鍵垢で公開した未完・未発表・パロディ作品
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キスする時、鼻が邪魔にならないかしら。
1943年、「誰がために鐘は鳴る」イングリッド・バーグマン。

なるほど確かに、鼻が邪魔だな――と斎は思った。

アルコールの苦味と、微かな柑橘系の匂いがどちらからとも分からずに混ざり合う。
飲みかけのストロングゼロはすっかり気が抜けて、テーブルの上で待ちぼうけを食らったまま汗をかいている。
「酔った勢いで。」最高の言い訳にして最大の免罪符を手に入れた斎には幸いなことに失うものは何もなかった。元より彼は卑きょうな男である。
見開かれたペールブルーと終始視線がぶつかり合う、彼はムードという言葉を知らないらしい。斎はからかうように嗤って、薄いくちびるに噛みつくように唇を重ねた。

メントスコーラ

準備はいい?ウィリアムは瞳を輝かせながらしっかりと頷く。きららがパチパチと手を叩くと、輝く星の粒子が彼女の指先からこぼれ落ち、妖精の粉のようにさらさらとコーラのボトルの中へ落ちた。
それらは眩い小さな光を放って、二酸化炭素とぶつかり合い、炭酸水を爆発させて飴色のシロップを逆流させる。
重力にさえ逆らって勢いよく天高くへと溢れ出すコーラに二人は大興奮で飛び跳ね、インディアンのような愉快な雄叫びを上げながら降り注ぐシロップの雨からきゃあきゃあ逃げ惑う。
駆けるたび、彼女の靴底の小宇宙が瞬いた。
ウィリアムは気まぐれに尋ねる、「きみの星でも雨は降る?」

「ううん、降らないよ」

「だから雨の日ってすごく楽しみ!」きららは両手を広げ晴れた大空を仰いだ。
空は雲ひとつなく澄み渡り、真昼だというのに青い月が小さく浮かんでいる。
なぜ雨が降るのか、なぜ雨が降らないのか。
太陽の熱で温められた海の水が蒸発し、それが上空で冷やされ雲となり、雲が地上に雨を降らせ、それが山から川へ川から海へと流れ出し、こうして地球の水は循環する。
彼女の星は太陽からはあまりに遠く、雨は降らない。
ごく単純でいて精巧な地球の水の循環システム、しかしそれについて二人が知るはずもない。

「え、じゃあ宇宙人ご飯とかお風呂とかどうしてるの?天の川の水から上水引いてるの?」

アルハラ

愛だの恋だの馬鹿らしい。
酔ったラディアンは吐き捨てるようにそう言い、乾いた声で笑った。どこか自嘲めいた笑みに見えたのは、絶望的にアルコールへの免疫がない目の前の酔っぱらいを哀れに思うせいだろう。
美酒が彼にもたらしてくれるのは恍惚とするような一時の快楽でもましてや親睦を深めるきっかけでもなく、人間不信と地面を這いつくばるような最悪の気分だけだった。
かわいそうに、まあ私のせいなんですけどね。
机に頬をつけて伏した淡い瞳に涙が滲んでいる。ガラスの目玉も泣くことがあるのかと、この時斎は初めて知った。
否、自身もいい映画を見て涙が出ることも腹がねじ切れるほど笑うこともあれば、心臓は絶えず拍動し、血は巡り、アルコールを吸収する。その身を成すものが異なるだけで構造は皆同じ。
空のグラスに酒を注ぐ間にさえ脳は思考することをやめない。なのに酒は判断力を鈍らせ、言いたいことと言いたくないことの言葉選びまでさせなくするから、一度溢れてしまえば簡単に決壊する。そして世の中にはそれが耐えられないほど屈辱になる人間もいる。彼のように。
写真機は精密機器だ、螺子とギヤマンでできたからくり。小さな螺子ひとつとっても不要なものはひとつもなく、全ての歯車は秩序正しく噛み合って無心で働き、そのガラスの眼は残酷なまでに現実を映し出す。ゆえに世の中の複雑さをも時に受け入れ、奇天烈な人間を好むのだろう。現実と非現実、それが彼の世界での常識なのである。
しかしそれらの不完全さや制御できない抗えない力が自分自身の内で起きるとなると途端に怖気付くのだ。今日まで酒を敬遠してきたのも、それを周到にも誰にも悟らせなかったのもたぶんそのせい。
かくいう斎も酒は時おり嗜む程度で、決して強いわけでもないがかと言って弱いわけでもない。しかしどちらかと言えば酒は不得意である、人を弱くさせるから。なんとも都合がいい。
人は慰めや虚勢を張ろうとして酒の力を借りたがる、結果弱いところを惨めに曝け出すことになる。
一杯、二杯と、グラスを満たすたびまるで足もとに塔を築いているようなものだ。上からの眺めは最高だが、脆弱な造りは長くは持つまい。塔の崩壊は時間の問題である。要は飲み方と使い用だ、酒は飲んでも呑まれるな。人生における大事な教訓のひとつ。
濡れたガラス玉がもっと見たくて前髪に触れた、払いのけることすらできないようで彼は恨みがましく空虚を睨む。抵抗されないと調子が狂う、じゃじゃ馬をついに乗りこなしてしまったようで少し寂しい。じゃじゃ馬はじゃじゃ馬だからよいのである。
酔っぱらいは話の腰を折って滔々と語る、「結婚も恋人も契約だと思うんだ」
「それらは生きるための手段の契約だ」
若干呂律は怪しいが、語る言葉は淀みがない。
一理ある、というか実際世の中はそれくらいシンプルなことで回っているのだろう。
「貴方を一番に愛します、だから俺のことも愛してくれ」
全くもってその通り。不思議なことに命あるものはいつかひとりで死んでいくのに、ひとりでは生きられない。

