「東行君、君はすでに獄中の苦しみを忘れたるか」
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シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊軍監・福田侠平のおいたちは謎が多い。文政12年(1829)周防国吉敷郡後河原に住む萩藩士(無給通)十川権左衛門の次男として生まれ、やがて長門国大津郡伊上村に住む萩藩士福田貞八の養子となり、長女キヨを娶ったということしか記録がない。諱は公明、号は悠々。 pic.twitter.com/kOS7CcGSPz

2021-03-09 18:59:02
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シービー @MrCB_Harukaze

福田侠平が養子に入った福田家は、養父の貞八が隣村で河原口番所の役人を務めていたが、身分は中間であった。そのため、福田という姓は公認されたものではない。伊上には侠平に関する伝承がまったく残っておらず、居住は短かったと思われる。

2021-03-09 19:05:50
シービー @MrCB_Harukaze

文久2年(1862)に萩藩は福田侠平を抜擢して京都に登らせた。34歳のときである。この頃藩は藩是を上位断行に改め京都での周旋を活発化させている。その要員としてであろう。抜擢された侠平は心が躍ったであろう。同年閏8月21日、南野一郎に「今日での周旋は満足だが、国許では俗論がある」と嘆いている

2021-03-09 19:14:18
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)5月10日、萩藩は関門海峡を通航する外国艦を砲撃。上位断行を実行したが、米仏の艦隊に反撃され敗北を喫する。藩主父子は高杉晋作を抜擢し、馬関防御を任せる。晋作坊ちゃんは6月7日に奇兵隊を結成する。このことが福田侠平の人生を一変させる。 pic.twitter.com/Iu4esKCIP2

2021-03-09 19:42:27
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文久3年(1863)8月16日、『奇兵隊日記』に「福田良輔」が入隊を希望してきたという記述がある。「良輔」は「侠平」の前名である。ちなみに「侠平」に改名したのは慶応元年(1865)9月17日と同書に記載がある。入隊した福田侠平は大伍の伍に配属された。

2021-03-10 19:38:02
シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊入隊時、福田侠平は35歳。総督の晋作坊ちゃんは25歳であった。侠平の入隊理由も記録が残っておらず、謎である。

2021-03-10 19:40:39
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元治元年(1864)8月5日に始まった4ヵ国連合艦隊襲来の際には、福田侠平は書記に出世している。その際には十文字槍を携えて狂介と共に壇ノ浦で外国兵相手に戦った。さらに、同年末には参謀に昇格している。その後奇兵隊は、俗論派が実権を握ったため、佐波郡徳地に籠もり解散の命令に耐えている。

2021-03-10 19:46:38
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元治元年(1864)10月25日、福田侠平は徳地から山口に出向く。そして「諸隊分崩、前田孫右衛門、中村九郎、佐久間佐兵衛の遠流幽居」といった正義派弾圧の情報を奇兵隊陣営に知らせた。奇兵隊はこれをもとに幹部会議を開いている。

2021-03-10 19:52:07
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元治元年(1864)11月2日。狂介が「須佐に割拠するのは得策では無い。」と意見を述べ、藩内各地に散った諸隊を山口に集結すべきと説く。賛同した福田侠平は直ちに五卿を説得に行った。侠平は五卿の説得に成功し、須佐退却は中止となり、山口集結に決まった。(その後長府城下へ転陣する。)

2021-03-11 19:31:01
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この時のことを狂介は『懐旧記事』で「福田は磊々落々剛毅にして卓見のある士なり(略)予は一縷の望みをこれに繋ぎたり」「(略)福田ならざれば行われ難かるべし」と回顧している。

2021-03-11 19:34:43
シービー @MrCB_Harukaze

内訌戦後、慶応元年(1866)に福田侠平は、士雇に昇格し、苗字も公認される士分となる。また、同年8月3日には参謀と軍監を兼務するよう命ぜられたと『奇兵隊日記』に書かれている。隊の階級的に狂介と肩を並べたことになる。よほど隊士から信頼されていたのであろう。

