シービー
@MrCB_Harukaze
父杉百合之助の育みとなった松陰先生だが、嘉永6年(1853)1月16日、藩は向こう10年間の他国修行を許可した。これは、1月13日に杉百合之助が提出した願書が許可されたものである。
2023-04-19 19:14:46
シービー
@MrCB_Harukaze
しかし、実は前年12月9日に松陰先生が「御家人召放し」の裁決を受けた日、百合之助はすぐに遊学許可の内意伺いを藩に提出している。これは藩(というより敬親公か)が予め内諭っを与えていたものと考えられる。ほとぼりがさめたら元の士籍に戻すということを含んでいたのであろう。
2023-04-19 19:15:19
シービー
@MrCB_Harukaze
松陰先生は早速、1月26日、諸国遊歴のため兄杉梅太郎らに見送られて萩の実家を出発する。このとき、通称を寅次郎に改めている。そして富海港から船に乗った。
2023-04-19 19:15:32
シービー
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10年間の遊学許可を得た松陰先生は、富海港から上方を目指し、2月10日に大阪に着いた。翌11日、幕府与力で荻野流砲術家の坂本鉉之助、頼山陽門の儒者後藤松陰を訪ね教えを受けている。2月13日、大和五条の勤王家森田節斎を訪ね弟子として接した。
2023-04-20 19:29:21
シービー
@MrCB_Harukaze
ちょうど富田林などに出かける予定だった節斎は、半ば強引に松陰先生を連れ回す。そのおかげで仲村徳兵衛、相馬一郎らの学者と交流することができた。松陰先生は、3月30日、節斎の命で大阪に出かけ後藤松陰、藤沢昌蔵、坂本鉉之助、奥野弥太郎、谷三山らを訪ねている。その後しばらく節斎塾で学んだ。
2023-04-20 19:29:42