「いいよね、君たちはさあ。もう契約してるのに、恋人同士になってさあ、二重契約じゃないか、より強固にって?はは、愛だの恋だの馬鹿らしい」

「なんです?自分がそういうのを持ってないから拗ねてるんですか?」

思わず刺々しい言葉が溢れたのは単純に腹が立ったから。
二人の関係を馬鹿にされたから?私たちの間にある完璧な揺るぎない契約を、何も知らない第三者に踏み躙られたから?違う。現実と正しさを前に不安になったからだろう。
世間一般の常識的に考えて、一人の人間の人生にアンティークと契約者の関係を踏み越えたそれ以上のいかなる契約も不必要で不利益なのだ。
人間同士のそれとは違う、どうしたって利己的で生産性のない関係は二人だけの小さな世界を築くほかに術もないし神父の前で神に誓うこともない。小さなすれ違いや意見の相違が火種となって取り返しのつかないことになってしまえば全ての関係の破綻をも招きかねない。
つまり、いつかもし捨てられるとしたら自分の方という恐怖が一生ついてまわる。そしてそれは今在る己としての死を意味するのだ。
斎は柄にもなく感情的になった、もちろん表面上はほとんどそれと分からない程度ではあったが。感情とは人間誰もが持ち得る弱さである。
この世に生を受けた瞬間から全ての人間に与えられ、契約の名のもとにアンティークへも備えられる。
それ自体にどうこう言うつもりはないが感情は全ての人間が克服すべき弱点で、斎はそれらと常に一線を画していた。
だからふと気を緩めた時に心かき乱されると、たびたびどうしていいのか分からず持て余して、とびきりの嫌味や皮肉で相手の火に油を注ぐのが斎の不満の表し方であった。
それで大勢から恨みを買っているであろうことも事実だが、「今度ぜひサロンへいらしてください」とでも一言言えば大抵の者は納得する。
飲み慣れない北国の酒がいけなかった、まともに相手する必要もない酔っぱらいの戯言にいちいち喧嘩腰になるくらいには斎も酔っていた。
ラディアンはあどけなさの残る横顔にひどく大人びた表情をしてしろい唇で笑い、呟いた。思春期の声変わりの途中の男の子みたいに歪な、真夜中に枕元で聞くうわ言のように熱に浮かされた掠れた声で。
「まさか、俺にもあるよ。女に愛されたこと」

FBIパロいつあい

アイザック、今日からお前の新しい相棒だ。二人ともオリコウで、仲良くするように。
新しい相棒、と紹介されたその人物についてのアイザックの第一印象はといえば。忘れもしない、NY支局の狭苦しい散らかったオフィスの奥で、休暇中のボスのデスクを我が物顔で使いながらアイツは待ちくたびれたと言って誰かの個人ファイルをそれは熱心に読んでいたのだ。
地毛だか染めてるんだか知らないけど血のように濃い赤毛、相手に感情を悟らせない作りものめいた微笑、レッドカーペットのムービースターかイタリアンマフィアのような隙のないダークスーツ。

「Aから順に読んで、もうFまで来てしまいましたよ。アナタのイニシャルはIだからもう少し先でしたね。まァお楽しみはまた今度。
どうも、斎と申します。初めまして、アイザック」

