奥羽越列藩同盟軍が陣取る朝日山を単独で攻め、散った奇兵隊の猛将
0
シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊士・時山直八は、天保9年(1837)1月1日、萩藩士・時山茂作とキクの間に生まれた。幼名は松太郎。身体は小柄で彫りの深い色黒の顔立ちであったという。

2021-02-14 19:19:58
シービー @MrCB_Harukaze

時山直八の父茂作は、スパルタ教育で幼い直八を裸にして雪の中を使いに出したり、柔道で投げ飛ばすなどして鍛え上げた。こうした教育を受けた直八は負けず嫌いになっていく。

2021-02-14 19:23:47
シービー @MrCB_Harukaze

時山直八は、その後、萩城下江向の宝蔵院流師範岡部半蔵のもとに通い槍を学ぶ。同門には山県小助(狂介)がいたという。 しばらく時山直八のことをツイートします。

2021-02-14 19:27:23
シービー @MrCB_Harukaze

安政5年(1858)3月半ば。時山直八21歳のとき、松下村塾に入門する。6月19日に松陰先生が江戸の久坂玄瑞に宛てた手紙に「直八も折々塾へ来て食を炊ぎて宿する組の者。中々の奇男子なり。愛すべし」と書いている。

2021-02-15 18:50:49
シービー @MrCB_Harukaze

直八の家のある奥玉江から松下村塾まで5、6キロあるため時々塾に泊まり込んでいた。時山直八は7月に京都に派遣される。このころ俊輔や狂介も京都に派遣されており、京都情勢の諜報要員としてであろう。

2021-02-15 18:55:07
シービー @MrCB_Harukaze

安政5年12月ごろ松陰先生が再び野山獄に投じられる。時山直八は8月に家を継いで当主になっていたこともあってか、松陰先生とは距離を取り始める。松陰先生は「直八は遠きに居り、報知すること能わず」と投獄記事に記している。

2021-02-15 19:02:36
シービー @MrCB_Harukaze

万延元年(1861)2月7日。杉家で松陰先生の百日祭が行われたが、集まった名簿には、晋作坊ちゃんや久坂玄瑞に並び「時山直八」の名がある。後日、団子岩に建立された松陰先生の墓前に門人の名が刻まれているが、ここにも「時山」の名がある。

2021-02-16 19:11:41
シービー @MrCB_Harukaze

万延元年(1861)7月4日。時山直八は長州藩から江戸に派遣され、8月28日に江戸に到着した。藤森弘庵や安井息軒など一流の学者に入門、また清水昌蔵のもとで槍術を習う。10月23日に萩の狂介に宛てた手紙には、清水に入門したことを萩の槍術の師・岡部半蔵に知らせて欲しいと依頼している。

2021-02-16 19:18:45
シービー @MrCB_Harukaze

同じ手紙には、「不平敵は酒にてござ候」とも書いており、ストレス発散は酒であり、女ではない、と言いたげである。

2021-02-16 19:21:05
シービー @MrCB_Harukaze

文久元年(1861)4月29日。時山直八は狂介に手紙を書く。桂さんに上書したという。上書の内容は、萩藩の参勤交代の延引の訴えであった。また、幕府が攘夷を断行しないことに激しい怒りを表している。

2021-02-18 20:14:14
シービー @MrCB_Harukaze

時山直八は、長井雅楽の航海遠略策や周旋について反対派だった。これは久坂グループと同じ考えであったが、暗殺まで企てる彼らの仲間にはならなかった。直八は下級武士であったため、藩が決定したことには従うべきという考えがあったようだ。

2021-02-19 20:30:32
シービー @MrCB_Harukaze

この頃江戸には、桂さん、晋作坊ちゃん、久坂、栄太郎などもいるが、時山は薩摩、土佐、水戸、会津など諸国の士と交流を広めている。さらに、他藩士に萩藩先人の著作や書を贈呈している。これは久坂に倣ったものであろう。

2021-02-18 20:18:19
シービー @MrCB_Harukaze

時山直八は萩の狂介にも村田清風の書を斡旋して欲しいと頼んでいる。狂介は自分が大切にしていた清風の書を送ってやっている。この書は会津藩士・秋月悌二郎に贈ったようである。

