参考文献: 『新編弘前市史』弘前市立図書館 『野辺地戦争について』桜庭秀俊 『明治維新の再検討』堀込純一 『戊辰戦争』保谷徹 続きを読む
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シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年(1868)1月3日、京の鳥羽街道と伏見において旧幕府軍と薩摩藩、長州藩との間で戦闘が勃発した。いわゆる鳥羽・伏見の戦いである。1月4日、仁和寺嘉彰親王が征討大将軍に任ぜられ、以降、新政府軍と旧幕府軍・北越奥羽諸藩との間で東征、奥羽北越戦争まで続く「戊辰戦争」が始まる。

2024-03-19 00:20:13
シービー @MrCB_Harukaze

鳥羽・伏見で敗北した徳川慶喜、松平容保、松平定敬、幕府首脳らは1月6日夜、大阪城を脱出。8日朝、幕府軍監開陽丸で「東退」した。近畿・西国の諸藩は概ね新政府に帰順する。東国では東征が本格的に開始され、徳川慶喜は新政府に対して恭順の姿勢をとった。

2024-03-19 00:21:05
シービー @MrCB_Harukaze

一方、1月17日、新政府から仙台藩に対して会津藩追討令が出され、秋田藩、盛岡藩、米沢藩に仙台藩の応援が命ぜられた。この頃の奥羽諸藩は、新政府の機嫌を損じないよう気をつけながら各藩使節を互いに送り、諸藩の動静を探っていた。

2024-03-19 00:22:11
シービー @MrCB_Harukaze

弘前藩も例外ではなく、秋田藩、仙台藩等の使者を迎えて、これに答礼の使節を送るなど情勢の把握に躍起になっている。3月4日、秋田藩の使者が弘前藩を「提携して王事に勤めん」と言う。翌5日、仙台藩の使者が、会津征討の処置を公平とするための協力を申し入れた。

2024-03-19 00:22:57
シービー @MrCB_Harukaze

藩内の方針が定まらない弘前藩は、3月20日、家老西館宇善を答礼使節として両藩に送っている。28日には仙台藩から再び使者が、4月7日には米沢藩の使者も訪れている。これに対して弘前藩は17日、答礼の使節を米沢藩に送っている。

2024-03-19 00:23:54
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野辺地戦争戦死者の墓所 (引用:青森県野辺地町) town.noheji.aomori.jp/kanko/spot/390 pic.twitter.com/75P3zlunRG

2024-03-19 00:32:05
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弘前藩は、慶応4年(1868)2月にミニエー銃1000挺を購入、農兵には和銃を貸与して訓練を行うなど軍制近代化に着手し、3月には軍政局を創設して銃隊中心の近代軍編制をめざす。

2024-03-19 13:54:45
シービー @MrCB_Harukaze

だが、戦いによる混乱は望んでおらず、仙台藩に対して「戦争を阻止するための陳情は奥羽諸藩の意見も同様であれば協力をする意志がある」と返答すると共に、秋田藩に対しては「言うまでもなく皇国のためになるよう尽力したい」と返答し、激動の事態をうまく渡りきろうとしているように見える。

2024-03-19 13:56:35
シービー @MrCB_Harukaze

そのような中で、弘前藩の藩論は仙台藩の和平的解決案に傾きつつあった。 一方、盛岡藩であるが、藩自体は、もともと勤皇思想が強かったが、弘前藩同様使節交換や京都に留守居役を置くなどして情報収集に努め、藩論は定まっていなかった。

2024-03-19 13:59:16
シービー @MrCB_Harukaze

新政府は、慶応4年(1868)4月6日、秋田藩に庄内藩征討を命じる。同日、弘前藩西館宇膳が仙台滞陣中の奥羽鎮撫総督九条道孝から庄内藩征討応援命令を受け取った。弘前藩は戸惑いつつも、いったん新政府側の命に応じて応援兵出兵の準備を始める。

2024-03-20 20:27:56
シービー @MrCB_Harukaze

なおこれを受けて会津藩と庄内藩は「会庄同盟」を締結している。弘前藩は14日、出兵協議のため、秋田藩に使者を派遣し、20日、松野栄蔵に580人を先遣隊する出兵を命じた。しかし、秋田藩の姿勢が揺れつつあった。

