『新編弘前市史』弘前市立図書館 『野辺地戦争について』桜庭秀俊 等
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シービー @MrCB_Harukaze

昔、現在の青森県と岩手県の地域を治めていたのは、南部氏であった。16世紀ごろ安藤氏との支配争いに勝利した南部氏は、第14代当主南部行政のとき、室町幕府第6代征夷大将軍足利義教から、”義”の字の偏諱を受け、義政と改名する。このことは当該地域の支配勢力として幕府に認められたものといえる。

2024-03-30 22:28:35
シービー @MrCB_Harukaze

16世紀、第24代当主南部晴政のとき、当時石川城(弘前)を治めていた南部高信の長男信直との家督争いが起きる。晴政には長く男子がなく、信直を養子に迎えた。しかし、その後長男晴継が生まれ、南部家が信直派と晴継派に分かれての内紛が生じた。

2024-03-30 22:29:13
シービー @MrCB_Harukaze

南部家中混乱の中、突然、元亀2年(1571)5月、南部家一門大浦氏の一族と言われる大浦為信が反乱を起こし、石川城(弘前市)を攻め、石川高信は自害する。このことはすぐに南部家に報告されるが、一門が二派に分かれて構想しており、すぐに反撃できる状況ではなかった。

2024-03-30 22:30:38
シービー @MrCB_Harukaze

大浦為信は混乱に乗じて徐々に勢力を拡大していく。天正6年(1578)7月、大浦為信は浪岡御所(青森市)を攻め、城主北畠顕村を自害させた。これに対して南部家を継いだ信直は、天正10年(1582)弟政信を浪岡城に入部させて津軽郡代とする。

2024-03-30 22:31:53
シービー @MrCB_Harukaze

これを見た大浦為信は、天正11年(1583)以降、秋田方面等にも勢力を伸ばしていき、津軽独立を目指す。だが、このころ豊臣秀吉が日本全国を支配下に置きつつあった。天正15年(1587)6月19日、前田利家が南部信直に誓紙をしたため秀吉への取りなしを約束、8月、信直が豊臣家大名の一員として認められた

2024-03-30 22:32:55
シービー @MrCB_Harukaze

その後、宇都宮仕置において宇都宮城に入っていた南部信直に天正18年(1590)7月27日付で秀吉から朱印状が発せられ、南部氏は「南部之内七郡」を安堵された。だが、この七郡には津軽郡は含まれていなかった。

2024-03-30 22:37:39
シービー @MrCB_Harukaze

一方、大浦為信は、天正17年(1590)家臣八木橋備中を上洛させ、石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上し、津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)ならびに合浦一円の所領を安堵された。これにより、南部氏による津軽奪還は不可能となり、これを境に両家の争いは続いていく。

2024-03-30 22:38:37
シービー @MrCB_Harukaze

盛岡と津軽の藩境塚。「従是東南盛岡領」、「従是西北津軽本次郎領分」と書かれている。 pic.twitter.com/lSE6xOc9iN

2024-03-30 22:46:40
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野辺地戦争は、明治元年9月22日の弘前藩による夜襲ではじまり、翌23日には弘前藩の退却によって終了した。実際の戦いは短いが、長年の因縁もあり、その前から陰で戦いは始まっていた。野辺地戦争では盛岡藩の支藩八戸藩が重要な役割を果たしているので、盛岡藩と弘前藩の支藩を見てみる。

2024-03-31 16:16:53
シービー @MrCB_Harukaze

盛岡藩には八戸藩と七戸藩の支藩がある。八戸藩は、寛文4年(1664)、南部藩第2代藩主南部重直が嗣子を定めず急死した際、幕府老中酒井雅楽頭忠世が重直の弟七戸重信と中里数馬に、各々盛岡藩8万石、八戸藩2万石に分割して与えることを伝えられ、以後数馬は南部信房と名乗り、藩は維新まで存続した。

2024-03-31 16:21:11
シービー @MrCB_Harukaze

七戸藩は、文政2年(1819)南部信鄰が盛岡藩主南部利敬から加増され盛岡新田藩を立藩する。内部分地のため領地設定はなかったが、維新後盛岡藩の没収地を引継ぎ「七戸藩」となる。

2024-03-31 16:22:00
シービー @MrCB_Harukaze

弘前藩には支藩黒石藩がある。黒石藩は、明暦2年(1656)2月、弘前藩第4代藩主津軽信政の叔父信英が、本家津軽家の後見役として5000石を分知されたのがはじまりである。文化6年(1809年)弘前藩が10万石となった際4月に6000石の加増があって第8代親足の代に正式に「黒石藩」となった。

