真は誠に偽に似、偽りは以て誠に似たり
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シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人は、天保9年(1838)1月15日、周防柱島の医者松崎三宅、光恵夫妻の長男として生まれた。家は、兄弟が女十人、男三人の大所帯であった。幼少の頃から秀才と評判であった。嘉永6年(1853)15歳で柱島を出て、遠崎の浄土真宗妙円寺の海防僧月性に師事する。

2021-08-31 18:51:46
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人の才能を見込んだ月性は、安政元年(1854)阿月村の郷校克己堂に入学することを勧める。克己堂は阿月の領主で萩藩士浦靱負(うらゆきえ)が創設したものである。安政2年(1854)、一度柱島に戻り、庄屋中富十兵衛の娘マキと結婚し、婿養子となる。

2021-08-31 19:00:01
シービー @MrCB_Harukaze

再び柱島を出て克己堂で学ぶが、安政3年(1855)月性の紹介で萩で松下村塾を運営する吉田松陰に師事する。増野徳民や吉田栄太郎と同じ頃の最初期の塾生である。しかし、すぐに父親が病気となり、赤禰は8月22日に柱島に帰省(吉田松陰『丙辰日記』)したため、松陰先生とはしばらく音信不通になる。

2021-08-31 19:06:11
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人は、安政4年(1856)に浦家の重臣赤禰中右衛門の養子となり、陪臣ではあるが、武士の身分となる。松崎→中富→赤禰と18年ほどで名字が2回変わったことになる。この縁組みについて松下村塾にいるときから吉田松陰は相談を受けていた。

2021-08-31 19:12:16
シービー @MrCB_Harukaze

「養子の策は僕初めより失計」「阿月一村に牢籠」と反対している(安政4年1月26日 月性あて書簡)。要は武士身分になれば阿月で暮らしてフットワークが重くなることを心配している。その手紙の中で「天下の人材となり候よう望む」記し、かなり期待していたようだ

2021-08-31 19:17:09
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、その頃には赤禰武人は既に赤禰家の養子となっていた。一方月性は、武人が武士身分となることで自由な活動ができると期待していたようだ。その後、赤禰は阿月を訪れた梅田雲浜に従って京に登る。

2021-08-31 19:22:25
シービー @MrCB_Harukaze

安政4年(1857)、赤禰武人は上京し、旧小浜藩士梅田雲浜が主宰する望楠軒で学ぶ。さらに江戸にも遊学し、剣術を斉藤弥九郎、柔術を小林藤吉、経書を桜仁蔵・羽倉簡堂に学んだ。安政5年、赤禰は梅田のもとに戻る。

2021-09-01 19:35:42
シービー @MrCB_Harukaze

梅田は安政の大獄に連座し、安政5年'1858)9月7日、京で幕吏に捕らえられる。その際赤禰は、関係書類を焼き捨てたが自身も捕らえられ投獄される。その後、長州藩京留守居役福原与三兵衛や養父赤禰中右衛門の周旋で釈放され、24日、阿月に帰り謹慎する。

2021-09-01 19:41:37
シービー @MrCB_Harukaze

その後、10月に赤禰武人は萩に赴く。そして、松陰先生から「伏見獄舎を破壊し、大和の土民を糾合して梅田雲浜を救え」と指示を受ける。赤禰は上京し、救出を図るが藩に察知され、拘束され、12月に養父赤禰忠右衛門に連れ戻される。赤禰は藩の取り調べを受け、安政6年(1859)1月、阿月で謹慎処分となった

2021-09-01 19:49:11
シービー @MrCB_Harukaze

その頃、松陰先生は、老中間部詮勝要撃策などで再度獄中の身であった。獄中で伏見要駕策を実行しようとし、入江九一、野村和作に案を打ち明ける。和作は、上京前に松陰先生に面会し、「武人の協力が得られないか」と頼んだが、先生は「君の目には武人しか見えないのか」と答えている。