とんでもないヤツが来たな、と思った。まさしく超大型新人。
二人は握手を交し、斎は昔の古い映画のセリフになぞらえて『これが俺たちの美しい友情のはじまりだな』とアイザックの手を力強く振ったのだ。俺はコイツのお守りをさせられるのかと泣きたくなった。とてもじゃないが手に負えそうにない。
NYに来て以来三年もの間コンビを組んでいた元相棒が先週、「ずっと夢だった、キッチンカーでドーナツ屋をやりたい」と言って突然FBIを辞めるという衝撃的なニュースはもうお聞きになっただろうか?あのドーナツ事件からはや一週間、とは言うものの正直なところアイザックはまだ気持ちの整理がつかずにいる。
いいヤツだった、本当に。射撃の腕だけは何年経っても上手くならなくて絶望的だったという点を除けば。
何度殺されかけたことやら、頼むからお前は銃を抜かないでくれとアイザックは何度も懇願した。
とはいえいつまでも一人デスクワークをして引きこもっているのも性にあわない、なんにせよ新しい相棒は必要である。そこで彼に白羽の矢が向けられたというわけだ。
この新しい相棒について、実を言うとアイザックは今日までほとんどの情報を与えられていなかった。名前はおろか男性か女性か、前の所属も、相棒となった決め手も。
ただどうやらFBIに入ってまだ日が浅いらしいことと、少なくともFBI NY支局の中にある数ある部署――そこに在籍する何百人もの捜査官の中には、近々刑事部に異動になるだとか、最近コンビを解消してひとりあぶれているだとかいう話はさっぱり浮かんでこなかったので、恐らく他局からの異動では?というアイザックの見立てはどうやら当たったらしい。

「新人だって聞いてるけど」

「ええ。コーヒーでもチョコバーでも、なんなりとお申し付けをどうぞ」

「前は何してたんだ?警官?それとも軍?」

「そんな大層なものでは……ここと似たようなアルファベット3文字の仕事ですよ」

3文字、3文字……ミスドか?
一週間のデスクワークによる弊害か、それとも相棒にフラれたのが自分でも思ってる以上にショックだったのか。アイザックの頭の中はまるで、脳みそを粘土みたいに捏ねられてチョコレートと砂糖の海に漬け込まれているかのように、先週からドーナツのことで頭がいっぱいだった。今朝は相棒を紹介するからと朝一で呼び出されて、朝食を食べ損ねたせいもあった。
過ぎたことでくよくよ考えすぎない、何事もいまを精一杯生きることがアイザックのモットーであり取り柄である。案の定腹の虫が鳴った、やっぱり腹が減っているだけだった。空腹はよくないな。
「おやおや」斎はくすりと笑って、待ち構えていたかのようにデスクの陰から大きな紙袋を取り出して「お近づきの印に買ってきたのですが、良ろしければどうぞ」と中身を広げた。
パステルカラーの紙の箱、そこにデカデカとプリントされた聞き覚えのある店の名前にまさかと思いつつ中を見る。ドーナツ。
「元相棒によろしくと、いつでも来てくれって仰ってましたよ。サービスしてくださるそうです」ニコニコと無邪気な笑顔を浮かべる斎にコイツ……とアイザックはなんとも言えない心地になる。
やっぱり俺のファイル見ただろ、と問えば「なんの事やら、コーヒーでも淹れましょう」とわざとらしく誤魔化すばかり。
警戒心を拭いきれぬままドーナツをひとつ手に取る。揚げた生地に砂糖をまぶしただけのシンプルな、今となってはどこに行っても滅多に食べられなくなってしまった昔ながらの味つけ。オレンジの皮でも練りこんであるのか、ほのかに柑橘系の爽やかな香りがする。

「うま……」

三年間――コンビとしてはそこそこ長い期間一緒にいてもついぞ知ることのなかった、元相棒の隠れた才能を初めて知る。
元捜査官の無骨な指で作られたドーナツは、アメリカ人のDNAの奥深くに刻みこまれているであろう幸福な家庭のキッチンの優しさと、子どもの頃に食べたかもしれない素朴で懐かしい味がした。

現パロ リゼット&ウィリアム

ウィリアムがまだミドルスクールに通っていた頃のこと。
あれは確かガイフォークスの祭りの少し前だったと思うから、十月の終わり頃だったろう。友達同士で近くの大学の学祭を見に行ったことがあった。
家から近く、通学路の途中であったことから、何週間も前から公園の掲示板や道中の店先や電信柱などそこら中に学祭とやらをやりまーす!来てね~!という張り紙が貼ってあったことはもちろん知っていたが、来てねと言われたからといって本当に行っていいものなのかも分からなかったし、どんなお祭りなのかも知らなかった。ただ立派な大学の門の前が日に日に豪華に、カラフルに飾り付けられていく様子だけは、毎朝学校に向かうスクールバスの窓から見ていたが。