2021-02-18 20:21:45
シービー @MrCB_Harukaze

時山直八は、江戸から京都に向かう長井雅楽に随行している。その際、江戸に向かう狂介に浜松で出会う。時山と狂介は長井を巡って激論になる。狂介は久坂らの計画を話してまで説得するが時山は折れない。計画が漏れることを恐れた狂介は差し違えて死のうとするが、時山が秘密は守ると言ったので別れた。

2021-02-19 20:35:55
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は入江杉蔵(九一)に宛てた手紙で「直八・小助の気」と記載している。小助は山県小助(狂介)のことである。二人の気迫を買っていたらしい。文久2年(1862)11月、二人は九州諸藩の情勢探索に旅に出ている。選んだのは藩であるが、やはり運命的な繋がりを感じる。

2021-02-19 20:42:54
シービー @MrCB_Harukaze

時山直八と狂介が九州諸藩探索で豊後岡藩に着いた時、勤王家として知られた小河弥右衛門に面会を求めた。小河は拒否し捕縛しようとした。時山は捕吏に「諸君と格闘するを欲するを辞すものではない」と一喝。そこで狂介が「今より直ちに退去すべければ、放任されたい」と言い、無事開放されている。

2021-02-20 18:36:25
シービー @MrCB_Harukaze

幕府は、文久3年(1863)5月10日をもって攘夷断行と孝明天皇に約束した。そのころ京都には久坂をはじめとした長州藩過激派がおり、その命を聞き、攘夷断行のため長州に帰藩する。時山直八も5月5日肥後浪士らを率いて帰藩し、家老・福原越後に許されて馬関で久坂らと合流する。

2021-02-20 18:42:22
シービー @MrCB_Harukaze

時山直八は久坂らと合流し、光明寺党を結成する。光明寺党は5月10日の攘夷断行以降、関門海峡を通航する外国船を砲撃する。しかし、米国・フランスの反撃に敗北する。時山直八は6月土佐、7月紀伊と攘夷断行説得のため訪問しており、この頃は長州にはいない。

2021-02-20 18:46:57
シービー @MrCB_Harukaze

東行庵には、意外と時山直八ゆかりのものがあります。墓はもちろん、植樹した樫の木も。 pic.twitter.com/JgSNtCwj8w

2021-02-18 22:01:49
拡大
拡大
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)8月18日。いわゆる八・十八政変が起きる。この頃時山直八は、京都で桂さん、久坂らの手伝いをしていたらしい。

2021-02-21 18:57:29
シービー @MrCB_Harukaze

この頃の時山直八の逸話。時山が乗っていた馬が薩摩藩士の袖に触れ、時山は謝ったが薩摩藩士はおさまらないため時山は鞭で薩摩藩士の頭を打ちのめして去った。また、新撰組に捕らえられそうになったとき、「萩野鹿助」と名乗り脱したということが伝わっている。勝ち気と肝の太さを表している。

2021-02-21 19:04:08
シービー @MrCB_Harukaze

時山直八は奇兵隊結成時の隊士というイメージがあるが、実はそうではない。来島又兵衛らの京都進発時に遊撃隊の軍監を任ぜられたというのが諸隊との関わりのはじめらしい。

2021-02-21 19:07:16
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)7月19日。京都で禁門の変が起こる。時山直八は入京途中であった。長州藩家老・福原越後は残兵を収め武庫川まで逃れ、西宮で姫路藩と決戦すべく、時山直八の一隊を先鋒とする。

2021-02-22 20:04:10
シービー @MrCB_Harukaze

時山直八は兵五、六十人を率い姫路藩士と対面した。時山は、「一戦を煩わさん」という。姫路藩は断じて通さぬという。一計を案じた時山は「此の地に間道はあるか」と問う。相手は「どこでも間道はある」と山麓を目視する。時山は意を悟り、福原と相談して間道を通り深江に出て海路帰国する。

2021-02-22 20:10:42
シービー @MrCB_Harukaze

7月29日。因州藩士・宮原大輔が萩藩を視察に来た。時山直八は、来島又兵衛ら過激派の勢いを家老が止められなかったためと弁明。藩主父子のかんちしないところだったと語り、宮原に謝罪嘆願を手伝って欲しいと求めている。