2021-09-01 20:00:46
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生はこの時のやり取りを「これを聞けば(略)必ず助力をしてくれるだろう」と赤禰宛に書簡を書き、松浦松洞へ送り阿月の赤禰に届けて欲しいと依頼するが、松洞はこれを断ったため、赤禰には書簡は届かなかった。

2021-09-01 20:03:44
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人の謹慎が許されたのは、万延元年(1860)4月である。だが、このとき、赤禰の師匠である、月性、梅田雲浜、松陰先生の3人は、すでに亡くなっていた。赤禰は、5月から白井小助を助けて克己堂で講義を行っている。(意外なところで繋がる白井小助)

2021-09-01 20:09:05
シービー @MrCB_Harukaze

万延元年(1860)4月、赤禰武人の謹慎が解かれる。そして、阿月領主浦靱負に従い、兵庫の警備のため上京する。この頃、久坂玄瑞、佐世八十朗らが京都所司代酒井忠義襲撃を計画し、梅田雲浜の姪山田登美子に協力を求めた。赤禰は登美子に、酒井は梅田の主君であり、梅田の心に背く」と話す。登美子は断る

2021-09-02 18:23:37
シービー @MrCB_Harukaze

文久2年(1861)7月、萩藩の方針が奉勅攘夷となり、赤禰武人も松下村塾の同志と攘夷運動に奔走する。11月、高杉晋作、久坂玄瑞ら金沢で外国公使襲撃を計画するが未遂に終わる。続いて、12月には御殿山焼イギリス公使館を焼き打ちする。この少し前、11月26日の御楯組結成にも加わっている。9番目に血盟。

2021-09-02 18:30:13
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)1月5日、晋作坊ちゃん、俊輔、山尾庸三、白井小助らと松陰先生の遺骨を改葬する。赤禰武人はその後いったん京に登るが、5月10日の攘夷期限が迫ると久坂と共に帰藩する。光明寺党の一員として外国艦砲撃に参加し、6月7日に奇兵隊が結成されるとすぐに入隊している。

2021-09-02 18:36:25
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰は、滝弥太郎、入江九一と共に藩正規軍に対して勧誘したという。14日、奇兵隊は本陣を白石正一郎邸から阿弥陀寺に移す。その際、赤禰は玄関に「不拒来者、不追去者、犯法者罰、為賊者死」と隊規を書いた。そして、7月1日、赤禰武人は同じく浦家の家臣であった白井小助と共に萩藩の士雇となる。

2021-09-02 18:44:35
シービー @MrCB_Harukaze

浦家の家臣という陪臣でありながら本藩直属の士分として登用されたことは、萩藩が赤禰を高く評価していたものであり、同時に政務役、赤間関辺軍政取計も姪背される。政務役はかなりの上級職である。藩の期待の高さがうかがえる。

2021-09-02 18:48:46
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)10月2日、教法寺事件の責任を取って奇兵隊総督を辞めた晋作坊ちゃんの後任で滝弥太郎と共に第二代奇兵隊総督となっていた河上弥市が、七卿の一人沢宣嘉を奉じ、船で三田尻を脱出する。(後に生野の変を起こす。

2021-09-03 18:02:34
シービー @MrCB_Harukaze

河上の脱走で、文久3年(1863)10月4日「赤禰武人、右、奇兵隊総管之御用取計被仰付候条」との沙汰があり、残った滝弥太郎と共に奇兵隊総督に就任。赤禰は第三代総督と言われるが、当初は河上の変わりでいわば第二代総督代行のような位置付けと考えて良い?その後滝が藩庁に出仕、単独の第三代総督となる

2021-09-03 18:09:38
シービー @MrCB_Harukaze

単独での総督となった赤禰武人は、元治元年(1864)4月23日、嘆願書を藩政府に差し出す。奇兵隊士の名員帳が添えられ「(略)多くは匹夫下賎のものにござ候え共(略)何卒格別の後詮議を以て、入隊中一同士列に准ぜられ候」と記されている。隊士をすべて「士列」にして欲しいというのである。

