を受けた槇村半九郎(正直)が農兵を率い柱島に渡ってきた。庄屋の中富十兵衛は自決を勧めたという。赤禰は法廷で申し開きをすると縛についた。一説では中富の息子が人質として捕らえられたため出てきたという。

2021-09-08 19:06:29
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰は捕らえられる間際に、「猛虎猶豫不如蜂蠍忽螫 騏驥跼促不及駑速駆」という詩を書く。”虎もためらっていたらハチやサソリが刺すのに劣る”という意味で、才能があっても努力しないと平凡な人に劣るという意味から、自身の境遇を詠んだものと言われる。

2021-09-08 19:13:26
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人は法廷で弁明することを期待していたが、裁判らしいものは一度も開かれなかった。慶応2年(1866)1月18日、赤禰に対する罪案が作成される。幕府に捕らえられていた際「存外之書面」(京で投獄された際幕府に提出した意見書「急務五目」のこと)と長州に戻って来た際数十日隠れていたという罪状

2021-09-09 13:11:02
シービー @MrCB_Harukaze

刑は「斬首の上、三日間の梟首」と厳しいものであった。赤禰は自分の弁明が許されないなら、長府藩士時田光介に聞いて欲しいと伝えるが、それも許されなかった。刑の執行は、1月25日に決まった。赤禰の獄衣には「真は誠に偽りに似、偽りは以って真に似たり」と記され、赤禰の無念さが表れている。

2021-09-09 13:18:43
シービー @MrCB_Harukaze

処刑場は山口鰐石河原で、赤禰は引き立てられる途中で突然立ち止まり、役人が「急ぎませ」と促すと、赤禰はいきなり、「下郎」と呼び溝に蹴り落としたという。斬首は一の太刀で失敗。二の太刀で成功したという。享年二十九。

2021-09-09 13:25:53
シービー @MrCB_Harukaze

刑執行後、赤禰武人の首は梟され、腸も竹串に刺してさらされ、遺体は人の往来が頻繁な場所に埋めて通行人に踏ませたと言われる。首はその日の夜に奪われて行方が分からなくなっている。奇兵隊が持ち去ったとも、女性が持ち去ったとも言われる。

2021-09-09 13:28:38
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人が処刑された後、長府藩主毛利元周は斬首(になる?)の報を聞き、弁明のために馬に乗って駆けつけたが間に合わなかったという。晋作坊ちゃんは死の間際に医師杉義介に「先に武人の心中を洞察することは能はず、其生命を保たしめざりしは遺憾とするところなり」と後悔の念をもらしたという。

2021-09-10 15:36:47
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人の霊は、桜山招魂場、靖国神社にも祭られることなく、長い間その名誉回復は徹底して許されなかった。

2021-09-10 15:47:05
シービー @MrCB_Harukaze

明治22年(1889)明治政府は、西南戦争で政府と敵対した西郷隆盛に対し、正三位の贈位(追贈)を行った。これにより西郷は復権した。その後、維新に功績のあった者の贈位が次々と行われる。長州藩では、吉田松陰(正四位)、高杉晋作(正四位)などが贈られた。

2021-09-10 15:56:17
シービー @MrCB_Harukaze

明治44年、赤禰武人の義弟赤禰篤太郎が『故赤禰武人に対する贈位申請書』を、当時贈位を審議していた史談会に提出する。史談会は贈位に値すると結論を出した。そして、貴族院と衆議院両院(帝国議会)でも採択決議を得た。史談会会長大原重朝は、11月2日、赤禰をよく知る山県有朋に意見を求める。

2021-09-10 16:03:39
シービー @MrCB_Harukaze

大原は、赤禰武人の功績を記した『報効志士人名録』を山県に贈り、贈位に同意してくるように依頼している。対して山県は、「報効志士人名録中、赤禰武人之条(略)大分誤謬之廉有之候」として、明治45年(1912)1月、七千字の長文の反対意見書を提出する。これには三浦梧楼の反対意見書も添えられていた

2021-09-10 16:09:03
シービー @MrCB_Harukaze

山県の意見書より。赤禰は「赤間関の砲台設置と奇兵隊組織作りに関わっていない」「赤禰が総督になったのは9月ではなく10月」「下関戦争では命令も出さず逃走し、隊士たちは憤ぎっていた」「総督を辞任して阿月に帰った際、密命を受けて上京したというがそうではない」(続く)

2021-09-11 16:00:12
シービー @MrCB_Harukaze

「辞任して阿月に帰った際、自分は総督を任せられていない」そして「元治元年の俗論派と正義派の争いの際、”諸隊は赤禰の論には同意していない”」「高杉が諸隊を説得する際に”赤禰は一農夫、自分は譜代の家臣”とは言っていない」などと記されている。

2021-09-11 16:05:18
シービー @MrCB_Harukaze

梧楼は、赤禰は「総督に成るや衣服を美にし」「日夕遊里に出入りせり」「ことさらに倨傲尊大の風あり」と述べる。さらに下関戦争では「総督の馬標先づ影を没す(敵前逃亡したという意味)」「鳥尾小弥太も”赤禰は逃げた””武士にあらず“と言って廻ったという話しも伝える。