2024-03-20 20:28:42
シービー @MrCB_Harukaze

出兵行動を起こすものの、鎮撫総督府に庄内藩の罪を問い、(それが納得できるまでであろう)追討猶予を願い出ている。しかし、沢為量副総督を総大将とした総督軍は、参謀大山綱良率いる摩藩兵1小隊、桂太郎率いる長州藩兵1中隊、新庄藩兵1小隊が23日に新庄を本陣とした。

2024-03-20 20:30:10
シービー @MrCB_Harukaze

押し切られる形?で秋田藩も庄内藩征討を決意する。庄内征討戦は激しい戦いであったが、次第に征討軍が不利となっていった。そしてこの頃、仙台藩を中心として奥羽諸藩の間に違う動きが現れる。

2024-03-20 20:30:38
シービー @MrCB_Harukaze

6月15日、弘前藩は官軍の証である菊花証旗(錦の御旗)の返納を総督府より迫られる事態となる。このころの藩首脳は新政府軍に従うことを方針としてように見受けられる。京都でも弘前藩が奥羽越列藩同盟側についたする疑念が強く、7月5日、憂慮した京都留守居役の西舘平馬が急いで帰藩した。

2024-03-23 18:28:50
シービー @MrCB_Harukaze

西舘は、朝廷からの勤皇遵守の令書を示した。令書は弘前藩に対し、遠隔の地だから情勢に疎くなるだろうがと一応の理解は示しつつ、佐幕の疑いがある旨を告げ、道を誤ることのないよう警告をしていた。

2024-03-23 18:29:39
シービー @MrCB_Harukaze

さらに、津軽家が宗家と仰ぐ近衛忠熈から、「勤皇に励み、家名を傷つけることのないよう」という令書と岩倉具視による同じ内容の書状も提出する。さらに西舘平馬は、京都で会津・米沢・庄内・仙台藩等の同盟の中心となっている藩が京都役宅を没収され、入京を禁止され、朝敵となった事実を告げた。

2024-03-23 18:30:17
シービー @MrCB_Harukaze

ここに至り、「純一之勤王」新政府側に従うように藩論を統一することとなった。7月8日、弘前藩は、奥羽越列藩同盟からの脱退、「一意王事に勤むるの方向を確定」と藩論を統一する。10日、すでに同盟を脱退していた久保田藩に対して「協力して勤皇に従事」と書状を送る。

2024-03-23 18:30:58
シービー @MrCB_Harukaze

そして、7月13日、弘前藩は藩内に対して奥羽越列藩同盟脱退を通知し、15日には正式に新政府への恭順を伝えた。これを観て、7月17日、奥羽鎮撫総督府は弘前藩に対して再び庄内藩討伐応援命令が発せられた。弘前藩は、今までの新政府の態度を挽回するかのようにすぐに秋田藩へ応援部隊を派遣した。

2024-03-23 18:31:44
シービー @MrCB_Harukaze

この弘前藩の、”いままでの遅れや不遜な態度を挽回する”と見える行動は、後の野辺地戦争の一因になっているように思える。

2024-03-23 18:32:10
シービー @MrCB_Harukaze

盛岡藩家老楢山佐渡が奥羽越列藩同盟を支持した理由には一説ある。京に居るころ岩倉具視と会い、岩倉が薩長の新政府を嫌悪し、第二の幕府となることを恐れていると言い、その対抗勢力として奥羽諸藩の結束に期待する、と楢山に語ったためと言われている。

2024-03-26 20:34:51
シービー @MrCB_Harukaze

6月24日、九条道孝ら奥羽鎮撫総督一行は、秋田藩に駐留中の澤副総督と合流すべく盛岡を出立し、7月1日に秋田に到着する。合流後の鎮撫総督軍は、薩摩藩103、長州藩106、筑前藩141、佐賀藩753、小倉142の計1245名にのぼり、秋田藩に威圧を与えることになる。

2024-03-26 20:36:55
シービー @MrCB_Harukaze

秋田藩においても新政府派と同盟派に分かれて対立していたが、7月3日、若手を中心とした新政府が藩主に迫り、奥羽越列藩同盟からの離反・庄内討ち入りを決断させる。7月4日、秋田に駐留する九条総督に出陣と先鋒を申し出た。

