過去のモーメント『斗南のこと』の追補です。 https://twitter.com/i/moment_maker/preview/1333294511636709381
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シービー @MrCB_Harukaze

後に斗南藩藩主、版籍奉還により知藩事となる松平容大は明治2年(1869)6月3日、鶴ヶ城下御薬園(松平家別荘)にて、会津藩主松平容保の初めての実子男子として生まれる。幼名は慶三郎。この頃、会津藩は取り潰されており、名目上松平喜徳(のぶのり:徳川慶喜の実弟)が藩主的役割であった。

2021-09-20 16:35:50
シービー @MrCB_Harukaze

この頃、松平容保は鳥取藩、喜徳は久留米藩の藩邸に幽閉されていた。会津戦争時に城内で戦った藩士354人は御苗代、場外で抵抗したもの1744人は塩川(現喜多方市)で謹慎していた。それらに関係した婦女子らは近郊の村々に住まわせられていた。

2021-09-20 16:39:28
シービー @MrCB_Harukaze

それらは、さすがに一藩の藩士と家族をそのままには出来ず、明治政府も過渡期の措置と考えていた。岩倉具視は東北諸藩の沙汰を議定・参与に諮っていた。福井藩松平春嶽などは「会津・庄内・仙台・米沢4藩主には斬首を宣告した上で、天皇の名で死を赦す」という結構強硬な意見を提出している。

2021-09-20 16:43:50
シービー @MrCB_Harukaze

(まぁ、しかし、最終的には助命という意見である)。12月7日、松平容保・喜徳親子に「死一等を減じて之を永禁錮に処し、その封土を没収」という詔書が発せられる。仙台・庄内・盛岡・長岡・二本松・棚倉は、藩主謹慎、領地没収するが、家名は存続と沙汰された。

2021-09-20 16:51:08
シービー @MrCB_Harukaze

明治政府は松平容保の死罪免除の引き替えに「首謀者」の調査を飯野藩藩主保科正益(まさあり)(会津松平家の親戚にあたる)に命じる。保科家は田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛の名を報告する。このうち、田中、神保は会津戦争籠城で自決しており、生きているのは萱野だけであった。

2021-09-21 15:54:58
シービー @MrCB_Harukaze

そんな中、萱野が罪を被るを申し出る。明治政府は萱野に対して打ち首を命じるが、保科家は武士の対面を全うさせるため切腹としている。萱野は明治2年(1869)5月18日、保科家別邸で切腹する。

2021-09-21 15:58:58
シービー @MrCB_Harukaze

余談ですが、大河ドラマ『八重の桜』では柳沢慎吾さんが萱野権兵衛を演じていました。切腹シーンのリハーサルで「あばよ!」と言い、周囲を爆笑させたという逸話があります。(真偽は分かりません)

2021-09-21 16:01:40
シービー @MrCB_Harukaze

当時、会津では謹慎場所から脱走した旧藩士が新政府役人を殺害する事件が頻発しており、明治2年1月6日、猪苗代謹慎組を東京へ、塩川謹慎組を越後・高田に預け替えを行う。さらに、治安維持として元会津藩士に対して取り締まりを命じている。

2021-09-21 16:06:00
シービー @MrCB_Harukaze

時間を少し戻す。慶応4年(1868)8月23日、新政府軍が鶴ヶ城下に集結し、会津藩家老田中土佐、神保内蔵助が自刃する。そして、1か月に及ぶ籠城戦が行われるが、4日米沢藩が降伏、続いて明治元年(1868)9月10日に仙台藩も降伏する。会津藩主松平容保は9月19日、降伏していた米沢藩本営に降伏の使者を出す。

2021-09-22 19:38:33
シービー @MrCB_Harukaze

秋月悌次郎と手代直右衛門に無条件降伏の取り次ぎを依頼させ、9月22日午前10時、北追手門前に「降伏」と書かれた白旗が上がった。降伏式が行われ、藩主会津容保自ら降伏状を政府軍軍監中村半次郎に手渡した。ここに会津藩は事実上、滅亡した。

2021-09-22 19:42:56
シービー @MrCB_Harukaze

容保と喜徳父子、容保の義姉照姫らは妙国寺で謹慎。城内の遺体400は二の丸の空井戸と梨畑付近の空き地に「埋葬」された。場外の遺骸は、降伏一週間後の10月1日に設置された民政局(占領地管理機関)が翌2日に郊外の戦死者を「埋葬」するように通達を出した。

2021-09-22 19:49:15
シービー @MrCB_Harukaze

会津藩士が10月3日から遺骸捜索と埋葬を行った。(「旧藩御扶助被下候惣人別」「戦死屍取始末金銭入用帳」より。2017年に会津若松市立会津図書館元館長野口信一氏が発見し、発表)実は、新政府による埋葬命令の存在を示す資料はこれが初めてではない。