2021-09-11 16:10:31
シービー @MrCB_Harukaze

当時、山県有朋と三浦梧楼はお世辞にも仲が良い関係とは言えず、それなのにこれだけの共同戦線を張っている。やはり、山県だけでなく、当時の奇兵隊、諸隊全体、引いては藩上層部らにとってとって赤禰の名誉回復はよほど望まないものだったと言える。

2021-09-11 16:13:48
シービー @MrCB_Harukaze

山県らの意見書は、総督就任時期のように間違いの箇所や史料が残っていないため真偽不明なものがある。一方で、下関戦争での敵前逃亡は、『白石正一郎日記』に「惣管赤禰踏みとどまり」「異人上陸、赤禰はじめ多人数行」と記されており、他の史料と照らし合わせて事実ではない主張も見られる。

2021-09-11 16:19:16
シービー @MrCB_Harukaze

なお、『奇兵隊日記』では下関戦争での上陸戦の部分が抜け落ちている。奇兵隊日記は、晋作坊ちゃんが藩に対して効を主張するためとして記録しており、戦争時の記録がないのは不自然とも言える。しかし、奇兵隊日記では他にも何カ所が記録がない部分も存在する。会津侵攻前後などである。

2021-09-11 16:23:07
シービー @MrCB_Harukaze

記録の抜け落ちについては、狂介が抜き取ったという説があるが、そういう事実もあるので、一概にそうとは断言できない部分もある。明治45年2月、赤禰篤太郎は赤禰武人の贈位のための講演を行っている。淵上郁太郎が贈位(福岡藩・正五位)された以上、赤禰も同様に扱われるべきこと(続く)

2021-09-11 16:28:39
シービー @MrCB_Harukaze

長府藩士への書簡や養母などに宛てた手紙で功績が明らかなこと、高杉晋作が死の直前に赤禰を死なせたことを後悔していたこと、当時の年齢や地位では鳥尾小弥太には総督を批判する資格や理由がなかったこと、藩内両派の争いに建言書を提出したこと、などを述べている。

2021-09-11 16:31:24
シービー @MrCB_Harukaze

これに対しても山県有朋は「藩内両派の争い時赤禰は阿月に帰っていて建言書には関わっていない」「突然帰隊して俗論を述べ立てた」「高杉の後悔の話しは聞いていない」「明治の軍隊制度とは異なるので鳥尾も憤ぎっていた」「淵上の贈位は知らないので是非は言えない」と述べる。

2021-09-11 16:35:06
シービー @MrCB_Harukaze

その後、大正15年(1926)には内閣官房が赤禰の功績調査を行うが「後半に対しては異論を生ずるものも(略)後日の詮議に譲られ」と結論を保留した。さらに、昭和17年(1942)「式年(明治天皇崩御30年のことか?)の機会に調査すると結論されたが、贈位制そのものが打ち切られ、赤禰への贈位は叶わなかった

2021-09-11 16:41:51
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人の墓は、斬首から38年後の明治35年に許されて、遺体が刑場跡から引き取られ、遺族によって埋葬された。墓所は養子先の阿月に建てられた。赤禰の娘リウの夫・中富信次郎の要請で故郷の柱島に分骨されそこにも墓が建てられた。 pic.twitter.com/1k1If60f0Y

2021-09-12 17:40:31
拡大
拡大
シービー @MrCB_Harukaze

昭和28年(1953)1月25日(処刑の日ですね)、処刑場の鰐石河原に赤禰武人の顕彰碑が造られた。が、以前として名誉回復は為されなかった。その後、昭和46年(1971)高杉晋作百五年祭の記念事業として奇兵隊および諸隊士顕彰墓地が東行庵の隣接地に造られる。

2021-09-12 17:47:14
シービー @MrCB_Harukaze

諸隊兵士の多くは10、20代の独身の若者で遺族が居らず、時が経つにつれて無縁仏になり、墓石も荒れ果てたり、ぞんざいに扱われる例が多かったようです。これを嘆いた当時谷玉仙庵主が寄付を募り、墓地を造成しました。その後次々に元隊士らが迎えられました。

2021-09-12 17:52:44
シービー @MrCB_Harukaze

谷玉仙庵主は、墓地を造った頃、関東にいるという噂で赤禰武人の遺族に手紙を出したそうです。しかし、遺族からの返事はなかったとのこと。意図は分かりませんが、100年もの間の苦しみやわだかまりは、「墓地」と言われてもすぐに解けるものではなかったのかもしれません。

2021-09-12 17:57:04
シービー @MrCB_Harukaze

平成7年(1995)5月、一坂太郎先生のところにMさんと言う方から電話がありました。Mさんは赤禰武人の実弟の曾孫にあたるとのこと。赤禰武人の墓地を東行庵に建てたいと希望します。東行庵はMさんの申し出を受け入れ、遺族からの寄付もあり、同年11月11日、赤禰武人没後130年を記念した墓碑が完成します。 pic.twitter.com/lnbLByyzKs

2021-09-12 18:04:52
拡大
シービー @MrCB_Harukaze

墓碑完成の記念法要には、全国から赤禰家と中富家ゆかりの約60人が集まったと言います。 赤禰は「白皙長身、眉目清秀ノ偉丈夫ナリ」と言われ、色白で背が高い美青年だったようですが、写真・肖像画が残っていません。そのため、似ていたという実弟・松村剛をモデルに肖像画が描かれています。(間) pic.twitter.com/tOabkgPRLT

2021-09-12 18:11:09
拡大
0
まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.