議論より実を行へ怠け武士 皇国草莽臣 南八郎
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シービー @MrCB_Harukaze

第二代奇兵隊総督 河上弥市は、天保14年(1843)1月、萩藩士河上忠右衛門繁治の長男として生まれた。諱は繁義。身分は八組、家禄は103石で、家は萩城下椿郷金谷にあった。家は現存し、石碑が建っている。

2021-03-17 18:54:00
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市の父は、村田清風の妹八谷秀の三男であり、山田市之丞とは又従兄弟の間柄である。弥市も市ぃも家柄がよく藩内ではエリートであった。

2021-03-17 18:57:48
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市は奇兵隊結成当初から参加しており、文久3年(1863)6月7日に晋作坊ちゃんが馬関で書いた『奇兵隊結成要領』を山口の藩政府に届けたのが初仕事となる。

2021-03-17 19:00:41
シービー @MrCB_Harukaze

関門海峡で攘夷戦を始めようとしたとき、海峡向かいの小倉藩と挟撃を考えた藩は協力を求めるが、相手は首を縦に振らない。奇兵隊は6月22日、海峡を渡り小倉藩領の田ノ浦を占領するが、その指揮を取ったのが河上弥市である。

2021-03-17 19:05:00
シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊初期の頃、河上弥市は小隊長を務めていた。また、装束が派手で「緋色色の戦袍、稚児髷、白幣を指物」で目立っていたらしい。羽目をはずすこともあったのか、7月7日の『奇兵隊日記』に謹慎に処せられたと記載がある。

2021-03-18 19:27:27
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)6月7日、藩庁に呼び出されたのか、山口から秋穂の奇兵隊陣営に帰ってきた河上弥市は、晋作坊ちゃんが総督を辞めて政務座専任となり、自分と滝が後任に決まったことを知らせ、その夜のうちに隊内に周知された。

2021-03-18 19:31:07
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市が奇兵隊第2代総督に任ぜられた理由は定かでは無いが、晋作坊ちゃん同様藩内でのエリートだったことが大きく影響しているだろうことは想像できる。

2021-03-18 19:33:28
シービー @MrCB_Harukaze

8月18日に八・十八政変が起こり、萩藩士が京都から追われる。大和行幸も延期になったが、先鋒として予定されていた天誅組は窮地に立ち、吉野山中で幕府軍相手に苦戦する。天誅組に呼応しようとした筑前浪士平野国臣と北垣晋太郎は、9月28日、三田尻を訪れ七卿や萩藩に協力を求める。

2021-03-18 19:38:37
シービー @MrCB_Harukaze

筑前浪士北垣晋太郎は、但馬国能座の庄屋の息子で百姓を集めて軍事調練をしていた。この農兵を使って天誅組を助けようと考えていた。平野国臣は「勇士300、農兵数千、鉄砲三千丁」の用意があると熱心に萩藩を説得していた。萩藩は表向きは断ったが、裏では黙認していた。

2021-03-19 18:43:35
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市は、平野と北垣の話に乗ってしまった。一説には、総督という地位に自信が持てず焦燥感を抱いていたと言う。心の隙間を狙われたのかも知れない。弥市は七卿の一人沢宣嘉を奉じ、文久3年(1863)12月2日夜、船で三田尻を脱出する。総督の脱走である。奇兵隊隊士8人を連れていた。

2021-03-19 18:50:19
シービー @MrCB_Harukaze

翌日、七卿の一人東久世通禧が奇兵隊50人を連れて行方を追ったが、東久世は後に「どうか早く沢卿が但馬に入ってくれればいい」と念じていたと回顧している。河上弥市は脱走に際して「わが日の本の礎守らん」で終わる歌を詠んでいる。

2021-03-19 18:55:44
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市一行は、10月9日、播州飾磨港に到着する。ところが情勢は一変しており、天誅組は9月26日に吉野山中で壊滅していた。平野は自重論を唱える。北垣も鳥取方面に逃れるよう勧める。しかし、弥市はあくまで挙兵を主張する。ひとまず但馬に行き人数を集めて大和に進撃し、弔い合戦をやると言う。

2021-03-19 19:01:24
シービー @MrCB_Harukaze

余談ですが、河上弥市脱走後、赤禰武人が奇兵隊総督として招かれた。そして、弥市と同じ第二代総督滝弥太郎が元治元年(1864)2月29日に藩の仕事に専念する形で総督から外れる。当初は滝と赤禰の二頭政治であったが、滝が藩庁に転出したため、赤禰が単独で第三代奇兵隊総督になっている。

2021-03-19 19:19:45
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市にすれば、奇兵隊を脱走、脱藩しており、今さら変える場所がない。また、「日の本の礎ならん」とまで言い脱走してきたのであるから、藩内エリートとして、何も功績も行動もしなかったとなればプライドに関わることであったことは想像に難くない。

2021-03-20 18:30:47
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市は、この頃中国唐時代の英雄南霽雲にちなみ南八郎橘正義と変名を使っている。議論の末、過激派に引き摺られ、沢ら一行は但馬を目指す。生野の延応寺に到着したのは10月11日午後である。その頃銀山代官川上猪太郎は出張中で留守であった。

2021-03-20 18:36:58
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市一行は代官所に生野入りを願い出る。留守を預かる武井正三朗は一行を丹後屋に案内した。ここで一行は挙兵についえ議論する。挙兵に参加した木曽源太郎は後、平野が時期を見ようと主張するが弥市は「(略)これ武門の本意にあらず。今足下(平野)と差違え死を潔白せん」と激高したと回顧。

