研究アカウントからのバックアップ
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井上遼 @histryo

上林暁『花の精』で書かれた「ガソリン・カア」は現在の西武多摩川線にあたる。省線…現在のJR武蔵境駅から多摩川沿いにある是政駅へ走る全長8kmの鉄道。件の文章は1938年6月中旬の様子が書かれたもので、多摩川線は当時「西武多摩線」という名称の非電化路線だった。 #センター試験 #センター国語 pic.twitter.com/8gTE7howUS

2019-01-20 23:24:51
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井上遼 @histryo

武蔵境駅は現在はJRと西武の構内が独立構造の高架駅だが(にしても仕切り壁の窓にガラスは無く吹き抜け状態で不思議な一体感はある)、2008年に高架化される前は長らくホーム共用の相互乗入駅だった。利用客の中にも多摩川線が他社私鉄ではなく中央線の延伸などと思っている人もいたようだった。

2019-01-20 23:39:14
井上遼 @histryo

現在は12分毎に走る多摩川線だが『花の精』の頃は随分と違うダイヤであったことが判る。特筆すべきは「是政行きは二時間おきにしか出ない」「仕方なく北多磨行きに乗った」という点。終点の是政まで行く電車は非常に少なく、途中駅の北多磨…現在の白糸台までの列車が主であったという事が推察できる。 pic.twitter.com/XjMG24Nn3j

2019-01-20 23:50:54
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西武多摩川線は、元々は「多摩鉄道」という貨物が主力の私鉄として1917年に武蔵境~北多磨間で開業したのがルーツである。その2年後に常久(現在の競艇場前駅)まで、1922年に是政まで延伸している。当初の終着駅である北多磨には開業開業時から現在まで車両基地が置かれ、多摩川線の重要拠点といえる。

2019-01-21 00:12:28
井上遼 @histryo

開業初期の多摩鉄道~西武多摩線(※1927年に現在の西武国分寺・新宿線の会社であった西武鉄道に買収され西武多摩線となっている)は貨物主力で旅客は僅かしか行っていなかったが、沿線に多磨霊園が造られ旅客需要が見込まれたため1929年に多磨墓地前駅が開業し、旅客営業を強化した。

2019-01-21 00:19:13
井上遼 @histryo

『花の精』で上林氏が乗った「ガソリン・カア」は1929年の多磨墓地前駅開業と共に導入されたガソリンエンジン駆動の気動車である。1938年の西武多摩線は非電化であったため蒸気機関車や気動車が使われていた。戦前期に省線・私鉄問わず普及していたガソリンカーが走る姿が、文章の中に見て取れる。

2019-01-21 00:32:02
井上遼 @histryo

上林氏が「仕方なく乗ったガソリン・カア」で降りた、北多磨駅。2001年に白糸台駅と改称したこの駅は、今は島式ホームを挟んでの列車交換や車両基地の様子などが見られる。当時のガソリンカーはよく揺れ、レールは草で覆われていた。営業車の走るレールが草だらけというのは、今では信じがたい光景だ。 pic.twitter.com/RJjt2rMxaJ

2019-01-21 00:47:57
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上林氏は北多磨から徒歩で是政まで向かい、線路の様子を文章にしたためている。「線路は時々溝や小川の上を跨って」「私達は枕木伝いに渡らねば」線路沿いに道が無い所もあったのだろうか、線路の上を歩いて渡ったという。二時間おきにしか列車が来ないと知ってこその、鉄道の原風景なのかもしれない。

2019-01-21 00:57:21
井上遼 @histryo

上林氏が辿り着いた多摩川の河原は「川は細々と流れ/川の向こうは直ぐ山/南武電車の鉄橋を二輌連結の電車が渡って行った」とある。現在の写真と比べると、山というのは工場などが点在する対岸の小高い丘のことだろうか。撮影した昨日は冬のくすんだ色をしていたが、初夏には今でも濃い緑を湛える。 pic.twitter.com/aOv3fZT1I6

2019-01-21 09:01:43
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「南武列車」は現在のJR南武線のことで、今でも是政近くの多摩川にかかる多摩川橋梁を渡って走る姿が見られる。1938年の南武線はまだ「南武鉄道」という私鉄だった。多摩川の砂利を運ぶ貨物輸送が主目的の所謂「砂利鉄道」として1927年に開業した南武鉄道は大企業の沿線進出等により需要が伸びていた。 pic.twitter.com/0OILoLro92