2021-03-11 19:38:50
シービー @MrCB_Harukaze

時山直八のときにも書いたが、四ヶ国艦隊襲撃のころ直八が狂介を頼って面接に来たが狂介は「何の面目ありて予に面接せんとするのか」と突っぱねたが、福田侠平は時山に座を与えて直八の涙ながらの京での戦況の話しを聞いてやった。こういうところが隊士から慕われたのであろう。

2021-03-11 19:42:58
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)12月15日深夜、功山寺で決起した晋作坊ちゃんに対して福田侠平は、馬前に立ちはだかり「東行君、君はすでに獄中の苦しみを忘れたるか」と大声で叫び諫止する。すると遊撃軍砲隊長森重謙蔵が「総督、馬を進め給え」と叫び、坊ちゃんは「今に及んで何をか言わん」と侠平に言い放った。

2021-03-12 18:21:52
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんファンには、この場面での福田侠平のイメージは良くない。しかし、この決起を無謀として非難するものは多く、白石正一郎も「暴挙党」と日記に書いている。そんな中、福田侠平だけが、本気で諫めようとした。坊ちゃんはその真心を理解していたに違いない。

2021-03-12 18:25:36
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんは、気が鋭く、当たるべからずという趣であったが、福田侠平は談笑の内にそれを和らげたので、二人は深く許したと狂介は後に「福田君碑」で述べている。

2021-03-12 18:39:56
シービー @MrCB_Harukaze

また、福田侠平と晋作坊ちゃんは、良い飲み友だちでもあった。坊ちゃんは侠平に度々漢詩を送っている。「悠々道人の韻に次す」では、詩酒で毎日を過ごして世間から非難されても、心の中には志を持ち、時を待っているのだという詩を送っている。侠平は10歳年上なのでおおらかに接するすべを心得ていた

2021-03-12 18:44:42
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんがグラスで酒を飲む自身の姿を描いた絵に、漢詩を添えて福田侠平に与えている。ほかに慶応2年(1866)4月長崎に行った晋作坊ちゃんが「福田侠平に思いを寄せる」という漢詩を創っている。

2021-03-13 17:47:06
シービー @MrCB_Harukaze

結核で立ち上がれなくなった晋作坊ちゃんを聞多と侠平が見舞いに来たとき、坊っちゃんは「こここまでやったのだから、これからが大事じゃ。しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」と伝えている。

2021-03-13 17:52:05
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1867)4月13日に晋作坊ちゃんが亡くなった後、翌日福田侠平は狂介と白石正一郎を訪れ、神式による葬儀の打合せを行った。侠平は形見として、黒羅紗、沢瀉御紋竜紋胴着・鹿革・手袋・金五百疋が遺族から贈られた。

2021-03-13 17:57:48
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年(1865)5月、三浦梧楼が隊士弘中壮輔を相手に刃傷事件を起こし、謹慎となる。福田侠平は梧楼を訪ね、刀と短刀を借り上げてしまった。後に、梧楼は「三浦は切腹するかも知れぬと心配したものと見える。侠平は我が輩を可愛がってくれた」と回顧している。梧楼20歳、侠平37歳である。

2021-03-13 18:04:32
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1867)10月14日、将軍徳川慶喜が大政奉還を願い出て翌日に勅許された。その前、14日に萩藩に密かに「討幕の密勅」が下る。密勅を藩に持ち帰る役は、広沢真臣、福田侠平、品川弥二郎であった。侠平は「(略)尽国大挙し天地に誓い、宸襟を安んずべし」と感激を伝えている。

2021-03-14 19:44:20
シービー @MrCB_Harukaze

福田侠平は帰藩に際して薩摩艦に乗っている。21日夜に現在の防府に帰着。追々諸事決議、委細の義帰り談ず」と『奇兵隊日記』に記されている。

2021-03-14 19:47:36
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)1月3日、京の鳥羽・伏見において旧幕府軍と薩摩・長州両藩が衝突した。このとき、奇兵隊は2小隊程度が京に派遣されていて、諸隊連合軍を率いていたのは山田市之丞であった。従い、福田侠平はこのとき京都にはいない。