2021-03-20 18:46:22
シービー @MrCB_Harukaze

一行は河上弥市の激論に引き摺られ即時挙兵に決まり、午前二時ごろから出陣の準備にかかる。未明、弥市ら長州勢を先頭に代官所に押しかけ占領する。占領後生野に立て籠もるか、京都に進発するか議論する。沢の意向で近隣諸藩に使者を送り京への進発に理解を求めようとし、だめならば討死となった。

2021-03-20 18:53:26
シービー @MrCB_Harukaze

10月12日に近隣の村々から農兵が竹槍を携え、集まってきた。有志も含めて2000人が集まったと言われる。生野出立は10月14日夕方と決まる。しかし、代官所の留守を預かる武井は、事前に出石藩と姫路藩に急使を派遣。討手を手配している。これに応じた両藩は追討軍を生野に向かわせた。

2021-03-20 19:00:15
シービー @MrCB_Harukaze

また、京都守護職松平容保は丹波の柏原・宮津・福知山、但馬の豊岡、播州の立野各藩に出兵を命じた。こうして生野の周辺は諸藩の軍勢で包囲される。河上弥市は一行に対して「たとえ無勢にても心を一致にして、身命をなげうち」と激論を吐いている。弥市は迎え撃つために山口村を守備する作戦に出る。

2021-03-20 19:07:07
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市、奇兵隊士ら17名は10月13日午後山口村に到着する。西念寺に入り、村人に酒を振る舞い、総代に兵糧や馬、人足を集めるように申し伝える。その後妙見山に転陣して要塞とする。大砲等を運び上げ戦闘準備を始める。

2021-03-21 18:20:44
シービー @MrCB_Harukaze

ここで河上弥市は、付近各村の制札を天領(幕府領)を神領と書き改める。さらに、向こう三年年貢を半分にすると触れを出す。次に弥市は歌を書き付け、妙見堂に奉納する。有名な「議論より実を行へ怠け武士 国の大事を余所に見る馬鹿」である。生野本陣での議論の様子に苛立ち詠んだと言われる。

2021-03-21 18:28:15
シービー @MrCB_Harukaze

実は、河上弥市の歌はもともと来島又兵衛の作とも言われている。沢たちは10月14日に丹波に出発しようとしたが出石勢を迎え討つと主張する弥市は従わない。終に沢は解散を決め、13日夜密かに生野を脱出したが、上網場村で豊岡藩に捕らえられ、翌年京都の六角獄で斬られた。

2021-03-21 18:41:27
シービー @MrCB_Harukaze

諸藩の軍勢が生野に迫ると百姓たちは震え上がった。また、本陣解散を知り、幕府からのお咎めを恐れ、攻撃の矛先を退去しない河上弥市に向ける。弥市は敵が攻めてこないため生野で最期を遂げようと10日夕方ごろ山を下りる。

2021-03-21 18:47:56
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市が山を下りたところ、大勢の百姓たちが弥市の部隊に向かって迫ってきた。すぐに小田村信之進が撃ち殺され、他の11人も次々と腹を切って死んでゆく。この様子には二つ説があり、弥市が真っ先に腹を切ったとも、弥市が全員の介錯後腹を切ったとも言われている。

2021-03-21 18:53:40
シービー @MrCB_Harukaze

藪の中に隠れていた2名も百姓に発見されたため、両者で差し違えて果てた。こうして奇兵隊の10人を含む13人が壮絶な最期を遂げる。生野代官所占領後わずか2日後のことである。

2021-03-21 18:56:18
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市は、本陣解散の際生野を去ろうとする庄屋の伜北垣を「この卑怯の振る舞い(略)民間より出者正義に加える事、離心得と申せし所」と声高に侮辱したという。奇兵隊の総督としては民間人への期待が大きかったのであろう。

2021-03-22 16:46:18
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市の辞世の句は「玉の緒のたとへ絶えなば絶ゆるとも 身は大君の勅をささげん」と伝わっている。弥市等の遺骸は自決地近くに埋葬された。奇兵隊は、脱走者にも関わらず、招魂祭という神事を行い慰霊した。三田尻の近くの酒垂山で行い「義烈九士墓碑銘」を残す計画であったが桜山に落ち着く。

2021-03-22 16:51:35
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)5月25日、萩藩は楠公祭で村田清風、松陰先生などを楠木正成とともに祭ったが、その中に弥市ほか生野で倒れた奇兵隊士9人も入っている。晋作坊ちゃんは弥市に非常に同情し、同年3月に脱藩で投獄された際「よく我が心を知る者吉村寅太郎、河上弥市」と絶賛している。

2021-03-22 16:56:20
シービー @MrCB_Harukaze

明治元年(1868)河上弥市らの自決の地に西園寺公望の筆による「殉節忠士之墓」の墓碑や祠が設置されるた。これは後大正15年から山口招魂社(現山口護国神社)となる。弥市らは明治21年(1888)4月に靖国神社に合祀され、弥市には後に従四位が贈位されている。

2021-03-22 17:01:30
シービー @MrCB_Harukaze

河上弥市の又従兄弟に当たる市ぃ(山田顕義)は、明治25年(1892)10月、山口に帰省し、上京の途次生野を訪れ弥市の墓参を果たした。その後生野銀山を視察中帰らぬ人となる。弥市の故郷の墓は萩市北古萩長寿寺にある。そこにある「河上繁義君碑銘」は、市ぃの撰文によるものである。(完)

2021-03-22 17:07:05
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.