2019-01-21 12:35:43
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上林氏が「南武電車」と称した通り、南武鉄道は開業時から電化した路線であった。当時は東京郊外に電化路線が増えた時代であり、目新しく煙の出ない電気の鉄道は「(路線名)電車」と鉄道会社や利用者から呼ばれ親しまれていた。「電車」「ガソリン・カア」という表現から当時の車両の様が見て取れる。

2019-01-21 12:36:41
井上遼 @histryo

1928年に架けられた南武の多摩川橋梁は、改築を経て現在も多摩川にその姿を見ることができる。上林氏が訪れた日と同様、晴れが続いた今の多摩川は砂利の河原が広がるほどに穏やかで慎ましい流れを見せていた。川べりには幾人もの釣り人が糸を水面に垂らす風景も、変わらずそこにあった。 pic.twitter.com/wxMtaIstBa

2019-01-21 12:42:03
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現在この近辺には「是政橋」という大きく立派な橋が架かっている。今の橋は2011年に完成した三代目だが、初代は木造製で1941年に架けられた。つまり上林氏が訪れた頃にはまだ是政橋は無かった。人が多摩川を渡る時には上林氏が渡った「仮橋」を使うか、「是政渡し」という渡し船を使う必要があった。 pic.twitter.com/fFELF3SYPO

2019-01-21 12:53:53
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「仮橋」とは川の流れが少ない時に渡す文字通り仮の橋で、川の水量が多い時には「是政渡し」の船が出ていた。上林氏が見た是政の多摩川は、現在の風景とは変わった所もあれば変わらない所もある。川の水面には鴨と思われる鳥が揺蕩い、飛び立ってゆく白い水鳥の翼が景色に際立っていた。 pic.twitter.com/E3PM958JsE

2019-01-21 12:59:15
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井上遼 @histryo

手持無沙汰の上林氏が河川敷で寝転んだという「砂利を採ったあとの凹み」。当時の川砂利はコンクリートの材料等として盛んに採取されていた。それを運ぶのが前述の「砂利鉄道」であり、JR南武線は勿論、西武多摩川線も曾ては砂利貨物を主力として開業した砂利鉄道の一員であった。

2019-01-21 15:11:52
井上遼 @histryo

西武多摩川線の前身である多摩鉄道は、砂利輸送だけでなく砂利採取・販売も自社で行うほどに砂利産業を主力としていた。川砂利の採取輸送は多摩川に限らず各地の川で行われていたが、砂利を採りすぎた故に環境への影響が戦後深刻化し各地の砂利採取が禁止され、砂利鉄道もその役目を終えることとなる。

2019-01-21 15:12:12
井上遼 @histryo

今はその名残すら見えない砂利産業の片鱗を、上林氏が綴った一言に垣間見ることができる。砂利採取が各地で禁止されたのは概ね1960年代、1964年東京オリンピックの建設ラッシュ特需を最後に砂利鉄道の多くは旅客専用化や休止廃線へと次の路を進むこととなる。

2019-01-21 15:12:44
井上遼 @histryo

この付近は、今はサイクリング・ランニングロードとして運動を楽しむ人の姿が見られる。一帯を開墾した戦国武将の名が付けられた是政の地の新たなシンボルとして車や人が自由に行き交う是政橋は、来年の東京オリンピックの自転車コースに選ばれている。是政の地に、再び栄光への架橋がかかる日も近い。 pic.twitter.com/6l9r9OSdW6

2019-01-21 15:20:22
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上林氏が武蔵境行の列車に乗るため訪れた是政駅は、今も昔も多摩川河川敷から歩いて数分の所にある。上林氏は是政駅を「寂しい野の駅」と称した。現在は閑静な住宅街が広がる是政駅周辺だが、当時は水田や松林等が点在する見渡す限りの荒野だった。時代が変わり増えた人口が流入しての変化が見える。 pic.twitter.com/EtB0kU74jB