当時まだ中学生――大学といわれても未知の世界でしかなく、まさか数年後に自分の人生に関わることになるとは思いもよらなかった。

さて14歳のウィリアムがなぜそんな未知なる場所へ足を踏み入れることになったかというと、我が大親友Mr.ビングリー直々のお誘いであったわけだが、彼にはその大学に通う六つ上の兄がおりいわば強力なコネクションを持っていた。
そのブラザー・ビングリーの情報によると、どうやら今年の学祭はとんでもなく盛り上がるだろうと。なぜかって?創設以来数十年、第78回大学祭はその年初めて某大学でミスコンを開催する歴史的な年になるそうであった!
少年たちは歓喜に湧いた!あの瞬間、未知の世界へ足踏みしていた恐怖はどこかに吹き飛んだ!
しかもビキニ審査もあるらしいとの情報に、少年たちの心はひとつになった!
思春期の好奇心旺盛な少年たちにこんな絶好の機会を逃す手はない。
小遣いはすっかり使い切ってしまったあとだったから親に金を借りて新しい服と靴を買いに行き、コロンまでつけて、片道二十分大学までの落ち葉並木を通り自転車を走らせる。
そしてただ楽しむのではなく、あわよくば次の日学校でみんなに自慢できるような武勇伝をひとつ作って帰ろう。とにかく、チキって誰にも話しかけることなく屋台で買い食いして帰るのだけはナシだぜ。と互いに誓い合い、あの日初めて我が母校の門をくぐったのだ。
誰にも忘れられない、二度と来ない子供時代があるとしたら。あの日この学校はウィリアムにとって子供時代の思い出の象徴であった。

――だからこの大学を受けようと思ったんだ。
幸いなことに家から近かったし。不純な動機に塗れた自身の志望動機をあけすけもなく語ってから、ウィリアムは笑顔で入学希望者のためのパンフレットを渡した。

「よければ学校の中を見学していくかい?そして来年はぜひ我が校へ、午後ティー研究会もヨロシクね!いつでも部員募集中だよ!」

この日は大学受験を控え見学に来た高校生たちのために正門の前でパンフレットを渡し、大学について説明しながら校内を案内して回っていた。
カルガモの親子みたいに、高校生の列をゾロゾロと引き連れてふと群衆を振り返り「なにか質問はある?なんでもどうぞ」と聞けば「あなたはなぜこの学校に?」
そう尋ねられるたび、ウィリアムは先ほどの話をして大いに笑いをとり満足気だった。女の子たちにキャアキャア黄色い声を上げられて悪い気がするはずもない。
ちなみに今日は本来なら授業もなく、なんなら予定があった、完全なるプライベートでしかもボランティアである。
仕方ない、ウィリアムが率いる午後ティー研究会は部員も少ない弱小クラブで、いまや存亡の危機にある。
午後ティー研究会とは――紅茶やお茶に関する文化や歴史、経済にもたらした影響、お茶が与えるリラックス効果による精神の安定また栄養効果を学び、取り入れ、実践し、後世における医学や経済の発展に貢献するという名のもとに発足された――だがその実態は、ミドルスクールから仲良しの大親友たちが集う茶飲みクラブである。
紅茶をこよなく愛するウィリアムらにとって午後ティー研究会は唯一の憩いの場であり安寧を守るためには、人がやりたがらない仕事も進んで引き受け、プライドを捨てて多少教授に媚びを売る犠牲も必要なのだ。
自分より偉い人の顔色を伺って、時にはご機嫌取りもしなくてはいけない。大学生のしがらみ、これが高校生との違い。
やれやれ、大人ってつらいね。

「はーい、見学会どうですか~パンフレットどうですか~?オススメは午後ティー研究会~……じゃなくてえ、学食のサンドイッチ~!パンフレットどうですか~?」

「――ありがとう……と言っても、ここのOGなんだけど」

作り笑いで細めた目元をいい事に視線を隠してろくに人の顔なんて見ちゃいなかったものだから、ウィリアムからはパンフレットを受けとる女の手だけが分かった。華奢で白い、指先はカメオ付きの高価なティースプーンのよう。
ウィリアムは咄嗟にパッと顔を上げ、彼女の顔を見る。よくできたアンティークのフランス人形のような人であった。
陶器のように白い肌に薔薇色の頬、口紅の色はなんとも表現しがたい撫子色で、硝子のように透き通った瞳は初夏の色である。レースの襟付きの青いワンピースがよく似合っている。
業界人かと周囲の人に囁かれるほどの美貌であったが、そんな俗世的なものとは違うとウィリアムは思った。
例えばそう――マイセンの傑作が服を着て歩いていたら、きっとこんな感じであろうと。
恋心とも、憧憬とも違う、初めて抱く感情であった。
それはウィリアムにとって衝撃的なもので、誰しも教会に行って聖歌隊の賛美歌を聴き厳かな気持ちになるような、清廉で厳粛なあの感覚と似ている。