2021-09-03 18:18:35
シービー @MrCB_Harukaze

藩政府は赤禰武人の嘆願を採用しなかった。幕末とはいえまだ封建社会であり、縦の序列・秩序は絶対的なものであったろう。そして、藩政府上層部は赤禰に対して強い反感を抱く。八組士の山県弥八郎は同じ八組士の佐世八十朗に赤禰を激しく非難する書簡を送っている。

2021-09-03 18:24:15
シービー @MrCB_Harukaze

余談ですが、結果から見ると、この嘆願が後の赤禰の悲劇に強く結びついているように思います。晋作坊ちゃんは、才能や意気のあるものを身分を問わず奇兵隊隊士としたが、決して、身分を平等にしようとはしていなかった。だから、藩から睨まれずに済んだのでしょう。

2021-09-03 18:27:12
シービー @MrCB_Harukaze

藩政府は、赤禰の嘆願を危険視したのか、元治元年(1864)6月21日、「馬関出張中の面々」に対して袖印着用の命を出す。藩士は白絹地、足軽以下は晒布に「何条何某組」と記載、陪臣も士格は絹、それ以外は晒布とし、主人の姓名を書く。苗字が公認されていないものは名だけ書く。という命である。

2021-09-03 18:33:35
シービー @MrCB_Harukaze

藩政府の狙いは身分の明白化であることは明らかで、さらに、7月2日には再度袖印の着用厳守の命が出されている。赤禰の嘆願は(主張の正しさは置いて)思惑とは逆方向に作用した。なお、この袖印が廃止されたのは、明治元年(1868)4月、王政復古後、戊辰戦争中のことである。

2021-09-03 18:39:18
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)8月5日、四ヵ国連合艦隊が馬関襲来する。長州藩では、赤禰武人総督率いる奇兵隊、他に膺懲隊、荻野隊、藩正規軍が奮戦し、奇兵隊は狂介の第一分隊が壇ノ浦砲台、赤禰の第二分隊が前田砲台を守備する。同日前田砲台は壊滅した。6日、赤禰は陸戦に備える。

2021-09-04 15:53:00
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人は壇ノ浦砲台の狂介と角石で合流し、外国の陸戦部隊と戦闘に入る。戦闘は激しく、奇兵隊は6度まで敵を退けたが7度目で力と砲弾が尽き退却した。戦闘は8月14日、晋作坊ちゃん、聞多、俊輔らの講和で終結した。10月10日、赤禰武人は持病と眼病が悪化したと、突如、藩に奇兵隊総督辞任を願い出た

2021-09-04 16:00:00
シービー @MrCB_Harukaze

その際、後任に山県狂介を推薦し、いったん阿月へと帰っている。その後、10月24日に藩政府から赤禰を呼び出すように命令がくだり、11月中旬、奇兵隊に戻っている。この頃、長州藩は、7月19日の禁門の変で幕府が征長の軍が派遣し、11月18日を攻撃の期日とし、藩の存続の危機であった。

2021-09-04 16:06:22
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩では、俗論党(保守派)が正義派(改革派)に変わり藩政を握った。俗論党は幕府への恭順を示すため、の政治を行ってきたが、幕府に反抗する危険がある諸隊に対しても10月21日に解散を命じる。さらに禁門の変の責任を取らせて三家老・四参謀を処罰する。

2021-09-04 16:11:23
シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊に戻った赤禰武人は、長府藩を通じて藩政府と交渉し、前田孫右衛門ら正義派の復職や諸隊の継続を目指している。11月25日、赤禰は時山直八らと萩に行き、交渉を行っている。12月8日に奇兵隊に戻る。この頃には「五卿の九州移転を認め、諸隊を鎮静化させる」ことで諸隊の存続の見込みが出来てきた