2021-09-22 19:54:24
シービー @MrCB_Harukaze

元会津史学会会長大塚寛氏が約50年前に「御用留記」を「会津若松市史」に発表している。また、幕末史家伊藤哲也氏が全国に散在する史料を纏め「戊辰戦争戦死者埋葬の真実」として2011年に「歴史春秋」73号に発表している。

2021-09-22 19:59:01
シービー @MrCB_Harukaze

では、埋葬禁止令の話しがどこからでたのか。後に斗南藩に移住する者が「辰之日記草稿」として降伏前の9月10日に「食獣に食せられ創口より虫を生じ」「埋葬すべき暇だに無き」と記録する文書があり、”降伏前”の悲惨な光景が強く残り伝説化した可能性がある。

2021-09-22 20:04:01
シービー @MrCB_Harukaze

また、降伏直後に埋葬令が出されたと言っても、1160と言われる戦死者すべてをきちんと土を被せて低迷に埋葬できなかであろう。伊藤哲也氏が発見した新政府側史料「神保八左衛門上書」には「戦死者が溝にあふれ醜態見るに忍びない」とある。

2021-09-22 20:08:26
シービー @MrCB_Harukaze

また、飯盛山の白虎隊士を葬った肝煎(世話人)が投獄されたことが言われるが、この頃の(今でもそうだが)「遺体を扱えるのは本来それを仕事とする人だけ」だったからである。つまり、埋葬は禁止していなくても、遺体を扱う資格のある人が直ぐに見つからずしばらく放置されたこともあるだろう

2021-09-22 20:13:45
シービー @MrCB_Harukaze

ただ、埋葬令は出されたが、改葬は禁じられた。後に明治2年(1869)に改葬、明治5年(1872)に墓石建立が許可される。「墓が無いのは埋葬といえない」という気持ちは分からないでも無い。しかし、民政局は福井、加賀などの藩士から選ばれており、埋葬問題に直接関与していない薩長を恨むのは筋違いであろう

2021-09-22 20:21:11
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)9月28日、松平容保の永預けの沙汰が緩和される。翌日、家名存続の血脈之者を願い出よと保科家に申し渡される。当然、慶三郎(容大)を意図したものである。なんだかんだ言って、会津の処置は新政府から優遇されている。

2021-09-23 19:52:50
シービー @MrCB_Harukaze

10月17日、慶三郎の諱が容大に決定する。この諱は元公用方で後に斗南藩小参事となる広沢安任が命名したという。11月3日、新政府は容大を華族に列し、「陸奥国三万石」を領地として家名再興を許可する。

2021-09-23 19:57:09
シービー @MrCB_Harukaze

新領地は「陸奥国」である。その広大な土地の中から新政府が選ぶということである。旧会津藩領は、旧国名の陸奥国から切り離されて「岩代国」となっていた。つまり、当初から松平容大の新領地は旧会津藩領ではない場所に決まっていたのである。

2021-09-23 20:01:47
シービー @MrCB_Harukaze

一方で、岩倉具視が奏上した「岩倉提議」には蝦夷地開拓も示唆されていた。開拓従業者として奥羽の降伏諸藩(終身禁錮に処すべき者、または流罪に処せされる者)を当てる方針である。松平家のお家再興決定の前から東京謹慎組200名が開拓団として北海道に送られている。

2021-09-23 20:06:23
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、北海道開拓は明治3年(1870)1月、新組織「開拓使」に移管される。その動きの中で浮上したのが「陸奥国で三万石」であった。明治2年(1869)11月、さらに詳細に「陸奥国三戸郡、北郡(現青森県下北地方)、二戸郡のうち三万石」と示され、70箇所の村名も付記された。

2021-09-23 20:10:57
シービー @MrCB_Harukaze

元々、このあたりの土地は旧盛岡藩の領地であったが、盛岡藩が賠償金をすべて払えなかったため、新政府の直轄地となっていた。このように後の斗南藩設立の地は決まっていたが、旧会津藩士内で論争が起きる。

2021-09-23 20:14:48
シービー @MrCB_Harukaze

陸奥国への移住を強く推したのは斗南藩小参事となる広沢安任である。安任は文久2年に箱館奉行とロシアとの交渉時に下北地方を通っており、その際「之を朝廷に」請うた、と甥安宅が記録している。

2021-09-25 13:36:04
シービー @MrCB_Harukaze

広沢だけでなく、山川浩(後の斗南藩大参事)や東京謹慎組の重臣等が陸奥国への移住を主張した。ところが、会津取締原田対馬と若松残留組と高田謹慎組は猪苗代への「部分残留」を求めて陳情活動をはじめる。旧会津藩は表高23万石、幕府預かり5万石で実高40万石、一説には68万石とも言われていた。

