斗南藩知事となる松平容大は、明治3年(1870)11月3日に五戸に到着する。当初、藩の役所は五戸に置かれていたが、すぐに田名部に移設される。容大が田名部に移るのは、明治4年(1871)2月15日、五戸を発ち、18日に田名部に到着する。円通寺に藩庁が置かれ、幼少の容大の住まいに隣りの徳玄寺が用意された
2021-10-08 15:06:19斗南藩に移住した者の当面の最大の問題は、住居でっあった。当面は、原住民の離れなどを使わせてもらっていたが、藩として移住者の住居を用意する必要がある。明治3年7月、『斗南藩改革調』に「田名部から4Km余りのところに広野があり(略)区割りを設置する」とあり、開発計画は前からあったと推測
2021-10-08 15:13:24「斗南ヶ丘」の建設と同時期に藩庁建設の計画もあったようだが、諸事情で円通寺のままとなった(資金不足?)。「斗南ヶ丘」は、堀井戸18箇所、明治3年(1870)10月には一戸建て約30棟、二軒続き約80棟が完成し、200戸が入居した。
2021-10-11 20:16:18実は、なお、大平(田名部の西、上陸の地大湊の山沿い)にも30棟建設され「松が丘」と呼ばれたと伝わるが正確なことは現在では分からなくなっている。地元民からすれば、大平の方が市街地まで通いやすかったと思う。斗南ヶ丘は文字通り丘にあり、坂道4Km徒歩(特に冬)はきつかったであろう
2021-10-11 20:20:48住居の次は、開墾である。が、ここで大きな問題が発生する。農具がない=資金がないのである。斗南藩は周囲の藩に援助を求める。明治4年(1871)2月29日付けで権大参事山川浩が要請文を書き「斗南藩士族卒」の名で哀願書を送っている。これに対して弘前藩は、現金で千両、鋤桑を5百両相当寄付している。
2021-10-11 20:26:08弘前藩は早い段階で奥羽越列藩同盟から脱退しており、いわば会津藩とは敵として戦った藩である。しかし、宗家・近衛家の説諭に従ったまでであり、会津藩や同盟側に敵意はなかった。斗南藩の苦境に同情を抱く藩士が多くすぐに寄付があつまったという。斗南藩はこれ以外にも寄付を沢山受けている。
2021-10-11 20:29:51旧斗南藩の地図はこちら。秩父宮両陛下御成記念碑のあたりが斗南ヶ丘。 pic.twitter.com/uUHQZlQKbW
2021-10-11 20:37:43早稲田大学図書館大隈文書の「斗南事情」には、明治4年(1871)初夏、斗南藩士の大半の家に鍬1丁が配られた。弘前藩からの寄付によるものであろう。原住民にはは畑・種・農具を貸したり農作業を指導してくれた人もいたが「割り当てられた寄宿先によって幸不幸が生じているのは仕方ない」と記されている。
2021-10-12 19:12:45そんなこと当たり前である。原住民には原住民の生活がある。あの厳しい土地で自分らのことだけで精一杯になるのはあたり前である。むしろ、指導してもらったことに感謝すべきと思うが。民は別に「来てくれ」と頼んだわけではない。
2021-10-12 19:15:56自活の難しい人のために斗南藩は「救貧所」を建設する。衣食住を提供し、職業訓練を行う場所である。田名部のほか野辺地、五戸、三戸にも建設している。しかし、相変わらず資金不足であったため、三戸では原住民が凶作にもかかわらず建設資金として400両(約3000万円)斗南藩に寄付している。
2021-10-12 19:21:43