2021-09-04 16:17:58
シービー @MrCB_Harukaze

俗論派の台頭に身の危険を感じた晋作坊ちゃんは、元治元年(1864)10月24日、萩の自宅から脱出する。湯田温泉に聞多を見舞い、27日徳地の奇兵隊陣営を訪ね、軍監狂介と今後を討議する。(総督赤禰は辞職を願い阿月に帰郷中)このとき、晋作坊ちゃんは「ともし火の 影細く見える 今宵かな」の一句を残す

2021-09-05 17:07:07
シービー @MrCB_Harukaze

おそらく、晋作坊ちゃんは狂介に武力攻撃による政権奪取を持ちかけたが狂介が拒否したのであろう。晋作坊ちゃんは時期を待ち、同志を募るために九州筑前に渡り、その後福岡郊外の平尾山荘で野村望東尼に潜伏した。そのころ、晋作坊ちゃんが三家老・四参謀の処刑を耳にし、「俗論派」打倒のため帰藩する

2021-09-05 17:13:34
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人は、晋作坊ちゃんの武力革命に猛反対する。藩政府との調和を進めている最中で、諸隊解散を止められるかどうかの瀬戸際である。一方、坊ちゃんに味方する隊もあった。太田市之進が総督を務める御盾隊である。太田は決起を約束する。さらに高橋熊太郎が軍監を努める「遊撃隊」も賛同する。

2021-09-05 17:20:18
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰や諸隊の幹部たちは、次々と太田市之進のもとを訪ね、計画の中止を求めた。太田はやむを得ず計画を中止する。これを察した晋作坊ちゃんが12月12日、御盾隊の陣営を訪ねてきた。酒に酔い「暴吟放歌傍若無人なり」という風であったという。総督太田市之進、書記品川弥二郎、客分野村靖之助らがいた。

2021-09-05 17:26:07
シービー @MrCB_Harukaze

三人は、諸隊一致にて行動すべきときと、晋作坊ちゃんに思いとどまるよう説得する。これに対し高杉晋作は「君らは赤禰武人に欺瞞せられたる者か。そもそも武人は大島郡の一土民のみ。何ぞ国家の大事、両君公の危急を知らせる者ならんや。君らは予を何と思うや。予は毛利家三百年来の世臣なり。

2021-09-05 17:30:53
シービー @MrCB_Harukaze

あに武人ごとき一土民の比ならんや」と有名な演説を行った。だが、感情的になった晋作坊ちゃんの言葉に賛同するものはいなかった。坊ちゃんは失意のうちに席を立ち下関に向かう。「谷梅之進馬関へ脱走」、奇兵隊日記には、そう書かれている。

2021-09-05 17:38:56
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんの演説を好意的に見れば、「それほどの古くからの忠臣が決起しようとしているのに、なぜ起たん」と奮起を促したとも思えます。また、俗論派と妥協し、身の安全と地位を守ろうとしている諸隊幹部らへの怒りとも思えます。

2021-09-05 17:43:21
シービー @MrCB_Harukaze

後に、赤禰武人は養母ミホに宛てた手紙で「高杉晋作一手遊撃隊私の議論ききわけ申さず、下関新地の一暴挙致し候てより、萩俗論家共たちまち約束にそむき、(略)」と、前田孫右衛門らが処刑されたことは晋作のせいだと言っている。

2021-09-05 17:47:14
シービー @MrCB_Harukaze

下関に移動した高杉晋作は、俊輔の寓居を訪ねる。この頃俊輔は、禁門の変で隊長が戦死した力士隊を預かっていた。晋作坊ちゃんは俊輔を説き、力士隊80人だけで新地の藩会所を襲撃することにする。挙兵当夜、御盾隊陣営に立ち寄り「真があるなら今月今宵、あけて正月だれも来る」と大声で怒鳴る。

2021-09-06 19:10:35
シービー @MrCB_Harukaze

御盾隊は賛同しなかったが、石川小五郎が遊撃隊を率いて参加した。元治元年(1864)12月15日夜、高杉晋作は長府功山寺に暇乞いと称して五卿に謁見する。謁見後「是よりは、長州男児の腕前お目に掛け申す」と叫び、下関の新地藩会所を襲撃した。いわゆる「功山寺決起」である。 pic.twitter.com/ih1WWG24yW