2021-09-25 13:41:09
シービー @MrCB_Harukaze

そのような大身の藩士らが「陸奥国三万石」(実際にはそれより低いであろう)にはおさまらないと原田らは考えたであろう。もちろん、故郷を離れたくないという人情も影響していると思う。

2021-09-25 13:43:24
シービー @MrCB_Harukaze

ここで「猪苗代部分移住派」と「陸奥国移住派」論争が起きる。山川と広沢が「旧領に残っていると再起を企てていると疑われる」「旧領には海が無く経済発展には不利」「(今後発展が望める)北海道との交易が望める」と主張。(「維新雑誌」より)

2021-09-25 13:46:36
シービー @MrCB_Harukaze

旧領への残留を主張して家名再興が取り消されては元も子もないというのが山川と広沢らの本音であったろう。そんな中、明治2年(1869)5月に若松県が成立し、その知事四条隆平は5月26日、「若松県の歳入は約10万石、3年間に6万石以上の食料を下賜すれば開墾が進む」と陸奥国移住を建言した。

2021-09-25 13:52:08
シービー @MrCB_Harukaze

要は、旧藩士とその家族1万6千人が会津に留まれば莫大な再建費用が必要になり、県統治が困難になるという意見であった。反乱ないしは新統治の邪魔になる旧藩士を遠ざけたいということである。これは四条だけではなく、新政府全体の意志でもあるだろう。

2021-09-25 13:55:16
シービー @MrCB_Harukaze

明治3年(1870)4月、高田謹慎組の野田進、杉浦佐伯、三澤与八、若松残留組の原田対馬、町野主水が上京し、猪苗代湖残留実現を求めて、広沢安任、永岡久茂(後斗南藩小参事、思案橋事件を起こす)、小出鉄之助らと協議を重ねた。

2021-09-27 19:31:55
シービー @MrCB_Harukaze

すでに4月19日には、倉沢平治右衛門率いる東京からの先発隊300が青森の八戸に上陸している。そしてその後続々と移住が実行され、6月には容保の裁定で帰農者以外の陸奥国移住が決定している。それでも、原田らは諦めず、給料残留を政府に打診する。

2021-09-27 19:36:41
シービー @MrCB_Harukaze

原田らが使ったルートは、大久保利通であった。大久保は「帰農するなどして士分でなければ残留も”検討"できる」と応じていたようだ。大久保と面会した赤羽市之充は「山川はなぜ旧国を望まず南部(旧南部(盛岡)藩)を望むのかと問うている。容保が陸奥国への全員移住を決定したの疑問であったのだ。

2021-09-27 19:41:13
シービー @MrCB_Harukaze

この問いへの大久保利通の回答は伝わっていない。明治3年(1870)町野らは9月21に会合し「3万石に移っては全員餓死に倒れるのは明白」として、数十人上京して部分移住を嘆願する。松平容保と会見するが「まずは移住を」と諭され、旧領残留の可能性は消える。

2021-09-27 19:46:20
シービー @MrCB_Harukaze

このように、旧会津藩士内で揉めたのは、新領地が陸奥国に決定して以後(政府からは陸奥国一択で指定)である。政府からは陸奥国と猪苗代の二者択一は提示されていない。さらに、山川ら上級幹部は陸奥国を了承した。その後、一部でも残れないかと旧藩士内で揉めたというのが実際であった。

2021-09-27 19:51:34
シービー @MrCB_Harukaze

昔から、斗南藩の名前の由来と名付け時期は諸説ありよく分からなかった。「明治2年(1869)11月3日、会津人たちは藩名を『斗南』と号することと一決し、許可された」という文書もあるが、矛盾した文書はたくさんある。

2021-09-28 22:10:24
シービー @MrCB_Harukaze

11月24日に新領地として陸奥三万石が下されたと東京から連絡があった。「ただし、藩名は土地を見分した上で届け出に成るはず」と記載されている(『維新雑誌』より)そして、半年後の明治3年(1870)4月29日、「藩名を『斗南』と唱えると(松平家)が仰せ出たとも書いてある。

2021-09-28 22:13:09
シービー @MrCB_Harukaze

幕末史家伊藤哲也氏(埋葬禁止令は嘘と調べた人)が最近になって国立公文書館所蔵の復禄請願に関わる「青森県取調書」という史料に「3年4月24日に藩名を『斗南』とするよう願い出た」との記述を見つけた欄外に「この伺書は内閣蔵書公文録の中にもあり確実なものと記載されている。

2021-09-28 22:19:07
シービー @MrCB_Harukaze

「斗南(藩)」の由来も色々な話しがある。有名なのは漢詩「北斗以南皆帝州」から取ったというもの。明治39年(1906)『増補大日本地名辞書』で「田名部」(むつ市の地名)の項に「斗南とは北斗以南(略)の義にて北遷の新藩に命名す」とあった。と、むつ市の史家竹浪氏が平成(!)22年に発表。