2021-03-14 19:50:32
シービー @MrCB_Harukaze

1月9日、朝廷から長州藩に出兵の命令が届く。3月17日、奇兵隊の主力部隊を率いて、狂介と福田侠平が馬関から軍艦華陽丸に乗り組み海路で大阪に上陸する。4月1日、狂介と侠平が他藩応接係に任ぜられたと『奇兵隊日記』にある。

2021-03-14 19:55:01
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)4月25日、奇兵隊六個小隊は北越方面に出征する。この時、福田侠平は狂介と一緒に江戸に出張していたため、遅れて出征し、高田の地で追いつく。その後、長岡藩をはじめとする当羽越列藩同盟軍と死闘を繰り広げる。

2021-03-15 19:34:24
シービー @MrCB_Harukaze

福田侠平は、北越の陣中から馬関の白石正一郎に手紙を何通か送っている。その中で戦況はもちろんだが「酒も随分美にして時々軍鬱を慰め候」「新潟は思いの外各地酒あり、肴あり、かつ美人山のごとし兵士の涎御推察なさるべく候」と酒や女の話題も記している。

2021-03-15 19:41:39
シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊をはじめとした長州軍は、北越から会津に進撃し、11月12日に山口に凱旋する。奇兵隊の戦死者は70名以上にのぼる激戦の地であった。

2021-03-15 19:43:33
シービー @MrCB_Harukaze

福田侠平は馬関に向かい、11月14日に40歳で亡くなった。侠平の死には二つの説がある。中風を罹っていたのに商人網屋平右衛門方で酒を浴びるほど飲み続け、門口を出た直後卒倒して亡くなったという説。北越の頃から病気を患っていたという説である。愛人の名はおうの、晋作坊ちゃんの愛人と同名である

2021-03-15 19:49:51
シービー @MrCB_Harukaze

福田侠平の最後を看取ったのは野村靖と言われる。野村が11月14日に田辺弼作に宛てた手紙で「福田侠平は保養を加えたがその甲斐無く只今相果て申し候」と記載している。保養という言葉から直接の原因かは分からないが、病気を患っていたのは確かだったようである。

2021-03-15 19:55:24
シービー @MrCB_Harukaze

福田侠平を看取った野村靖は、侠平が生前死んだら吉田清水山の晋作坊ちゃんの墓あたりに埋葬して欲しいと妻に遺言していたと言う。11月16日、遺言どおり侠平の遺骸は清水山に埋葬された。神式の葬儀で、後日「東行墓」の隣に「福田公明墓」が建てられた。周囲が坊ちゃんとの仲を認めたのであろう。

2021-03-16 15:38:47
シービー @MrCB_Harukaze

当初、二人の墓は同じ形、大きさだったようだが、明治以降晋作坊ちゃんの名声が高くなると、坊ちゃんの墓に大が追加されて高くなる。福田侠平は、明治2年(1869)6月、東京招魂社(靖国神社)の創建時に合祀された。明治31年(1898)7月4日、坊ちゃんと同じ正四位が追贈されている。

2021-03-16 15:43:13
シービー @MrCB_Harukaze

狂介は少し遅れて帰藩したが、途中周防上関で福田侠平の具合が良くないと聞く。三田尻に着いたところで侠平が亡くなったことを知らされる。愕然となり「面影を袖にとどめてなみだのみ かかるこの身ぞ頼みなすくなき」と歌を詠んでいる。

2021-03-16 15:46:49
シービー @MrCB_Harukaze

福田侠平の遺髪を埋めた墓が同士等によって、吉敷郡大内氷上村に建てられている。氷上は侠平が晩年住居とした地である。侠平の写真は一枚だけ残っている。杯を片手に少年兵に酒をつがせているものである。「悠々」の号にぴったりの気負いなさである。(完) pic.twitter.com/d0UqjLIDHJ

2021-03-16 15:54:03
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シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.