合い言葉は、「辰己と問えば巳」
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シービー @MrCB_Harukaze

慶応2年(1866)1月21日(諸説あり)いわゆる「薩長同盟」が成立する。これにより、薩摩は幕府による長州征討には加担しないことが約された。功山寺決起から内訌を経て、正義派が長州藩の実権を握って以後、幕府に対して「武備恭順」を唱えて戦争も辞せずの構えであったが、確実なものとなる。

2021-10-07 18:22:49
シービー @MrCB_Harukaze

1月22日、板倉勝清、一橋慶喜、公家らが朝議を行い、長州処分が勅許された。処分内容は、防長のうち十万石を取り上げ、藩主敬親は蟄居隠居、世子元徳は永隠居、家督はしかるべきものに相続させるというものであった。

2021-10-07 18:27:09
シービー @MrCB_Harukaze

征長の通告のため、2月7日、老中小笠原長行が広島に下向し、長州藩毛利敬親父子と三支藩主、吉川経幹を召喚した。しかし、長州藩は第一次征長で処分は済んでいるとして受理しなかった。小笠原はさらなる要求を発したが、ほとんど長州藩が拒否したため、6月5日を以て征長軍に進撃するよう命じる。

2021-10-07 18:31:55
シービー @MrCB_Harukaze

幕府による長州征討が進む中、4月14日、薩摩藩大久保利通が大阪城において薩摩藩の出兵拒否を建白した。出兵拒否は前日13日に連絡役品川弥二郎に伝えている。長州藩庁にはやじから直ぐに情報を伝えている。

2021-10-10 12:12:33
シービー @MrCB_Harukaze

四境戦争であるが、当初は五境戦争が想定されていた。大島口、石州口、芸州口、小倉口に萩口である。萩口(萩の海から攻撃)には薩摩藩が割り当てられる計画であったらしい。薩摩藩の出兵拒否で、結局萩方面の出兵は回避された。

2021-10-10 12:16:22
シービー @MrCB_Harukaze

当時長州藩の軍事責任者は大村益次郎軍政専務用所役であった。基本的に四境の兵配備や戦略は大村が中心になってまとめられたと思われる。大島口は「多数の兵を費やすは大計の得たるものにあらず。ゆえに土着の村上氏の水兵、僧兵およびこの地の農商兵を持ってこれに充て」とある(『防長十五年史』)

2021-10-10 12:26:59
シービー @MrCB_Harukaze

石州口は「力の及ぶだけ大森・浜原口あるいは杣口を防御いたし、(略)戦わずして敵兵奔走に就かれ、内輪瓦解いたし候は必然」とあり、兵の損耗を防ぎ可能な限り戦わずして勝つという方針と考えられる。

2021-10-10 12:31:43
シービー @MrCB_Harukaze

芸州口についての大村益次郎の意見は「苦の坂限り防御の構えを堅持にし、(略)(敵が)滞陣するときは芸州民苦しみ大方ならず、必ず芸人と不和を生じ、戦わずして芸州地を敵兵退き候」としているが、長州藩は広島城下まで進撃することに決定。蔵六の意見は退けられた。

2021-10-11 19:42:49
シービー @MrCB_Harukaze

小倉口は「高杉晋作と山県狂介の軍略で敵の機先を制して馬関海峡を渡り、門司の敵を一掃し、海軍沿いに西下して小倉城を陥落させ、ひろく豊前を抑える」ということで、実質晋作坊ちゃんにお任せと言って良い。

2021-10-11 19:47:20
シービー @MrCB_Harukaze

今まで述べたとおり、四境戦争で大村益次郎の意見がすべて取り入れられたわけではない。桂小五郎の信頼絶大とはいえ、実戦で結果が発揮されたわけではない。軍事専務用所役とはいえ、この頃は軍政をすべて握っていたわけではない。大村が直接指揮するのは参謀として石州口に限定される。

2021-10-11 19:53:09
シービー @MrCB_Harukaze

慶応2年(1866)6月3日、広島城下の幕府軍が周防大島へ進撃するため厳島への移動を開始する。陸軍部隊は7日に集結する。6月7日午前10時、幕府艦長崎丸が千葉先沖から室津瀬戸口の人家に大砲4発を砲撃する。四境戦争の戦闘の始まりである。

2021-10-11 20:04:17
シービー @MrCB_Harukaze

幕府軍長崎丸は次いで安下庄辰島に乗り入れさらに四発大砲を撃ち、伊予大洲方面に移動する。この砲撃の報告は直ぐに山口の政事堂に伝えられた。が、今回の砲撃は様子見程度として「待敵之所置肝要之事ニ御座候」と返している。