2021-09-29 21:32:14
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、以前に会津史談会相田氏が調査していて、漢詩には一致する句が見当たらないことが分かっている。そもそもそれ以前、とっくに十和田市の史家伊藤氏が明治7年(1874)「北下日記」で「斗南とは外南部の謂れなり」と明記されていることを発見し、昭和61年に発表している。

2021-09-29 21:38:27
シービー @MrCB_Harukaze

伊藤哲也氏が見つけた『青森県取調書』(明治初期の文書)に「地名にあらず、北斗の南にあるの意。(略)外南部の俗称」と記載されており、「外南部」(南部藩の外)の意味であることはほぼ決定的である。が、表記を斗南となぜしたのかは謎のままである。

2021-09-29 21:45:07
シービー @MrCB_Harukaze

明治3年(1870)4月18日、旧三戸代官所にて黒羽藩から二戸・三戸・北(下北)の3郡の引き渡しが行われる。これは、盛岡藩が降伏した後、現宮城県の白石に転封され、盛岡藩の旧領は明治政府直轄地になっていたところを黒羽藩が管理者になっていたためである。

2021-10-01 10:24:32
シービー @MrCB_Harukaze

移住第1弾はその2日後に三戸に到着する。東京謹慎組の先発が4月17日に「大坂丸」で品川を発し、19日八戸鮫浦港に300人上陸し、20日に三戸入りしている。残りは北上し、5月2日に田名部に到着。黒羽藩田名部在勤役人から引継ぎが行われた。

2021-10-01 10:29:55
シービー @MrCB_Harukaze

大河『八重の桜』の主人公、山本八重の最初の夫川崎尚之助も斗南に移住している(八重は移住していない)。尚之助は但州出石の出身だと小参事広沢安任が書いている。江戸で洋学を学んでいた頃八重の兄山本覚馬が同じ大木塾に入門してきた。

2021-10-05 18:57:22
シービー @MrCB_Harukaze

その後山本覚馬は会津に戻り新設された蘭学所の教授に任ぜられる。覚馬は砲術と科学に秀でた尚之助を会津に呼び、それが縁で八重と結婚する。尚之助は会津藩士としての扱いを受ける。会津藩滅亡後、尚之助は明治3年(1870)10月、斗南藩田名部に移住する。

2021-10-05 19:01:28
シービー @MrCB_Harukaze

尚之助は開産掛をを命ぜられる。産業振興役といったところであろう。ある日、上司の柴太一郎(後の陸軍大将柴五郎の兄)とともに箱館に糧米調達に向かう。そして、デンマークの商人と広東米15万斤を斗南産大豆と交換する契約を結ぶ。ただ、斗南産大豆は翌春収穫予定のものであった。

2021-10-05 19:06:41
シービー @MrCB_Harukaze

川崎尚之助の”先物取引”は、結果として上手くいかなかった。米の蔵出しが認められたのが1年後で、劣化により二束三文になり、契約金額よりも安い金額しか手に入れることが出来なかったのである。柴五郎は、尚之助が商人にダマされたと記すが、これは事実ではないことが証明されている。

2021-10-07 17:51:24
シービー @MrCB_Harukaze

川崎尚之助は外国商人を提訴する。デンマーク商人デュースも斗南藩を提訴した。それに対して、斗南藩会計掛辰野宗城は「藩は無関係」と主張した。要は、川崎尚之助と柴太一郎はとかげのしっぽのように扱われたのである。

2021-10-07 17:56:16
シービー @MrCB_Harukaze

尚之助と太一郎が函館に向かったのは鉄鋼業創出のためであり。米と豆の契約は藩命ではないと裁判所に上申した。裁判所の判断は「契約は藩命ではない。川崎尚之助が身代限りにおいて賠償すべし」とのことであった。契約は「尚之助の意志」とした。これにより、尚之助は以後、極貧生活を送る。

2021-10-07 18:01:03
シービー @MrCB_Harukaze

川崎尚之助は東京浅草で賠償金を背負った極貧生活を送る。(このあたりは大河『八重の桜』で描かれている)明治7年(1874)夏に病気を発し、その後東京で療養生活を送るが、3月20日肺炎のため死去する。享年39。

2021-10-07 18:04:23
シービー @MrCB_Harukaze

明治3年(1870)9月2日、旧会津藩主の子松平容大が、それまで養育されていた鶴ヶ城郊外の別邸から斗南藩移住に向けて出発する。このとき容大、1歳5ヶ月。移住に際しては海路が取られ、元家老内藤信節、佐川官兵衛、日向内記、斉藤一が江戸までの道中を守護したという。

2021-10-08 15:01:14
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.