2024-03-31 16:24:12
シービー @MrCB_Harukaze

奥羽諸藩が新政府につくか仙台藩・米沢藩につくかどうか決心がつかず、使者を交わして情報収集や持論を主張し合っていたころ、慶応4年(1868)2月28日、秋田藩の使者が八戸藩を訪ね、勤皇に尽力すべしと伝える。これに対して八戸藩は、3月8日に仙台藩へ、4月28日には秋田藩へそれぞれ使節を派遣している

2024-04-01 20:53:08
シービー @MrCB_Harukaze

他の藩のとおり両派によしみを通じて情勢を観察していたと思われる。奥羽鎮撫総督府は、閏4月、八戸藩に庄内征討への応援を命じる書を送り、藩は約150人の出兵準備をしている。南部の三藩は、もともと勤皇思想が根強く、八戸藩も例外ではなかった。

2024-04-01 20:53:55
シービー @MrCB_Harukaze

ところが、準備のさなか、奥羽列藩同盟が結成されたためか、総督府は5月5日、突然、いったん国もとへ引き返すようにとの書が届き、撤兵する。6月には、仙台藩から盛岡藩に九条総督が転陣し、八戸藩と盛岡藩は総督府に一万両を献金している。

2024-04-01 20:54:28
シービー @MrCB_Harukaze

このように、明確に勤皇寄りの姿勢を打ち出していないが、怪しがられない程度には新政府軍に従っていた。そのような時期、5月23日に肥前藩軍艦孟春が座礁し、八戸鮫沖に上陸する出来事が起きる。肥前藩中牟田倉之助ほかの乗組員は8月まで八戸に滞在することになる。

2024-04-01 20:55:14
シービー @MrCB_Harukaze

肥前藩兵は、盛岡藩が秋田藩侵攻の方針を決めたため、秋田藩支援のため陸路で弘前藩に向かう。本家盛岡藩の反抗にかかわらず、総督府は支藩の八戸藩には寛大な態度であった。7月10日、総督府は八戸藩に庄内軍征討のための出兵を促し、藩は15日に出兵している。

2024-04-01 20:55:48
シービー @MrCB_Harukaze

ところが、盛岡藩から野辺地口に出兵するよう強制があった。盛岡藩は、弘前藩の野辺地侵攻が予想されたため、八戸藩に急遽出兵を命じたのである。八戸藩兵は8月21日、野辺地に到着した。野辺地戦争勃発9月22日夜まで1か月のころであった。

2024-04-01 20:56:41
シービー @MrCB_Harukaze

八戸藩はもともと幕府の命で創設された藩であるため、幕府からは一応独立した藩として遇されていた。そのためか、本藩である盛岡藩とは微妙な距離感で接してきた。

2024-04-03 17:20:03
シービー @MrCB_Harukaze

奥羽越列藩同盟派に藩論を統一し、秋田藩侵攻を決意した盛岡藩は、8月に入り積極的な外交を行っている。8月8日、弘前藩に重臣を送り、破盟勤皇に方針を決めた理由を尋ね、さらに佐幕に国諭を翻すことを要求した。14日には、郡代官新渡戸伝が弘前藩詰問のため青森を訪ねている。

2024-04-03 17:20:46
シービー @MrCB_Harukaze

だが、弘前藩は8月9日には総督府から南部征討を命じられていた。そしてこれを受けて、8月、9月と秋田藩に侵攻してきた盛岡藩と何度か戦闘を行っている。盛岡藩との抗争が現実化すると、藩境である野辺地の防御を気にするようになった。

2024-04-03 17:21:40
シービー @MrCB_Harukaze

弘前藩は、箱館防衛のための兵から一部を野辺地方面に転陣させている。これに対抗してか、盛岡藩は箱館警備の兵を撤退させ野辺地付近に上陸させた。

2024-04-03 17:22:40
シービー @MrCB_Harukaze

盛岡藩と津軽藩は、寛政11年(1799)に幕府が東蝦夷地を直轄とした際、北方警衛を命じられ、箱館を拠点として警備を行っていた。文政4年(1821)、松前藩が蝦夷地を支配する際にその任を解かれたが、ロシア船の来航が増えてきた天保9年(1838)に復活した。以来、両藩は箱館に警備兵を送っていたのである。

2024-04-03 17:24:34
シービー @MrCB_Harukaze

詰問目的で青森を訪れた盛岡藩郡奉行新渡戸伝のその後。ちなみに、新渡戸伝は新渡戸稲造の祖父で、現青森県の三本木地方を開拓し、さらに廃藩置県後、斗南藩元小参事の広沢安任を支援してくれた青森県の恩人である。

2024-04-04 20:28:11
シービー @MrCB_Harukaze

新渡戸一行は弘前に向かう予定であったが、弘前藩からお馬廻り組頭秋元蔵主、勘定奉行佐藤英馬を派遣して青森での会談となった。なお、二人は藩の要路とは言えない身分であり、このあたりにも弘前藩の心情が表れている。