「ひとつお聞きしたいのだけれど、デザイン科の展示室にはどうやって行けばいいのかしら……?」

陶器とは違う、撫子の唇がなめらかに動いた。その声はソーサーの上にティースプーンをうまく"カチャン"と置けた時のような、上品で心地よい高音であった。
その様子にしばし目を奪われたが、ウィリアムは気を取り直しやっとの思いで口を開く。「ご案内します!」

「ありがとう、改装して以前と場所が変わってしまってみたい……お忙しいのにごめんなさいね」

「とんでもない!お荷物お持ちしましょう!」

ウィリアムはベルボーイみたいにへこへこ頭を下げて、彼女の持つ大きな白いスーツケースを代わりに運ぼうとし、やんわり止められた。

「大丈夫よ、大切なものが入ってるから自分で運びたいの。でも、ありがとう」

彼女は重そうなスーツケースをよいしょと持ち上げて歩き出す。それでも石畳に角がカツカツ当たって、デルセーのハードケースが黒く汚れてしまった。
ウィリアムはヒヤヒヤしながら何度も後ろを振り返り、目的地までできる限り平坦な道かつ最短ルートを選びながらゆっくり歩く。「お足元ご注意ください」などと言いながら、行き場を失くした両手はことある事にあちこちを指さす。
この大学のOGと言っていたが、さていつ頃の先輩なのだろうと気にはなったものの若い女性に向かって危うく地雷を踏み抜いても困るので野暮なことは聞けなかった。
こんなキレイな先輩がいたら確実に噂になるだろうし、たとえ卒業しているとしても後輩たちの間で語り継がれているはずだろうと記憶を辿ってみるものの、これといって思い当たる話はない。
振り返りざまに彼女の顔をちらりと横目で見つめたりして大体の年齢を見積もってみたりするも、その美しい容姿は歳月の流れなど感じさせずまるで月の人のようであった。

校舎の改装があったのはつい最近で、まだ一年も経っていない。外壁の老朽化や使われていない講義室を改築して、建物の外も中も以前とはまるで違う。生徒ももちろんそうだがこれに困るのは主に先生たちで、通い慣れた職場がすっかり様変わりしてしまい校内で迷って講義に遅れる――なんてこともはじめのうちはしょっちゅうであった。
歩きがてらそんな話をすると、彼女はくすくす笑い「もしかしてヒギンズ教授?」と。高名な地理学者なのに方向音痴の愛すべき教授の名前をあげて、共通点を見出すなどした。

「まあ……ここもこんなに綺麗になったのね」

「前より広く、明るくなったでしょう」

デザイン科の生徒が授業で作った制作品を展示するために主に使っている展示室も改装され、以前の雰囲気と比べ開放的になった展示室を見渡し、部屋の真ん中で彼女はおもむろに跪きスーツケースを広げはじめる。
「少し時間が掛かるかもしれないわ」と言うので「よければお手伝いさせてください!」とすかさず申し出ると、美しい微笑とともに礼を言われた。

「そういえば、あなたのお名前は?」ふと小首を傾げて尋ねられ、ウィリアムは役者のように気取った調子で名乗る。
「ウィリアムです、ウィルと呼んでください。」

「ウィル、リゼットよ」
リゼット、どことなくフランス語の響きを感じさせる。これ以上に美しい名前を今までに聞いたことがないと心の底から思った。

「実はこの鞄の中いっぱいに詰め込んであるの、たぶん……あなたが思ってるより大きなものが」

「それなら僕の仲間を呼びましょう、きっとみんな時間を持て余しているだろうから」

「……午後ティー研究会?」

「やあ、覚えていてもらえたとは嬉しいなあ!今度よければぜひご招待させてください、紅茶はお嫌いですか?」

「いいえ、大好きよ」

「なら今度ぜひ」
ッッッシャア!ウィリアムは心の中でガッツポーズを決める。

リゼットはスーツケースの中から透明なビニールに包まれた白い大きな包みを取り出した。ビニールを外し、さらに何枚もの薄紙で保護されたそれを取り除いてゆっくりと慎重に広げていくと、美しいレースが見えた。
それは髪の毛よりも細い白いレース糸で編まれた総レースのウェディングドレスで、金魚の尾ひれのように垂れ下がった優雅なスカートから続く長いトレーンは3mはありそうなロイヤル丈に、細かなレースでバラやジャスミンやエーデルワイスの花があしらわれており、蜘蛛の糸を編み合わせて作ったようなそのドレスは早朝の霧のように白熱灯の下で煌々と浮かび上がっている。
ウィリアムはその美しさに見とれ、言葉を失った。まさに口ではとても言い尽くせないほどの感動に体の芯から打ち震えた。