2021-09-06 19:21:55
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シービー @MrCB_Harukaze

高杉晋作の行動に対し、藩政府は、前田孫右衛門、松嶋剛蔵ら七人を投獄して斬首した。これについて赤禰武人が義母に手紙で「下関新地の一暴挙(略)有志の人々をさんりくしたり」と晋作坊ちゃんの行動を嘆いていることはすでに書いた。

2021-09-06 19:25:55
シービー @MrCB_Harukaze

当初挙兵に反対していた奇兵隊だが、12月26日、藩政府が諸隊鎮静追討兵を出陣させたため、反俗論派に傾く。挙兵に反対した赤禰武人は、難しい立場に置かれた。さらに、隊内から赤禰を切る、の声も聞かれるようになり、身の危険を感じ、福岡に逃れる。慶応元年(1865)1月2日「脱走」と奇兵隊日記に記載

2021-09-06 19:38:48
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人のことを呟いているのに晋作坊ちゃんがメインになっているが、このあたりは赤禰の悲劇に強い影響を与えたと思うので書いちゃいました。

2021-09-06 19:41:16
シービー @MrCB_Harukaze

この頃の赤禰武人は、萩藩はまず朝敵の汚名を返上しないと何も進まない。内戦などしている場合ではない。戸考えていたようだ。赤禰は慶応元年(1865)1月23日、長府藩士の時田光介に書状を送り、長府藩主への面会を求めている。少し時間が過ぎたころ、赤禰は下関に戻ってくる。

2021-09-07 19:46:16
シービー @MrCB_Harukaze

2月8日、白石正一郎の屋敷で、時田光介、中岡慎太郎、薩摩藩士吉井幸輔らと薩摩藩との和解について会談している。3月ごろ、福岡藩早川勇が五卿の上洛援助のため上京することになる。これに赤禰武人と久留米藩士淵上郁太郎が同行を依頼し、船で大阪に向かう。このとき「柴屋和平」という変名を使用する

2021-09-07 19:51:20
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰は大阪への船上で養母と伯父に手紙を書いている。その中で五卿と西郷隆盛に面会したことを記している。西郷が長州藩を助けて朝廷を奉じ、幕府を倒す考えがあると「感じた」ため上京して会いに行くとしている。一方、下関では諸隊から「不義者」「臆病者」と罵られ「切れ」「突け」との言を受けた

2021-09-07 19:57:08
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんの挙兵に反対した手前、合流するには誰かを「悪役」にして責任を被せなければならなかった。おそらく山県が赤禰の不在を良いことに都合のよいストーリーを作り、「自分たちは決起したかたが、赤禰が反対したからできなかった」としたのではないか(一坂太郎『長州奇兵隊』)

2021-09-07 20:01:37
シービー @MrCB_Harukaze

西郷に会うために上京したが、赤禰武人と淵上郁太郎は3月27日に幕吏に捕らえられ、京都の六角牢に投獄される。赤禰は投獄に際して意見書を提出するが、これが後の罪状に記される「存外の書面」とされる。

2021-09-07 20:06:14
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年(1865)11月3日、赤禰武人と淵上郁太郎は釈放される。当時は第二次長州征伐が迫っていたが、幕府と長州藩の調停のためと言われるが、赤禰から申し出たのか幕府が強制したのかは定かではない。大目付永井主水正と新撰組近藤勇、伊東甲子太郎、武田観柳斎らと、11月16日、広島に入り、釈放された

2021-09-08 18:45:17
シービー @MrCB_Harukaze

萩藩は、すでに高杉晋作のクーデター、内訌で勝利し、正義派の政権が確立しており、幕府との和解など考えられない状況であった。赤禰は、福岡への脱走や上京などで長州藩の情況が把握できておらず、戦争回避・調停が行えると考えていたのかもしれない。それが、赤禰断罪の決定的な理由となった。

2021-09-08 18:50:46
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.