とある戦標2A型の最期とその乗組員達の運命
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天翔 @Tensyofleet

fold3.comより、攻撃を受ける戦時標準船2A型。撮影時期などは明らかでなく、出典は第307爆撃隊の記録らしいが、この攻撃を行ったのが同隊かどうかは詳らかではない。 fold3.com/image/314294965 pic.twitter.com/IhgvmSudUB

2018-03-31 16:14:42
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天翔 @Tensyofleet

しかし、物好きも長く続けるとなんとなく分かるものである。応急油槽船2ATに分類される永享丸(日本郵船,6,984総トン,播磨相生建造)だろう。

2018-03-31 16:18:24
天翔 @Tensyofleet

同船はミ19船団に加入してマニラからボルネオのミリに向かう途中の1944(昭和19)年10月14日0200頃、第三船倉右舷に被雷する。攻撃したのはUSS Dace(SS-24)であった。

2018-03-31 16:21:54
天翔 @Tensyofleet

機関に損傷はなかったため航行は続けたものの、直径8メートルの大破孔からの浸水に排水作業が追い付かず、16日にブルネイ湾港にあるラブアン島ビクトリア港内に擱座させた。連合艦隊泊地のため、位置選定には手間取ったという。

2018-03-31 16:23:57
天翔 @Tensyofleet

擱座した永享丸(推定)。10月22日、レイテに向かう第一遊撃部隊をここか見送ったのだろうか。 fold3.com/image/314278300 pic.twitter.com/I7xlbmdZv0

2018-03-31 16:27:37
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天翔 @Tensyofleet

早々に種明かしをしてしまうと、なんで判るかと言えば「そう書いてあるから」で、状況的にも符合するのでと言ったところだろうか>永享丸 fold3.com/image/314284473 pic.twitter.com/aOh1UxjlT2

2018-03-31 16:33:59
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天翔 @Tensyofleet

同様にそう書いてあるので、第307爆撃隊の攻撃であることも分かる。擱座した永享丸の乗組員は修理も思うに任せぬまま船内の食料が尽き、連日の空襲に加えて12月8日の大空襲で至近弾数発を受けて機関室まで浸水し、ついに12月16日総員退船となった。

2018-03-31 16:39:27
天翔 @Tensyofleet

被雷時に機関長が行方不明となったが、この時点で他の乗組員は全員生存していた。ブルネイからミリに向け、およそ200km弱をトラックと徒歩で移動したのが12月末。ついで700km余り離れたクチンに到着したのが、年明けて1月末のことであった。

2018-03-31 16:46:00
天翔 @Tensyofleet

クチンにも日本への便船はなく、乗組員達はやむなく危険を承知で機帆船を借りてシンガポールを目指した。直線距離でおよそ700km、少なくとも4昼夜は要したのではなかろうか。機帆船がシンガポールにたどり着いたのは、2月9日のことであった。

2018-03-31 16:52:40
天翔 @Tensyofleet

しかし、シンガポールでも便船は見つからなかった。上陸翌日の2月10日、北号作戦の帰途に就く戦艦伊勢への便乗は断られた(2/20呉着)。その一週間後、第二建川丸(戦標2TL)にも断られた(2/22仏印沖触雷沈没)。

2018-03-31 16:57:16
天翔 @Tensyofleet

4名ほどは便乗ではなく乗務として飯野海運の永昭丸(戦標2TM)に乗船し、日本を目指した(3/1高雄港内被爆沈没,永享丸乗組員1名戦死)。他の乗員の中にも、履歴書を書いて海軍の運輸部などに就職した者があったらしい。

2018-03-31 17:02:15
天翔 @Tensyofleet

それでも日本への便船を待っていた永享丸乗組員のうち、ようやく3月25日に出発する船に便乗29名と乗務3名の計32名が運良く乗船することができた。一方で運の悪いことに、その船の名は日本郵船の阿波丸と言った。

2018-03-31 17:06:54
天翔 @Tensyofleet

32名は台湾沖で阿波丸と運命を共にした(4/1被雷)が、シンガポールに残った永享丸乗組員達は、およそ1年後に日本の土を踏むことができたという。

2018-03-31 17:10:53