2021-10-12 19:37:45
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩は大島に藩主力を割かなかったが、大島占領後に長州本土に上陸するのに備えて、熊毛郡に第二奇兵隊・浩武隊などを配置していた。もし、本土侵攻がなければ芸州口の援軍にもできる。おそらく、大村益次郎の考えであろう。

2021-10-12 19:48:18
シービー @MrCB_Harukaze

慶応2年(1866)6月8日、伊予松山藩の軍艦が大島東の油宇村に砲撃を加えた。さらに幕府直轄軍軍艦は富士山丸、翔鶴丸、八雲丸、旭丸等で大島北の久賀村を砲撃する。どちらもこの日はそのまま引き上げている。この報は10日午後6時に伝えられた。

2021-10-12 19:57:14
シービー @MrCB_Harukaze

久賀の砲撃に対して、藩庁からの指示よりも前の6月9日に上関宰判防備担当の第二奇兵隊軍監世良修蔵・林半七が大島対岸遠崎まで援兵を出すことを上関軍監山県甲之進に申し入れた。山県は「兵士少々遠崎マテ位ハ然可」と回答した。9日午後6時、林半七ほか四名と第二奇兵隊第二小隊は遠崎まで出陣する。

2021-10-12 20:05:18
シービー @MrCB_Harukaze

6月11日午前6時、幕府軍翔鶴丸、八雲丸、旭日丸が久賀村を艦砲射撃、午前9時陸軍1大隊が上陸する。大島の農民兵400は山上に逃げた。幕府軍は民家を中心に放火を行う。ちなみに17日にも放火を行っており、これは後に政治問題化し、7月2日宇和島藩主伊達宗徳は批判し、出兵辞退を届け出ている。

2021-10-13 22:39:43
シービー @MrCB_Harukaze

幕府直轄軍が大島北の久賀を攻撃する一方で、同じ11日に松山藩が南の安下庄を攻撃した。松山藩軍は3大隊を上陸させる。守備していた村上亀之助の兵は退却する。松山藩兵は安下庄村を占領し、快念寺を本営とした。ちなみにここでも放火、略奪が行われ、さらに、領民の惨殺婦女暴行したと言われる。

2021-10-13 22:47:32
シービー @MrCB_Harukaze

8日に久賀が砲撃されたことは、10日午後6時に山口政事堂に届いた。山田右衛門は木戸孝允に至急の来宅を依頼する。二人は相談し、応戦を決断する。藩庁は、「浩武隊と第二奇兵隊は大島へ出陣」そして・・・

2021-10-13 22:54:55
シービー @MrCB_Harukaze

「谷潜蔵(高杉晋作)は三田尻海軍局の丙寅丸に乗り組み11日大島へ出陣」という命令が出された。この頃坊ちゃんは山口に居た。よくドラマでは晋作坊ちゃんが独断で軍艦を出撃したように描かれるが、実際には藩の命令であった。

2021-10-13 22:58:18
シービー @MrCB_Harukaze

上関代官小川市右衛門には「偽装のため丙寅丸に外国旗を掲げるが誤認しないこと。大島の地理と海程に詳しいものを手配して途中の室津上関で乗せること」が沙汰されている。

2021-10-13 23:00:38
シービー @MrCB_Harukaze

6月14日、第二奇兵隊白井小助、林半七、世良修蔵と浩武隊小笠原弥右衛門、毛利伊賀の軍監山県甲之進、上関代官小川市右衛門らが軍議を開き、午後6時を期して大島進発を決定する。各部隊の上陸部署は、屋代口:第二奇兵隊4小隊、浩武隊2小隊ほか8小隊。(続く

2021-10-16 19:06:14
シービー @MrCB_Harukaze

沖浦口:上関1小隊ほか7小隊、三蒲・椋野口:浦家兵(世良の主家である浦家)1個小隊、大島勢の約12小隊。15日未明全軍を渡海させた。上陸後、垢水口・源明口・笛吹口・椋野口の4手に分けて進撃を開始する。大島西部にて山岳戦が展開される。第二奇兵隊と浩武隊は日前村の普門寺を挟み撃ちにする。

2021-10-16 19:22:10
シービー @MrCB_Harukaze

普門寺は守備兵の松山藩兵が不在であった。普門寺を占領した林は兵を潜ませて、後でやってきた松山藩兵を撃退する。その後日が暮れたため、本陣の屋代村西蓮寺に後退する。攻撃に遅れた浩武隊も同じように移動する。