「卒業制作で作ったの……だれよりも早く取り組んだのに完成したのはだれよりも遅かった、何ヶ月もかかったわ。悪夢のドレスよ」

シーツを張るみたいに、彼女は長いトレーンをふわりと張ってビニールの上にシワを広げて伸ばす。天から雲が降りてきたか、あるいは天使が白い衣を風になびかせているかのようであった。

――誰にも言っていないことがある。
秘密でもなんでもないのだが、ウィリアムはこの五年間なんとなくその話を誰にもしたことがなかった。
あの日、学祭を見にこの大学に初めて遊びに来た日。ウィリアムは結局ミスコンを見に行かなかった。展示室でこのウェディングドレスに見とれていたのだ。
芸術家志望の学生たちが作った作品が所狭しと並んでいたが、中でもそれは展示室の一番目立つ所に飾られ、何人もの人がこのドレスを見つめて恍惚とため息を吐いていた。
マネキンに着せ付けられたドレスは、まるで花嫁が身にまとっているかのように空気をはらんで繊細に膨らみ、足もとに柔らかくたゆんだベールは聖母マリアの姿を彷彿とさせる。女の肌をレースが包むと白く柔らかい処女の肌に変えるよう。
このドレスを纏う花嫁は世界一美しく、世界一幸せになるだろうと確信させたが、どんなに絶世の美女だろうとこのドレスに値する女性はいないだろうとも思えた。

衝撃的だった。
あの日抱いた感情が今また同じようにふつふつと沸き起こってきている。恍惚、憧れ、恋――そのどれとも違う、畏敬のようなもの。至高の美しさを前に激しく胸が高鳴るようなあの衝動、女王の前で自然と帽子をとって敬意を表しなくてはと思うあの感覚。
口ではなんとも言えないその感情をどういう言葉で言い表せばいいのか彼は知らない。心に触れるその美しさをなんと表現すればいいかも分からなかった。ウィリアムは彼女と、彼女の手から生み出される芸術に心酔していた。
あのウェディングドレスは14歳のウィリアムの心を揺るがし、彼の美しさの定義に深く爪あとを残した。
あのウェディングドレスを纏ったうつろな花嫁に――女に人生を狂わされたのだ。と、若い青年は格好つけて、それはそれは嬉しそうにそう語る。

躾のなっていない犬

バチンッ、とゴムで弾かれたような痛みが首筋に走った。反射的に息を詰まらせ、手のひらで喉元を押える。
首の周りをぐるりと戒める小さな機械が取り付けられた赤い革のベルトが呼吸を阻む。
「アイザック」なぜ止めるんですか、言いかけて飲み込む。誰に非があるかは明確だった。斎は一線を超えた、飼い主の手を噛んだのだ。

斎、アイザックが低めの声で静かに名前を呼ばわる。

「分かってるだろ」

冷静な一言は斎を分かりやすく突き放す、彼の声からあるべきはずの怒りの感情がないだけで斎はひどく動揺する。頭の中を真っ白にされてしまう。心臓から下がすっかり無くなってしまったみたいだ。
アイザックの眼の奥にあるのははっきりとした失望。
斎は自分がしでかしてしまったことの重大さをようやく理解し、暴力に訴えかけてしまった自分の行いを恥じた。

「失礼、アイザックどうか許してください」

人間に躾られた飼い犬は牙を捨てて主人の足に縋り耳を垂らす。
主人は右手を伸ばして忠犬の赤い髪を撫でてやる、首輪に指を掛けわずかにぐっと力を込めて引き、「おすわり」目元を緩ませながら囁いた。

