海原徹『萩ものがたり 吉田松陰と旅』『吉田松陰』より
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シービー @MrCB_Harukaze

嘉永4年(1851)1月28日、九州遊学から帰ったばかりの松陰先生に藩から「御手前事軍事学稽古の為め江戸差登され候条、其の意を得られるべく候」という辞令が下る。軍学稽古のため江戸に出府せよという。

2023-03-16 19:07:38
シービー @MrCB_Harukaze

かなり早急に都合良く江戸遊学が決まっているが、恐らく松陰先生が九州遊学では満足な勉強ができなかったと反省し、帰藩後すぐに計画をして藩に働きかけたものと想像される。都合が良いことに、この年の3月には藩主の参勤交代が予定されていた。

2023-03-16 19:08:28
シービー @MrCB_Harukaze

また、この頃、藩主毛利敬親が藩士の藩外遊学を奨励し、その費用を用立てできない者には、明倫館の維持費として支出する御手置銀の中から文学の勉学には1か月に金10両、剣の修行者には路銀として5,6両を与えるいわば藩公費留学制度が開始されていた。

2023-03-16 19:09:01
シービー @MrCB_Harukaze

ちなみに、この公費留学制度でこの年、松陰先生、小田村伊之助、来原良蔵、山県半蔵らが遊学の途に着き、翌年には桂さん、7年後の安政5年には晋作坊ちゃんも江戸遊学の途に着いている。

2023-03-16 19:09:21
シービー @MrCB_Harukaze

萩藩はじめての公費留学生は17名を数えた。剣術修行者14名、文学2名、兵学1名であった。ところが、剣術修行組は正式な藩主参勤交代随行員の身分であったが、文学・兵学組は随行員ではなく、随行員藩士のいわばお抱え的な身分であった。ちなみに松陰先生の江戸方手元役中谷忠兵衛のお抱えである。

2023-03-18 18:24:32
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嘉永4年3月5日、一同は萩を出発する。それに先立ち朝5時ごろ松陰先生は出発した。遊学がよほど嬉しかったのか、行列を外れて名所旧跡を廻ったためか足を痛め、9日には籠を雇っている。

2023-03-18 18:25:19
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このとき記念したのか、関戸の宿場跡に「吉田松陰先生東遊記念碑」が建てられている。以後、天候にも恵まれて順調に旅を続け、3月20日、伏見の藩邸に入っている。22日、伏見藩邸を発ち、大津から東海道を通り、4月9日、江戸に到着した。

2023-03-18 18:25:29
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松陰先生は、4月9日、今の日比谷公園の一角にあった萩藩上屋敷(藩邸)に到着し、数人の随行員と4畳半で同居する。江戸で最初に師事したのは幕府の儒学者であった安積艮斎である。藩邸の有備館で毎月二の日に行われていた講義に参加した。

2023-03-19 15:57:39
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駿河台の艮斎塾にも通っている。他に同じ幕府儒官の古賀茶渓にも習っていたようである。ただ松陰先生は両者についてはあまり満足していなかったようである。松陰先生は5月24日、田原町にあった山鹿素水の山鹿流兵学塾に入門する。ここでも「一種の才物にて時名を得候人なり」と松陰先生は酷評している

2023-03-19 15:58:20
シービー @MrCB_Harukaze

相変わらず『武教全書』を格式張った講義をする姿勢がなじまなかったのであろう。実は、松陰先生は、素水の元を辞した5月24日に木挽町の佐久間象山の塾を訪ねている。

2023-03-19 15:58:41
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日比谷公園内 萩藩上屋敷(藩邸)跡 ※千代田区観光協会より引用 pic.twitter.com/gWCoHIErnP

2023-03-19 16:03:35
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山鹿素水の塾では、熊本藩士宮部鼎蔵と再会している。松陰先生は、同じ5月24日、佐久間象山の塾を訪ねた。もともとは江戸で評判の象山を一度見てみたい程度のものであった。しかし、そのときに象山から服装等で大目玉を食らったという逸話がある。ただし、この話は若干疑わしい面もある。

2023-03-20 19:10:17
シービー @MrCB_Harukaze

この日は山鹿素水への束脩の日であり、それなりの服装をしていたと考えられるからである。松陰先生が佐久間象山の塾に正式に入門したのは、7月20日であり、本格的に学んだのは9月以降である。

2023-03-20 19:10:52
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宮部鼎蔵と再会した松陰先生は、6月13日、安房、相模の海岸線の防衛状況を確認するために藩邸を発つ。外神田で宮部と合流し、戸塚宿を経由し、松陰先生の叔父竹院が昔努めた瑞泉寺に着く。10年ぶりの再会で、これを記念した「松陰吉田先生留跡碑」が徳富蘇峰の筆により建てられている。

2023-03-20 19:10:58
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瑞泉寺 「松蔭吉田先生留跡碑」 ※鎌倉手帳(寺社散策)より引用 yoritomo-japan.com/kamakura.html pic.twitter.com/HgIXyuOJ1e

2023-03-20 19:17:42
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6月14日、松陰先生と宮部鼎蔵は船で大津に向かう。ここで川越藩の陣屋の兵員、船、建造中の砲台を検分する。翌15日、二人は猿島に上陸する。幕府が建造したばかりの台場を検分し、三軒家に上陸。鳶巣でも建造中の台場を検分している。

2023-03-21 20:52:42
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16日は大浦、剣崎、安房崎の台場、19日は州ノ崎台場を検分し、22日に江戸に戻っている。10日の旅であった。この頃、黒船来航の噂(幕府はすでにオランダを通じて黒船来航は知っていた)があったが、危機感が足りないのか台場の建造は進んでいなかった。