2021-02-22 20:14:58
シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊は京都には出兵せず馬関防御を担当していた。帰国した時山直八は8月4日に奇兵隊軍監の狂介を訪ねている。しかし狂介は「時山直八は京都で敗軍となり、何の面目ありて面接せんとするか。再び時山とは面接せざるべし」と非難し、出かけてしまった。

2021-02-22 20:19:26
シービー @MrCB_Harukaze

福田侠平が見かねて面談すると、時山直八は京都の戦状を泣きながら話した。奇兵隊総督の赤禰武人が時山を奇兵隊陣営に連れて帰ったという。こうして、時山直八は奇兵隊に加わる。

2021-02-22 20:22:30
シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊に加わった時山直八は、その頃作られた「君公を輔翼奉り、皇朝復古」と誓った奇兵隊幹部21人の血盟書に11番目に名を連ねる。時山はメンバーになれたことに感激し、自分用に全文の写しを作成している。

2021-02-23 15:30:30
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)8月5日。四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始した。時山直八は一支隊を率いて上陸する英国兵を相手に奮闘する。

2021-02-23 15:35:34
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩はこの戦いに敗れるが『奇兵隊日記』には、8月22日「時山直八、銃隊長より書記、招賢閣応接係に」12月29日には「時山直八書記より林半七郎に槍隊長を申し渡す」とあり、短期の間に奇兵隊で重要なポジションに就いたことが分かる。

2021-02-23 15:41:03
シービー @MrCB_Harukaze

この異例な出世は、時山の才能もあったであろうが、京都で桂さんや久坂らと活動したという箔と、軍監狂介の長い間の知り合いということも影響したのではと個人的には思います。

2021-02-23 15:44:39
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩政府は、「俗論派」が実権を握り、征長軍に恭順謝罪した。奇兵隊は恭順謝罪に反対する上書を何度か藩政府に提出しているが、それを届ける役は常に時山直八であったという。江戸・京で周旋していたこともあり、交渉能力に長けていたからと思われる。

2021-02-24 20:04:21
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年(1866)1月の内訌で萩藩は再び「正義派」が実権を握り、武備恭順の方針を固めてゆく。時山直八は、2月15日「玉江浪人」に改名したと『奇兵隊日記』に記されているが、変名を使った形跡はない。

2021-02-24 20:08:28
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年(1866)4月13日。萩城花の江亭で開催された今後の方針を決める会議に、時山直八は奇兵隊を代表して出席している。また、5月7日には、但馬から戻り馬関にいた桂さんを君命により山口に呼び寄せる使者となっている。

2021-02-24 20:11:55
シービー @MrCB_Harukaze

5月23日。時山直八を三十人通に昇格させる沙汰が出た。時山は、士雇という藩では下級武士であったが、一時期とはいえ藩主に逆らったことと四ヶ国連合艦隊戦で勲功がなかったことを理由に辞退している。だが、8月28日、藩は時山を更に上位の無級通に昇格させた。

2021-02-24 20:16:58
シービー @MrCB_Harukaze

慶応二年(1866)6月17日。四境戦争・小倉口の戦いが始まる。時山直八は奇兵隊参謀として参戦する。その際、7月11日に時山、三好軍太郎ら4人の幹部が勝手に断髪して問題になった。反省して剃髪したので穏便に許された。洋夷の風体と取られたためらしい。

2021-02-25 19:34:07
シービー @MrCB_Harukaze

坊主になった時山直八は、一時、海月坊や漂流坊という名を称している。慶応3年(1867)1月20日に長州藩と小倉藩で和議が結ばれる。4月12日、時山直八は片野十郎ら3人と狂介の新婚を祝うため豊浦郡湯玉に出かける。ところが13日深夜に晋作坊ちゃんが息を引き取る。

2021-02-25 19:40:06
シービー @MrCB_Harukaze

4月16日。時山直八は吉田村清水山での晋作坊ちゃんの神葬に参加し、形見として「五日市島小袴」「絹マンテルフルーク」「金一両」をもらっている。

2021-02-25 19:43:05
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)1月3日。旧幕軍と薩長軍が鳥羽・伏見で武力衝突する。この時の長州軍の実質司令官は山田市之丞で兵は諸隊連合でうち奇兵隊は2小隊程度であった。時山直八や狂介らと一緒に吉田の奇兵隊陣営に居た。