2024-03-26 20:38:01
シービー @MrCB_Harukaze

間の悪いことに、同日、秋田藩に仙台藩士11名が使節として訪問していたが、同盟離脱を決意した秋田藩の勤皇派武士により、6名が殺害、5人が捕縛されている。

2024-03-26 20:40:02
シービー @MrCB_Harukaze

秋田藩の同盟離脱は奥羽諸藩に衝撃を与え、7月7日、新庄藩、矢島藩、本荘藩、亀田藩が奥羽越列藩同盟を離脱する。そして、7月11日、新庄藩の手引きで庄内藩征討の軍が進撃を始める。秋田戦争のはじまりである。

2024-03-26 20:40:33
シービー @MrCB_Harukaze

ちなみに、このつぶやきでは秋田藩としているが、このころは正式には久保田藩を称しています。

2024-03-26 20:41:08
シービー @MrCB_Harukaze

弘前藩は、総督府からの征庄出兵の命を受けるが、このとき同時に弘前藩領内に入り込んだ仙台兵の討ち取りも命じられる。総督府は、弘前藩に対して「二心なきよう」と念を押す。この言は弘前藩を不安にさせたであろうし、勤皇の証明をしなければとあせりを招いたであろう。

2024-03-28 20:45:40
シービー @MrCB_Harukaze

8月1日、弘前藩兵は本荘藩に入る。秋田・弘前連合軍は同盟軍と戦闘を開始。しかし、苦戦を強いられ、両藩兵は本荘への引き揚げ命令を受けた。また、亀田藩が同盟軍に対して降伏をしたため、本荘藩はさらに苦しい立場に立たされ、総督軍は本荘から退き、秋田領へと撤退する。

2024-03-28 20:46:39
シービー @MrCB_Harukaze

一方、盛岡藩は、家老楢山を総大将とし、軍を三方面に分け、その一手を、7月27日、秋田藩藩境角口に兵2000で秋田藩に向かわせる。8月8日、秋田藩境の角口に滞陣した楢山は秋田藩の将茂木筑後に対して"奥羽同盟の御趣意に立ち戻る"ことを促す書状を送った。

2024-03-28 20:48:34
シービー @MrCB_Harukaze

茂木はこれを拒否している。事実上の宣戦布告であろう。盛岡藩は8月10日、十二館を攻撃。茂木は不利とみたのか退却する。進撃は続き、22日には大館城を落とし、さらに、二ツ井まで兵を進めた。

2024-03-28 20:49:53
シービー @MrCB_Harukaze

盛岡藩の動きを見た総督府は、8月10日、盛岡藩征討を表明し、同時に総督府参謀醍醐忠敬を弘前に転陣させる。盛岡藩征討を進めるための準備であろう。

2024-03-28 21:00:10
シービー @MrCB_Harukaze

盛岡軍の進撃はここまでであった。8月28日、総督軍参謀副役佐賀藩士田村乾太左衛門が近代的装備の援軍500を率いて秋田藩の北方面に到着する。佐賀藩援軍の加勢により、盛岡藩は徐々に劣勢となり、29日には川口まで後退する。

2024-03-29 21:23:24
シービー @MrCB_Harukaze

秋田・庄内方面で新政府軍は苦戦し、戦線は膠着状態であったが、奥羽越列藩同盟派の諸藩が徐々に同盟を脱退するという動きが加速していた。北越・東北南部方面で新政府軍の進撃が続いていたことも影響したと思われる。

2024-03-29 21:25:11
シービー @MrCB_Harukaze

奥羽越列藩同盟の中心二藩のひとつ米沢藩が8月28日、新政府軍に嘆願書を提出し、事実上降伏する。秋田方面では、8月28日、角館を攻めた庄内藩は新政府軍に敗北する。さらに、9月2日、大館で秋田藩・佐賀藩軍が列藩同盟・盛岡藩軍を破り、5日には大館を奪還する。

2024-03-29 21:26:15
シービー @MrCB_Harukaze

9月8日、起死回生を図る庄内藩と同盟軍は内陸と日本海側の両方から角館を攻撃するが、18日には庄内藩が藩内に退却し、新政府軍が勝利する。この間、9月15日には仙台藩、23日には庄内藩が降伏している。

2024-03-29 21:27:03
シービー @MrCB_Harukaze

盛岡藩は、9月20日、弘前藩に降伏のための攻撃停止を嘆願し、21日、全軍に戦闘中止を命じた。25日、盛岡藩は総督府参謀前山精一郎に降伏を申し出る(前山は却下)。その後、すべての武装を解除し、10月10日、盛岡城を開城し正式に降伏した。10月15日、奥羽鎮撫総督府は東北戦争平定を宣言する。

2024-03-29 21:28:12
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.