吉田松陰先生は、東北遊学の際、青森県(津軽藩、南部藩)に足を踏み入れました。青森には松陰先生ゆかりの史跡等がたくさん残っています。
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シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は東北遊学の際、青森県(津軽藩、南部藩)に足を踏み入れている。弘前では、藩校教授伊東広之進を訪ね北の海防状況や津軽藩の学制などを尋ねている。伊東は山鹿流の兵学を講義していたため話しは大いにはずんだらしい。

2020-06-20 00:31:52
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松陰先生は会津滞在後、越後街道で新潟に行き北海道松前までの船に乗ろうとしたが、冬のため船がなく日本海側を陸路で移動した。結果的に北の最終到達地が津軽藩になった。

2020-06-22 16:51:35
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【松陰先生青森訪問記】嘉永五年(1852)閏2月28日秋田大館白沢で一泊。津軽藩主襲撃事件を起こした南部藩浪人相馬大作(下斗米秀之進)の事を宿で聞く。翌日秋田と津軽の藩境である矢立峠に向かう。要害で「天絶険をもって二邦を隔つ」と記す。「両山屹立して屏風の如く」で始まる詩碑がある。 pic.twitter.com/clqnJP5Gtb

2020-06-22 16:42:50
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【松陰先生青森訪問記】嘉永五年(1852)閏2月29日、矢立峠を越えると碇関があったが松陰先生と宮部鼎三も無事通行できた。現在その関所は「碇ケ関御関所」として復元されている。二人は古い温泉場と して知られる碇ケ関の湯で汗を流し、旅の疲れを癒した。 pic.twitter.com/Jlhu2hjKG0

2020-06-23 14:34:50
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【松陰先生青森訪問記】碇関で温泉につかり疲れを癒やした松陰先生と宮部は、気が逸るのか宿泊せずに弘前へ向かいます。道中、はるか向こうにそびえ立つ岩木山を眺めた松陰は「三峯魏然としてさながら富岳(富士山)の如し」と書き残しています。こうして二人は津軽10万石の城下町弘前へ入ります。 pic.twitter.com/aJGFCBHjsb

2020-06-24 13:51:31
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【松陰先生青森訪問記】弘前城下に入った翌日の嘉永五年(1852)3月1日、松陰先生らは津軽藩儒学者伊東弘之進を訪ね、津軽半島の海防や藩校稽古館の学制について聞いた。

2020-06-25 16:55:53
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【松陰先生青森訪問記】翌日の嘉永五年(1852)3月2日、二人は山鹿家ゆかりの荒谷貞次郎宅を訪問した後再度伊藤家を訪ねる。藩士が同席し、海防に関して議論した。松陰先生ら一同が歓談した部屋は 「松陰室」と命名され、現在弘前城に近い「養生幼稚園」内に伝えられ弘前市の史跡に指定されている。 pic.twitter.com/zadwIZZQQm

2020-06-26 15:13:59
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写真右側は、大河『花燃ゆ』時に「松陰室」を訪ねた伊勢谷友介さん。 松陰先生は、このとき暇乞いのため訪れたが、伊東は別離の詩を用意して待っていた。松陰先生も即興の詩で応えたり話に熱中するうち、申の刻 (午後4時)になってしまったという。

2020-06-26 15:20:34
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【松陰先生青森訪問記】嘉永五年(1852)3月4日、松陰先生らは五所川原を発ち小泊に向かう。十三湖を「山は潟に臨みて岩城山に対す。真に好風景なり」と評している。記念して昭和6年(平成4年改修)に徳富蘇峰揮毫の「吉田松陰遊賞之碑―蘇峰・菅正敬書」と彫られた「吉田松陰遊賞之碑」が建てられた pic.twitter.com/SYnRTzfIUL

2020-06-27 20:15:59
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五所川原には松陰先生ゆかりの史跡がたくさんある。青森という北の果てでそこまで愛される先生の凄さが素晴らしい。 松蔭渡船記念碑、史蹟十三舘岡街道 吉田松陰ゆかり之地、吉田松陰先生昼食の場所碑 pic.twitter.com/zmkJscEQqn

2020-07-01 18:49:36
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【松陰先生青森訪問記】嘉永五年(1852)3月5日、松陰先生らは、北海道松前行きの船を探すが見当たらず、山越えで三厩に向かう。津軽藩は防衛上から旅人がこの道を通ることを禁止。道を作っていなかった。松陰先生は冷たい水に膝まで浸かりながら道なき道を登り、ようやくたどり着いた。

2020-06-28 18:38:17
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【松陰先生青森訪問記】今別にある「松陰くぐり」は岩穴の道。松陰先生がくぐったとされる。龍飛岬には行けなかったが鋳釜崎に立つ碑には日記の一節が刻まれている。龍飛崎を望む嘉永五年(1852)3月6日、松陰先生らは平舘の海岸線を通り、二つ谷の浜についた。青森行きの船に乗り青森を目指した。 pic.twitter.com/vXEMsLF8Oh

2020-06-29 18:45:56
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松陰が算用師峠で詠んだ詩文の碑が昭和41年竜飛崎に建立されたことをきっかけに、昭和54年から全長12キロのハイキングコース整備が進められ、「みちのく松陰道」と名付けられた。小泊と三厩双方のその出入り口には、黒御影石の道標も建てられている。 pic.twitter.com/91rKPgpPYL

2020-06-29 18:57:26
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【松陰先生青森訪問記】嘉永五年(1852)3月7日、早朝、青森に着く。津軽藩最大の港町を見て「一大湾港なり、宜しく軍艦数十隻を備え以て非常に備ふべし」と記している。 pic.twitter.com/ADjsoaa8yP

2020-06-30 17:27:55
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【松陰先生青森訪問記】嘉永五年(1852)3月7日、青森に着いた松陰らは、野辺地、五戸、三戸、一戸をたどり、3月11日に盛岡城下に入った。翌12日江幡五郎の家族を訪ねている。亡兄の墓に詣でる。「男児国に報いば一死にも足る。黄泉の下君瞑目せよ」と詩を創っている。 完

2020-07-01 18:38:12
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写真は三戸にある「駕籠立場吉田松陰記念碑」3月9日付の日記に「蓑坂を過ぎ、金田市(一)、福岡を経、末の松山を越えて一戸に宿す。」と書き記されている。南部発祥800年を記念して建てられたとのこと。 pic.twitter.com/bgWowlmq4K

2020-07-01 18:41:15
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.