海原徹『萩ものがたり 吉田松陰と旅』『吉田松陰』より
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シービー @MrCB_Harukaze

嘉永元年1月、松陰先生は独り立ちの師範として藩校明倫館で山鹿流兵学を教えていた。19歳の時である。師範としては若い方であり、松陰先生自身も実力不足で学問が足りないと感じていた。そのため、もっと勉強したい、できれば藩外へ出て遊学し、優れた学者に付いて学びたいと考えていたようである。

2023-03-05 18:14:09
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は、師林真人から平戸に葉山左内という優れた陽明学者いると聞き、ぜひ学びたいと考えた。葉山は平戸藩中老であり、象山も学んだ佐藤一斎門下であった。平戸には山鹿流兵学宗家山鹿万介が主宰する積徳堂もあり、好都合とも考えたであろう。

2023-03-05 18:14:31
シービー @MrCB_Harukaze

翌2年5月15日、松陰先生は早速葉山左内に修学希望の手紙を書いている。そして、9月12日、藩政府に「拙者儀幼少にて家督仕り(略)門弟取立て仕り候へども、彼れ是れ覚束なく存じ奉り候に付き」と、遊学ならびに同学の葉山へ付いて山鹿流兵学を学びたいと願書を提出した。

2023-03-05 18:14:56
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生の九州遊学願いに対しての藩の回答は、1年後の嘉永3年8月18日であった。遅い回答であるが、これは松陰先生が夷賊坊禦御手当御内用掛を命じられ、沿岸防備の視察で萩から馬関への実地検分を行うなど公務で忙しかったためである。任務も一段落付いたところで回答がなされたのであろう。

2023-03-06 19:23:03
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は喜び、翌19日、「平戸往復の途中、長崎で高島秋帆の弟である御鉄砲方土岐太郎に西洋砲術の教えを乞いたい」と、ちゃっかりと藩に追加のお願いをしている。8月25日、松陰先生は家族に見送られながら家を出た。

2023-03-06 19:23:35
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よほど気が急いたのであろうか、萩往還を通り、11里も歩き、四郎カ原で一泊する。翌26日、松陰先生は馬関に入ったが、27日突然発熱して医師の診察を受け28日まで静養した。29日亀山八幡宮下から船に乗り、対岸の内里に着いたところで陸路をひたすら歩き、9月5日に長崎に到着する。

2023-03-06 19:24:10
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嘉永3年9月5日、九州遊学の最初の訪問地長崎に着いた松陰先生は、新町(現興善町)の萩藩長崎屋敷に宿泊する。翌6日、早速高島秋帆の学塾雨声楼を訪ねている。塾主高島秋帆は長崎事件で獄に入っていたので子の浅五郎に面会し教えを乞うている。

2023-03-07 22:02:58
シービー @MrCB_Harukaze

午後には小舟を雇ってオランダ船や唐船を見学し、その後風頭山に登り市街と湾を観ている。湾内と山から一望することで防衛戦のことでも考えていたのであろうか。松陰先生は9日には唐館と出島のオランダ館を訪ねている。知り合った蘭通事や商人に質問を重ねており、海外の情報を積極的に吸収している。

2023-03-07 22:04:12
シービー @MrCB_Harukaze

11日、知り合った蘭通事の紹介でオランダ船に乗り込み備え付けの大砲6門や積荷などをくまなく見学している。この時船内で葡萄酒や洋菓子のもてなしを受け、帰り道に立ち寄った蘭通事の家でパンを食べている。三つとも松陰先生ははじめての経験であった。

2023-03-07 22:04:21
シービー @MrCB_Harukaze

9月11日、松陰先生は長崎を発ち平戸に向かう。このときまで従者が一人いたが、これからは先生のひとり旅となる。9月14日、平戸に入り、葉山左内の紹介で旅宿紙屋に宿をとった。現在では『吉田松陰宿泊紙屋跡』の石碑が建っている。葉山宅まで極近い距離で通うには不自由はなかった。

2023-03-11 19:36:35
シービー @MrCB_Harukaze

翌15日、松陰先生は葉山の講義に出席し、清の兵書『聖武記附録』の講義を聞き、王陽明『伝習録』3巻、葉山の著『辺備摘案』を借りて帰り、宿で深夜まで読書にふけった。翌日からは葉山塾に通い始めている。

2023-03-11 19:36:40
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生の九州遊学もう一つの目的、山鹿流宗家への入門は、9月18日、山鹿万介の積徳堂に挨拶に行っている。だが、万介は病いで伏せっていて会えず、束脩の礼は22日に行われた。その日、万介からではなかったが山鹿素行『武教全書』の講義を受けている。

2023-03-12 16:43:20
シービー @MrCB_Harukaze

病気が癒えた24日に講義が再開され、松陰先生も出席した。以降は葉山塾と積徳堂二つの塾に通い勉学している。葉山は遠くから学びに来た松陰先生を歓迎し手厚く、丁寧に講義したと松陰先生は評している。勉学は長時間に及ぶこともあり、その際は茶菓や夕飯も振る舞われている。

2023-03-12 16:44:19
シービー @MrCB_Harukaze

積徳堂では当然山鹿流兵学を学んでいる。松陰先生は、10月13日「山鹿塾にもデイ入りしているが平戸の人が『武教全書』を精緻に読む」と驚いている旨を兄梅太郎に手紙を書いている。

2023-03-12 16:44:24
シービー @MrCB_Harukaze

平戸で勉学を続けていた松陰先生であるが、思い当たることがあったのか、満足できないことがあったのか、「平戸を引き揚げ長崎、熊本を経て帰国したい」と兄梅太郎に対して藩庁に遊学計画の変更を働きかけてほしい旨の手紙を送っている。

2023-03-14 17:47:21
シービー @MrCB_Harukaze

山鹿流宗家の学問は、『武教全書』を一字一句読み解くことに重きを置き、その内容をどのように活かすかといったあたりに欠けていると感じたらしい。11月6日、松陰先生は平戸を発ち船で長崎に向かう。

2023-03-14 17:47:40
シービー @MrCB_Harukaze

11月8日、長崎に着いている。再び高島秋帆の塾に出入りし、市中の蘭学者を次々に訪ねている。その際、松陰先生の一番の興味は「台場」であった。外国船が来る長崎を守るために設置されたものである。

2023-03-14 17:47:44
シービー @MrCB_Harukaze

12月1日、松陰先生は九州遊学の帰途に着く。島原城下に入って、砲術家の宮川源之助に出会いたいと思っていたらしい。そのまま熊本に渡り、元高島塾生池部啓太らを訪ねる。

2023-03-15 18:19:00
シービー @MrCB_Harukaze

熊本では、松陰先生の終生の友となる宮部鼎蔵と出会う。宮部は松陰先生より10歳年上の32歳。山鹿流兵学を学び藩師範役に任じられている。二人は頻繁に会うようになる。宮部の旧宅跡には「増正四位宮部鼎蔵先生邸跡」の石碑が建っている。12月13日、松陰先生は熊本を発ち、12月29日、帰宅する。

2023-03-15 18:19:33
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.