斎 死ネタ

「人類が滅びても、この地上から全ての生物が息絶えてもあいつだけはピンピンしてそう」
殺しても死ななそうと言われたあの男、斎は昨日アンファイルとの戦闘であっけなく壊れて死んだ。
非番中に夜道で背後から、丸腰のところ不意をつかれたのだ。まるでヤクザのような似合いの最期ではないか。
斎は契約者をかばおうとして、しかし相手の方が一枚上手だった。結果、このザマである。
絹が裂け、脚はおられ、激しい損傷を受けた椅子は商会の技術部の力を持ってしても修復は不可能と言われた。
間一髪生き残った契約者は、アイザックは病院のベッドの上で目覚めるなり、その事実をただ静かに受け入れた。彼は不気味なほど終始冷静であった。
あれほどベッタリだったのに、実の兄弟かいやそれ以上の親密さで結ばれていたにも関わらず。
アイザックはまるではじめから何事も無かったかのように、そんな男は存在しなかったかのように毅然と振舞った。それが彼なりの愛する人を亡くした悲しみをしのぐ対処法であった。
アンティークを失くしたのに人前で涙ひとつ見せない彼のことを冷たいと思う人も中にはいるかもしれない、だがそれは愛情がなかったわけではなく多かれ少なかれそういう人間も世の中にはいるということ。愛の大きさと涙の数は必ずしも比例するものではない。
彼のそういう面を、どれだけ長く一緒にいようと、どれほど固い絆で結ばれていようと、斎はやはり真の意味では理解していなかったのかもしれない。
だから死に際、あんな言葉を残したのだ。
汚い道端で倒れて、血を吐きながら、息も絶え絶えに、慌てて駆け寄ったアイザックの襟を掴んで顔を寄せ、斎はまるで口づけのように。
「地獄で会いましょうね、アイザック」

あの男ときたら最後の最後まで格好をつけたがった、まるで西部劇の主人公のように。馬鹿なやつだ。どうにも手がつけられないマセガキのような男だった。
死の間際に本性を剥き出して最悪な呪いをかけて逃げやがった。
あいつは俺が地獄行きだと思ってるらしい、なんてことだ。ならば地獄に行かねばなるまい、とアイザックは思った。
斎を従えられるのはアイザックをおいてほかにいないのだ。
天国や地獄というものが本当に実在するのか、人ならざるアンティークが天で最後の審判を受けられるかどうかは別として、あいつがそこにいると言うのならきっとそうなのだろう。
何年後か、何十年後かに再会したら、あの綺麗な憎たらしいすまし顔に一発食らわせてやるのだ。
勝手に人をかばって、勝手に壊れやがって。
それまでは絶対、お前、許さねえからな。アイザックは心の中で斎にそう語りかけた。
これから先長い人生、斎がいなくなってもそうしてアイザックの中であの男は生き続けるのだろう。
玉座がただの人間に栄光と権力を与え、会社のデスクや教室の席が人に義務や責任を与えるように、あの椅子はかつての家であった鹿鳴館を追われてもなお契約者に見出されたことによって互いにかけがえのない居場所というものを与えた。
それは今後も絶えることはなくアイザックが生き続ける限り、ゆえに苦しみ、時に胸を苛まれようとも、共に過ごしたひとときに安らぎを思い出させるのだ。
俺たちが永遠に孤独だということも。

スウェーデン

スウェーデン――毎年ノーベル賞の授賞式が執り行われることでも有名な首都ストックホルム。
中でも中心部から徒歩圏内にあるスターズホルメン島は北欧のベニスとも称される水上都市である。
曲がりくねった細い路地にカラフルな建物がひしめき合い、大きな時計塔を持つ荘厳な大聖堂、歴代の国王一家が実際に暮らした豪華絢爛なストックホルム宮殿、17世紀の美しい旧市街地が今も残る風光明媚豊かなガムラスタンはスウェーデンに来たなら外せない人気の観光スポットのひとつである。
そのおなじみストックホルム・ユールゴーデン島にある、北欧にある博物館の中でも最多の入場者数を誇ると言われるヴァーサ号博物館には、世界で唯一現存する17世紀の木造戦艦として有名なヴァーサ号が展示されている。
長さ69m、幅11.7m、高さ52.5mもの巨大な船。その迫力がどれほどのものか、実際にその目で間近に見た人間でなければきっと理解することは難しいだろう。
展示室の入口を抜けてまず目に飛び込んでくるのはその巨大な雄姿、あまりにも大きすぎて二つしかない目で一度にその全貌を視界に収めることはできないほどに。
そして訪れる者はみな息を呑み、足を止めるのである。

「まあ……」と驚きと感動で呼吸も忘れるほど圧倒されているヤヨイの隣で、かたやネモも「うわぁ……」と口を開けたまま船を見上げている。
ヤヨイは感極まって声を上げる。