2019-01-21 15:22:37
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上林氏が訪れた是政駅は「古びた建物には、駅員のいる家にだけ電燈が点いていて、待合室は暗かった/駅員は新聞を読んでいた」と書かれていた。列車な来ない時間は静かな空間であることは今も変わらないものの、当時は2時間に1本の列車間隔が荒野の駅をより寂しくさせていたのだと思う。 pic.twitter.com/yBE7NmzznC

2019-01-21 15:23:44
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一時間後の列車を待つ間に、上林氏は一棟のサナトリウム、そして辺り一面に咲き誇る月見草の野原を見たとある。闇に溶けてどこまでも続くように感じた野原と光灯るサナトリウムは、国木田独歩が著した武蔵野の風景とも重なっている。独歩の云う武蔵野の南端が、ここ是政に相当していた。

2019-01-21 17:58:31
井上遼 @histryo

長い列車待ちの間に幾つかの想いを募らせた上林氏は、いよいよ列車に乗り込むに至る。当時の最終列車は19:55是政発と今より4時間近くも早い。西武多摩川線の旅客輸送の発展がよく判る。昨日19:55の是政駅を眺めていたら、小さな子供客と乗務員の微笑ましいやりとりに出会ったりもした。 pic.twitter.com/ZpyLjVPzui

2019-01-21 18:01:25
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上林氏が乗った最終列車には、運転士と車掌が乗務していた。現在の西武多摩川線はワンマン運転のため、そこも当時と今で違う。更に特筆すべきは車掌が女性という点である。近年は女性の鉄道乗務員が増えていると世間で話題に上がっているが、戦前は女性車掌はむしろよくある存在であった。

2019-01-21 18:02:48
井上遼 @histryo

1930年に日本で初登場した女性車掌は、バスや路面電車等での活躍が特に有名である。美人の女性車掌が評判を呼び乗客が増えたバスもあった。その女性車掌が西武のローカル路線でも居たということを、上林氏の文章は伝えている。その女性車掌もまた線路にまで群生した月見草を摘んでいる描写が印象的だ。

2019-01-21 18:03:11
井上遼 @histryo

乗客や自転車を飲み込んだ旅客列車が是政駅を出発すると、三方からの月見草の描写が一気に押し寄せてくる。列車が脱線してしまうのではと心配するほどの月見草の野原、花の天国を走るガソリン・カア。住宅地や畑が広がる現在の是政駅とその沿線には、残念ながらそのような野原を見ることはできない。

2019-01-21 18:04:38
井上遼 @histryo

だが、西武多摩川線の線路沿いには、草の群生が随所に今も点在している。今の季節まだ見ることは叶わないが、春には線路沿いのあちこちで菜の花などが咲く。境から一駅の新小金井駅からは古来の名所である小金井桜も程近い。西武多摩川線は昔の一面の野原こそ失ったが、今でも花の天国を走っている。 pic.twitter.com/X6J2JaNRFd

2019-01-21 18:14:09
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月見草は初夏の花。時期になれば曾て上林氏の見た是政の月見草、その子孫が線路沿いや河川敷に僅かながら生き永らえているかもしれない。初夏の晴れた夕刻に、西武多摩川線へ乗って月見草を探しに行ってみてはいかがだろうか。 pic.twitter.com/Xd7KFvr4V0

2019-01-21 18:27:18
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春の天国を走る西武多摩川線 (撮影日:2018年3月31日) pic.twitter.com/i8LYft6BSB

2019-01-21 19:21:30
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小金井桜 (撮影日:2018年3月27日) pic.twitter.com/Afu8DvXTWP

2019-01-21 19:29:57
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夕刻の是政 (撮影日:2018年1月26日) pic.twitter.com/CV1v0cmbxY

2019-01-21 19:34:17
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まとめたひと
遼@趣味垢 @ryo_railway

青鉄中心の鉄垢のはずだった趣味垢。齢30↑。腐。雑食。擬人化脳。字書き。コスを撮る。歴史を掘る。フォロバド下手芸人。青鉄の西翼。砂利鉄。バスも好き。アイコンむつさんありがとう。🐎娘では99世代推し。リアル競馬も観る。とうらぶ来派の女。リタルポケモンゲーム出戻り勢。Mリーグまったり観戦