2024-04-04 20:28:39
シービー @MrCB_Harukaze

二人は新渡戸に対して秋田への援兵はない、ととぼけている。もはや両藩の衝突は避けられないとの判断による対応であろう。結局この会談は、盛岡藩が出方を探った程度のものであった。その後、8月17日に総督府醍醐参謀が南部征討のため弘前に転陣する。

2024-04-04 20:29:20
シービー @MrCB_Harukaze

9月2日、弘前藩は家老大道寺族之助を青森口軍事統括に任じ、兵120名を青森に向かわせた。盛岡藩は秋田戦線で大館から退却するなど次第に劣勢となる。総督府は9月11日、軍事掛川熊登を弘前に派遣し、”純粋なる勤皇の目的を確定し、南部(盛岡藩)征討の出兵を行い、速やかに功を奉ずべし”と伝える。

2024-04-04 20:30:49
シービー @MrCB_Harukaze

南部征討を急ぐ総督府は、弘前藩と連携して野辺地攻撃を企図する。しかし、この計画は弘前藩に拒否され、総督府単独で決行された。

2024-04-05 15:45:33
シービー @MrCB_Harukaze

この件、以前、肥前藩の艦船が八戸沖で座礁し、船長中牟田倉之助(後に海軍中将、海軍大学校長等を歴任)以下約80名が野辺地経由で津軽への移動を試みた、ということを呟いた。

2024-04-05 15:47:13
シービー @MrCB_Harukaze

その後は、盛岡藩兵からの妨害に遭い(八戸藩は総督府に好意的で中牟田一行を優遇していた)、箱館を経由して秋田藩に向かわざるを得ず、中牟田は秋田藩軍艦陽春丸で主に奥羽沿岸を転戦していた(後、新政府軍軍艦朝陽丸艦長となり箱館戦争に参加している)。

2024-04-05 15:49:09
シービー @MrCB_Harukaze

その頃に総督府は、弘前藩と連携し、陽春丸での野辺地砲撃を計画したのである。これを弘前藩が拒否した理由としては、3点上げられる。一つは、弘前藩は基本的に戦闘を望んでいなかったことが大きい。

2024-04-05 15:49:44
シービー @MrCB_Harukaze

新政府側についているが、庄内征討にしろ、盛岡征討にしろ積極的に行動したとは言えない状態であった。秋田戦線も徐々に新政府側有利になり、このまま終結まで時の過ぎるのを待ちたかったのが本音であったと思われる。

2024-04-05 15:50:47
シービー @MrCB_Harukaze

二つ目は、肥前藩の報復に力を貸したと思われたくなかったというものである。以前記したとおり中牟田は盛岡藩から妨害を受けているためである。三つ目は、家老杉山上総からの進言である。

2024-04-05 15:51:43
シービー @MrCB_Harukaze

杉山は、盛岡藩へは小湊、大館、生保の三方から一斉に攻撃を行うのがよく、野辺地を攻撃すると散在している盛岡藩兵の集結を促して不利になると言う。いずれにしろ、全面的な衝突を避けたい弘前藩は総督府の攻撃を拒否した。そのため、9月10日、中牟田は単独、朝陽丸で野辺地に砲撃を加えたのである

2024-04-05 15:53:18
シービー @MrCB_Harukaze

陽春丸による砲撃は、実際には威嚇程度のものであった。台場のみ砲撃し、しかも命中弾は一発もなかった。それどころか、台場からの砲撃で被害を被り、早々に青森港に帰還している。しかし、このことは野辺地住民に大きな動揺を引き起こした。また、盛岡藩を本気にさせたであろう事は想像がつく。

2024-04-06 13:37:40
シービー @MrCB_Harukaze

当然、弘前藩もある程度の軍事的衝突は起こりえると覚悟をしたであろう。なお、中牟田は後始末もせず、9月20日、秋田へ出航した。盛岡藩は攻撃に対して怒りを増したであろうが、秋田戦線は次第に不利な状況になってきて、藩内では新政府への帰順降伏の気運が高まっていた。

2024-04-06 13:38:28
シービー @MrCB_Harukaze

その噂は弘前藩にも伝えられ、藩内ではこの機に盛岡藩に進撃すべきとの意見も出始めていた、この盛岡藩の動向は、9月15日の仙台藩の降伏の影響が大きいと思われる。仙台藩は、降伏後すぐの16日に盛岡藩に対して降伏の報せを送っている。

2024-04-06 13:39:08
シービー @MrCB_Harukaze

また、盛岡藩が京に派遣していた家老三戸式部が7月29日に朝廷から帰順の命を受け、9月18日に帰藩した。これらを受け、盛岡藩は、9月19日、家臣に対して謝罪降伏の旨を公表、21日、全軍に停戦を命じた。