2021-10-16 19:30:02
シービー @MrCB_Harukaze

緒戦は長州藩の勝利であった。次に久賀村方面で衝突が起きた。浦家中心兵と村上亀之助兵が各々別方面から久賀村に進撃する。平原峠の幕府軍と村上亀之助勢の間で戦端が開かれる。途中村上隊が苦戦するが浦家隊が加勢しする。浦家隊は約30の兵が全てミニエー銃を装備し、散兵戦術が訓練された隊であった

2021-10-16 19:39:03
シービー @MrCB_Harukaze

平原峠は激戦が行われたが、決着は着かず、日暮れとなったため、長州藩兵は屋代村に帰陣し、幕府軍も引き上げる。この戦いには大島の島民が加わり大声を出したり投石するなどして、それに驚いた幕府軍は多数の兵に就位されたのではと不安になったという。

2021-10-16 19:44:52
シービー @MrCB_Harukaze

6月16日朝、浦家の秋良政一郎が久賀村沖の幕府軍艦が厳島に退いているのを発見した。秋良は本陣の屋代村西蓮寺に行き、第二奇兵隊軍監林半七に久賀村の攻撃を申し入れた。午前10時、第二奇兵隊ほか諸兵は久賀村攻撃のため垢水峠に向かう。そこで安下庄の松山藩軍が三手に分かれ向かってくるのが見えた

2021-10-17 17:50:15
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩軍は作戦を変更し、浩武隊を石観音清水峠に向かわせ、第二奇兵隊は山の頂にて攻撃を行った。要は、山頂からと後ろから敵を挟み撃ちにしたのである。戦闘中午後2頃小雨が降り出した。松山藩の兵は旧式の武装で、おそらく銃が使えなくなったと思われる。

2021-10-17 17:55:41
シービー @MrCB_Harukaze

それを見た第二奇兵隊は山頂から雨の如く小銃を撃ち立てた。松山藩はたまらず敗走した。日暮れになったが、長州藩は陣形をそのままに勝鬨を挙げると、松山藩軍は安下庄まで逃げ、さらに船に取り付き午後6時頃までには一兵残らず出帆した。

2021-10-17 18:00:37
シービー @MrCB_Harukaze

浩武隊は進軍途中に松山藩軍と出会い、三小隊を散開させ横隊にして戦闘を行う。長州藩の十八番散兵戦術が使用されたのである。6月17日午前4時、第二奇兵隊は安下庄へ下り、制圧した。

2021-10-17 18:05:03
シービー @MrCB_Harukaze

6月17日朝、安下庄の制圧を終えた長州軍は、久賀村の幕府軍の追討に移る。軍勢は四手に分かれる。世良修蔵は、清水峠で第二奇兵隊・上関兵を久保河内から、浩武隊・大野兵は海岸に出て海岸線から久賀村へ向かわせる。第二奇兵隊総督の清水美作の隊は垢水峠から、浦家隊は丸山方面から攻撃を開始する。

2021-10-18 19:13:28
シービー @MrCB_Harukaze

幕府軍は艦砲射撃の応援を得て浜辺で戦闘を行うが、長州藩兵が幕府軍を圧倒する。日が暮れてきて艦砲射撃が出来なくなった頃、軍艦から撤退の指示が出る。陸軍部隊は小舟に乗り移り軍艦目指し撤退する。長州軍は日暮れでの追撃は危険と判断し南方の山岳地帯に後退して宿陣する。

2021-10-18 19:21:55
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幕府兵は軍艦に撤退したが、軍艦は久賀村沖に停泊したままであった。長州藩は18日見張りを置いて全軍を屋代村に後退させた。が、19日早朝、幕府歩兵が和船15艘で再び久賀浦に上陸する。そして、久賀村民家から略奪を行い、火をつけた。人家の大部分がは焼失。翌20日朝幕府軍は残らず撤退した。

2021-10-18 19:29:13
シービー @MrCB_Harukaze

慶応2年(1866)6月20日、幕府軍の撤退をもって四境戦争大島口の戦闘は終了する。この大島奪還作戦の実質的な指導者は第二奇兵隊軍監世良修蔵と言われている。世良が作戦を練り、林が前線を指揮という分担であろうか。世良修蔵は慶応3年海軍局勤めとなり、その後品川弥二郎と共に京都で政治工作を担当。

2021-10-18 19:37:57
シービー @MrCB_Harukaze

四境戦争図_大島ぐんの図会(大島口の戦い)(山口県立山口博物館) pic.twitter.com/Ldo9CnVCmD

2021-10-18 19:40:50
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シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.