2021-02-26 19:19:17
シービー @MrCB_Harukaze

1月6日。長州藩に朝廷から出兵の朝命が届く。奇兵隊は3月17日隊主力を率いて軍監華陽丸で馬関を発ち大阪に向かう。時山直八はこれより少し前に大阪入りし、兵舎などの手配を行っていた。このため上阪後のことはスムーズにいった。

2021-02-26 19:30:11
シービー @MrCB_Harukaze

4月3日、軍監狂介と福田侠平は公務で江戸に向かう。そのため、参謀の時山直八が隊を統率することになる。4月14日、朝廷は薩・長・佐土原の三藩に北越への出兵を命じる。長州では奇兵隊がこれに当たることになり25日今日を出発、閏4月19日に越後高田に到着する。時山は「玉江三平」と改名している。

2021-02-26 19:36:57
シービー @MrCB_Harukaze

ちなみに江戸に向かった狂介と侠平は西郷と面会。滞在中、二人は若干名の隊士と吉原見物に出かけたが、旧幕府軍に捕まってしまう。「長州藩であるが、藩士が遊興にふけっていないかと調査に来た」とごまかすも許してもらえなかったが、佐賀藩兵が偶然通ったため開放されたといういう逸話がある。

2021-02-26 19:46:19
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年(1868)4月23日。江戸から京に戻った狂介は、北陸道鎮撫総督参謀に任ぜられる。薩摩藩・黒田了介も同じ役職に任ぜられている。狂介は閏4月20日に越後高田の奇兵隊に追いつく。

2021-02-28 18:43:36
シービー @MrCB_Harukaze

狂介は回顧録『越の山嵐』で「余の未だ着陣せざりし間は、時山直八が余の代理者とも言うべき地位に立ち、(略)越前・加賀等の諸藩を従えて、これをして朝廷の為に北陸出征の兵を繰り出さしむることに尽力したり」と記している。狂介が到着するまでは、時山が北越長州軍の司令官であった。

2021-02-28 18:50:59
シービー @MrCB_Harukaze

閏4月20日。北陸道鎮撫総督参謀・狂介と了介が越後高田城に入る。東山道先鋒総督府監察及び応接係・土佐藩・岩村精一郎と会談する。新政府軍は山道軍と海道軍に分け、海道軍は岩村、山道軍は軍監三好軍太郎が指揮を執る。狂介と了介、時山直八ら長州軍は海道軍に同行する。

2021-02-28 19:04:13
シービー @MrCB_Harukaze

山道軍は閏4月27日、進撃後小千谷に本営を置く。5月2日慈眼寺で岩村と長岡藩軍事総督・河井継之助との談判が決裂する。河井は武力をもって新政府軍と戦う決意をする。小千谷の状況を知った狂介は山道軍(岩村指揮)の指揮を時山直八に当たらせようとした。狂介・時山は5月10日に小千谷に駆けつける。

2021-02-28 19:14:41
シービー @MrCB_Harukaze

途中榎峠で長岡藩の銃声が聞きながら、ふたりが小千谷に到着すると岩村ら幹部が給士をさせ夕食をとっていた。それを見て癇癪を起こした時山直八は「そんなことをして居って戦に勝てるのか」といきなり足で彼らの高膳を蹴飛ばしたという。

2021-02-28 19:27:25
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年(1868)5月10日。長岡藩は榎峠を占領する。12日、狂介と時山直八は信濃川を渡り、榎峠と朝日山を視察し、朝日山を奪い高所から榎峠を抑える作戦を立てる。

2021-03-01 19:21:58
シービー @MrCB_Harukaze

朝日山攻撃は翌13日早朝と決定し、狂介は援軍要請に小千谷の本営に向かう。時山直八には明朝自分が戻るまで待機するよう伝える。

2021-03-01 19:26:01
シービー @MrCB_Harukaze

時山直八は狂介が出かける際、「明日の戦いは赤阪の戦いよりも困難なるべし」と呟いたという。狂介は後年『越の山嵐』で「其の言葉は今尚余の耳底に留まりて、悲惨の響きをなし居るなり」と述べる。これが、狂介と時山の最後の別れになる。

2021-03-01 19:30:52
0
まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.