2024-04-06 13:39:41
シービー @MrCB_Harukaze

野辺地戦線にあっては、9月21日、盛岡藩野辺地代官が弘前藩御役人中宛てで、「重臣三戸が帰国し、朝廷御内命の儀ありとのことで進軍を控える。貴藩も進撃をを見合わせてほしい」との書状が送られた。この書状を見た弘前藩は直ちに、小湊口隊長木村繁四朗に野辺地への進軍を命じる。

2024-04-06 13:40:14
シービー @MrCB_Harukaze

盛岡藩からの書状に対しては、”23日”付けで「御内命とはいかがなるものか。御三卿からは未だ何等の指図もないため、ご要望にはお応えできない」との書状を送った。

2024-04-06 13:40:42
シービー @MrCB_Harukaze

ちなみに、野辺地戦争は9月22日深夜から23日に勃発している。弘前藩は、盛岡藩の帰順降伏がすぐに行われると見越して進撃したことは確実と考えられる。やはり、外交・政治に関しては、秀吉時代のころから、弘前藩が一枚上手ということであろう。

2024-04-06 13:40:57
シービー @MrCB_Harukaze

弘前藩本隊は馬内村の番所に到着するや砲撃を行い、一帯に火を放った。これは、隊の命令ではなく兵が勝手に行ったものであるらしい。この攻撃が後に弘前藩の行動を邪魔して敗北の要因となる。馬内村は七戸藩が守備していたが抵抗もせず撤退している。怖じ気づいた訳ではなく、盛岡藩の方針であったろう

2024-04-09 20:00:09
シービー @MrCB_Harukaze

盛岡藩はこのころ総督府に謝罪降伏を申し出ていて、その嘆願を許可して貰おうと動いている時期である。極力新政府軍の一員である弘前藩に攻撃は加えること避けようとしていたと思われる。

2024-04-09 20:00:44
シービー @MrCB_Harukaze

弘前藩の放火であるが、思いのほかの大事になってしまう。馬内村の家屋64戸、寺ひとつを焼失を招く大火事になった。この火の勢いのため、肝心の進軍がままならなくなってしまい、本隊が三手での夜襲と考えていた場所に到着したのは、すでに夜明けのころであった。

2024-04-09 20:01:25
シービー @MrCB_Harukaze

馬内村の放火は進軍を邪魔しただけでなく、兵糧・弾薬の輸送も困難にした。そのため、道幅の広い本道でなく、海岸沿いや山道を使用せざるを得なかったのである。結局両藩は野辺地川岸を挟んで砲撃を行うという状況になる。

2024-04-10 19:23:02
シービー @MrCB_Harukaze

さなか、弘前藩兵のひとりが盛岡藩野辺地代官所の役人を銃殺した。これに勢いを得た弘前藩は一気に大橋を渡り進撃を行う。盛岡藩は、さすがにこの状況におかれて応戦を決断する。兵に戦闘の準備をさせ主力部隊を大橋方面に向かわせ、さらに弘前藩の退路を断つべく、観音林へ別働隊を配置する。

2024-04-10 19:23:27
シービー @MrCB_Harukaze

山道の弘前藩は代官所を砲撃するが、駐留していた盛岡藩軍三隊から包囲され、盛岡藩は高台の有利な立場から銃撃を行った。弘前兵はそれに邪魔され進軍がままならず、その場で待機状態となる、が援軍は先日の混乱で道に迷い戦闘開始までに到着できなかった。この方面の弘前藩軍は苦境に立たされていく。

2024-04-10 19:24:55
シービー @MrCB_Harukaze

この様な状況の中、大橋方面の海岸寄りに配置されていた八戸藩兵が弘前藩兵に側面から攻撃を加えた。弘前藩兵は正面と側面から攻撃され、総退却状態に陥る。一方、観音林方面の弘前藩兵は背後から攻撃を受け、進退極まる状況となり、退却を始める。が、この方面での死傷者は多数にのぼった。

2024-04-11 20:42:26
シービー @MrCB_Harukaze

苦境からなんとか脱出した一隊は本隊と合流して狩場沢に撤退する。八戸藩兵は追撃を願い出るが、盛岡藩は許可しなかった。「我等の任務は敵を防ぐにありて必ず戦ひを求むるには非ず」と苫米地隊長が発言し、抑えたという。

2024-04-11 20:42:59
シービー @MrCB_Harukaze

新政府への謝罪降伏嘆願中であり、当の新政府軍(弘前藩)に対する積極的な攻撃は避けなければならなかった。なお、盛岡藩軍総司令官である栃内総督は野辺地戦争勃発時に戦線から遠い長者久保まで引き揚げている。

2024-04-11 20:43:56
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.