「素晴らしい、素晴らしいわ、なんて美しいの!こんなに大きなお船は見たことがない」

遥か高く天井まで伸びる太い支柱や、幾重にも連なる長いロープ、繊細で美しい金メッキの彫刻はまさしく壮観の一言に尽きる。
スウェーデンの国章や天使や獅子、旧約聖書の場面などが描かれた700以上もの彫刻が船全体を厳かに飾り、中でも獅子の彫刻はとりわけ多い。
船のへ先で王冠を護るライオンの艦首像はなんと3mもの大きさを誇る巨大さ。艦尾にもまた豪華な装飾が施され、王冠とスウェーデンの国章を守る二頭のライオンが鎮座ましましている。両腕を広げた若かりし日のグスタフ二世アドルフがおり、その下には戦士ギデオンがおり、イスラエルの英雄ダビデもいる。さらに北欧神話の英雄、ヘラクレスと錚々たる顔ぶれが並ぶ。

「戦いに行く船なのにとても豪華なのね、気前がいいこと」

「えっと、なんか力と栄光を示してるらしい。百獣の王のライオンは王国の強さであり、王の正統性。英雄たちはその伝説にちなみ、神により頼めば強大な敵をも打ち負かすことができるという象徴……なんだって」パンフレットを読み上げながらネモが解説する。

「まあ、よく考えられてるものねえ……あら見て、あの子、なんだかアリシアに似てるわ」

「どれ?」「ほらあの口を開けてる子」ヤヨイは恐ろしい形相をして牙をむき出したライオンの彫刻を指さして言った。
アリシアとはネモの飼い猫だ、すなわち猫である、ちなみにライオンとは似ても似つかないシャム猫だ、しかも雌。猫とライオンは同じネコ科ではあるが大きな違いである。
しかし猫飼いというのは、かわいいものを見つけるとそれがなんであろうと自分ちの猫と比べたがるものなのだ。それが猫好きの抗えない性というものらしい。
「出会って最初の頃はあの子、あーを見ていつもあんな怖い顔をしてたもの」

「わあーほんとだ、そっくり」ネモはのんきに答える。

「でもなんか寂しいね、こんなに立派な船なのに。もうこの船が海に浮かぶことはない……」

かつては色とりどりに彩られ海の上で非常に美しく目を惹いたというヴァーサ号。現在も変わらずその雄姿を留めているものの、だがいまはもうかつての色彩豊かな姿は失われてしまっている。
しかしスウェーデンの大国時代の威光を映したかのようなかつての姿と、潮風が届かない小さな家の屋根の下で窮屈そうに閉じ込められているいまの姿はまるで、リュッツェンの戦いに於いて38歳という若さで戦死した名君グスタフ二世アドルフの無念さを思わせる。ネモはぽつりと憐れむように言った。

果たしてそうかしら。ヤヨイは目を細めて船を見上げ、慈愛のこもった声で呟く。

ヴァーサ号は時のスウェーデン国王、グスタフ二世アドルフの命によって建造され、当時世界最強の戦艦といわれスウェーデン王国とスウェーデン海軍のまさに威信を象徴する唯一の船であった。
1628年、波の穏やかな夏の日に船長と乗組員らその家族を乗せてヴァーサ号はトレクロノール城から初めて海に出、礼砲が撃たれた。しかしわずか1300mの処女航海のすえ彼女はあえなく母なる海の底に沈んだのである。
それから長い年月のあいだ海底で悠久の眠りについていたヴァーサ号は1961年、ついに船体が引き揚げられ約333年ぶりに遥かなる水平線の水面に輝く陽の光を浴びたのだ。
それはまるで死人が蘇ったような驚き、喜び、感動。この船も驚くべき奇跡を体感したことだろう。
彼女は海底で安らかな眠りを妨げられたことを恨んだだろうか、いやそうは思わない。
命あるものがいつか死ぬのと同様に、船は海で沈む運命だとしても、船は水平線のものだ。太陽の下で風を呼吸し、人とともに生きる。何百年経っても、亡骸さえ朽ちてもまた陽光が甲板を撫でるその感覚に心が沸き立っただろう。
あの日、ヤヨイがネモと出会った時のように。

「どんな気持ちでしょうね!この船でわたのはらへ漕ぎ出てみるのは」

潮風に帆をはためかせ、国旗を掲げ、揚々と歌いながら港を出ていく水兵たち。
船にはパンとワインとチーズを満載に載せ、火薬を詰めた大砲を空に向かって礼砲を撃ち鳴らす。
故郷を守るため、家族を守るため、あるいは誇りと名誉のために、遠く離れた北の海を目指し男たちを乗せて彼女は旅立つ。どんなに誇らしかったことか、いまはただ懐かしむばかり。

「幸運を神に感謝した、おれみたいに」

ネモは振り返り敬虔な人のように、あるいはロマンチストのように格好つけて照れ笑うのであった。

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まとめたひと
メメコ @memeko_tensai

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