2023-03-21 20:54:05
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江戸で入手した地図「伊豆七島図」は現地を見ると間違いが多く、松陰先生は設備の貧弱さと文献の不正確さに驚き呆れ、ますます現地の調査の必要性を痛感した。この房総巡検が東北遊歴のきっかけになったのであろう。松陰先生は江戸に戻りすぐ、7月17日に藩邸に東北遊歴の許可を求める願書を出している

2023-03-21 20:55:04
シービー @MrCB_Harukaze

この頃、松陰先生は、自分の勉学に疑問を抱いていたようである。7月頃、萩の友人である中村道太郎に「江戸に来て3か月経ったがいまだに師と思える人に出会っていない。文人儒者は学問を生活の手段としている」と手紙を書いている。なお、この時はまだ佐久間象山の元では学んでいない時期である。

2023-03-22 19:14:53
シービー @MrCB_Harukaze

さらに、房総巡検で海岸防衛の危うさを見て、ロシア南下の脅威がある東北地方に目が向き、現地検分の必要性と全国を歴訪して師を求めることを考えたのかもしれない。自分の学ぶべきことを模索する松陰先生は、江戸で鳥山新三郎の蒼龍塾にも出入りをするようになる。

2023-03-22 19:15:42
シービー @MrCB_Harukaze

蒼龍塾では来原良蔵などの萩藩士数名も学んでいたことも理由であろう。その塾で後に東北脱藩行の連れになる南部藩士江幡五郎と出会う。また、塾には宮部鼎蔵も出入りしていたため、3人はここで仲良くなったのであろう。

2023-03-22 19:16:28
シービー @MrCB_Harukaze

自分の目指す勉学に悩みを抱えていた?松陰先生ではあるが、両国見物、神田明神祭礼、永代橋船遊び、等々、藩邸の仲間と様々な場所に出かけている記録があるため、それなりに花のお江戸生活は楽しんでいたようである。

2023-03-22 19:17:19
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生が7月16日に藩に提出した東北遊歴の願書は、水戸、米沢、会津など文武が盛んな地域を挙げており、あくまで家学修行を目的としていた。当初は期間をあいまいにしていたが、再度藩に願い出た際、約10か月としている。これは、優れた師を見つけたら長逗留して学問をしようと考えていたものである

2023-03-23 20:08:07
シービー @MrCB_Harukaze

9月27日、兄杉梅太郎に「12月中旬に出発し、4か月計135日」とかなり具体的な日程を書いている。これは、実家に旅費を送って貰うため、具体的に期間を決める必要があったためである。費用は156両という杉家にとって大金が見積もられている。

2023-03-23 20:10:15
シービー @MrCB_Harukaze

ところが、杉家はこれを用立てている。杉家撫育金?でも蓄えられていたのであろうか。松陰先生は10月23日、叔父玉木文之進に「宮部鼎蔵、江幡五郎と三人で12月15日に出発する」という手紙を書いている。

2023-03-23 20:10:41
シービー @MrCB_Harukaze

赤穂浪士討ち入りの日を提案したのは自身も兄の仇討ちを計画していた(真相は別として)江幡五郎と言われている。これに、赤穂浪士と同じ山鹿流兵学を学ぶ松陰先生と宮部が賛同したようである。

2023-03-23 20:10:51
シービー @MrCB_Harukaze

東北遊歴の準備を進めていた松陰先生に予想外の出来事が起きる。出発を目前にして「過書(所)手形」の発行が間に合わないというのである。過書手形は他国(他藩)を通過する際に必要な身分証明書である。藩邸は過書手形はすべて萩に帰国中の藩主の決裁を得る必要があり、その手続中と説明した。

2023-03-24 19:25:15
シービー @MrCB_Harukaze

だが、東北遊歴は7月3日付けの藩令で許可されており、それから5か月も手続き中というのは、違和感がある。松陰先生はこの事を出発直前に聞き、藩邸に訴えているが通ることはなかった。過書手形の発行が遅れたことには説がある。

2023-03-24 19:25:45
シービー @MrCB_Harukaze

それは、仇討ちを目指していた南部藩士江幡五郎が同行すると、刃傷沙汰が起きる可能性があり、それに松陰先生が巻き込まれた場合は、萩藩自体が公儀からお咎めを受けるおそれがある、ということを藩邸は気にしたというものである。

2023-03-24 19:26:10
シービー @MrCB_Harukaze

藩邸は松陰先生に出発直前まで伝えておらず、どうしてもあきらめるさせるためであったのではと考えると、藩に災いをもたらす可能性をつぶすための方便というのは納得できる説である。

2023-03-24 19:26:58
シービー @MrCB_Harukaze

東北遊歴出発までに過書手形を手に入れることは難しい、と悟った松陰先生は、それを待たずに予定どおり出発する選択をする。このことについて故郷の親族に「藩命よりも、男児が一旦約束したことを守る方が大事である。他藩人との約束を破ることは、萩藩の恥辱になる」という弁明の手紙を書いている。

2023-03-25 18:54:43
シービー @MrCB_Harukaze

これはさすがに論理の飛躍であろう。松陰先生は、この後の黒船密航未遂や老中襲撃計画のこともあるように、自分が正しいと信じたことには絶対的に遂行しようとする性格を持っているようであり、このときもそうだったのではないかと思うがいかがでしょうか。

2023-03-25 18:55:10
シービー @MrCB_Harukaze

嘉永4年(1851)12月14日午前、松陰先生は密かに藩邸を出る。約束は翌15日であるが、早く出る方が怪しまれないと考えたのであろう。ひたすら先を急ぎ、水戸に向かう。このとき、追っ手を意識したのか、松陰先生は、長州浪人松野他三郎の変名を使用している。

2023-03-25 18:56:19
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.