改名と変名には、センスが表れる。厳密には変名でなく号であるが、「東行」は秀逸と思う。
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シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんの「改名」と「変名」。改名は自ら又は藩の命により正式に通称又は諱を変えること。変名は、亡命や用事遂行などで臨時に違う名前を使用すること、で合っているかな?

2021-06-02 16:54:24
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんの改名。文久3年(1863)11月12日、藩からの通知に高杉東一とあり、1回目の改名。10月30日の父小忠太宛に「幕吏の耳に入居候」と改名したい旨の手紙を送っている。候補として直助、四郎、祝部太郎(戦国時代の高杉城城主)、西浦松助(高杉家家来の出身地)、西浦十郎があった。

2021-06-02 16:59:58
シービー @MrCB_Harukaze

12月4日付けの坊ちゃんから両親宛の手紙で「私事東一と改名拝領」とあり、藩から許可されたのは東一であった。これは、3月に10年の暇をもらったときに名乗った号東行にちなんだものらしい。次に、元治元年(1864)脱藩して野山獄に入れられた際も改名している。

2021-06-02 17:04:08
シービー @MrCB_Harukaze

入牢の際、藩からの達しで家禄160石と東一の名を召し上げられた。5月25日の杉梅太郎宛手紙に「和助より」とあり、獄中で改名したらしい。なお、10月16日付けの藩の沙汰書に高杉和助とあり、その後藩にも認められたものと思われる。

2021-06-02 17:07:12
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年(1865)1月2日付けの白石正一郎宛手紙に「谷梅之助」とある。これは、自称らしくその頃の藩の沙汰書には「高杉和介」(助の字が違うが)とある。その後下関開港問題で四国に脱走した際は、「三谷和介」「備後屋三助」の変名を用いている。

2021-06-02 17:12:14
シービー @MrCB_Harukaze

これらの変名は、高杉家先祖の出身地、備後三渓郡三谷郷にちなんで付けたと思われ、谷梅之助もこれが謂れとであろう。慶応元年(1865)9月29日、藩からの達しで「一代谷潜蔵と変名可被仰付旨候条」とあり、藩命で「谷潜蔵」と改名している。ただし、晋作坊ちゃんは「谷梅之進」も使っている。

2021-06-02 17:16:20
シービー @MrCB_Harukaze

忘れてならないのが、数日しか使われていないが「宍戸刑馬」である。元治元年(1864)8月に晋作坊ちゃんが四ヵ国艦隊との講和の正使に命ぜられた際、藩命で名乗ったものである。 以上、海原徹『吉田松陰とその弟子達十話』より。

2021-06-02 17:19:02
シービー @MrCB_Harukaze

松下村塾双璧の一人、久坂玄瑞の「改名」と「変名」。久坂玄瑞は、幼名を秀三郎と云った。安政元年(1854)6月9日、兄玄機が亡くなり、母富子、父良迪も続けて亡くなったため、家を継ぎ「玄瑞」と名乗る。おそらく兄玄機から取ったものであろう。

2021-06-03 14:37:49
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年(1863)4月20日、藩は久坂に対して医業を廃止、大組士に取り立てて蓄髪を許可。これを受けて、久坂は8月17日に名を「義助」と改める。これは北村家を継いだ叔父勝義にあやかったものと言われる。

2021-06-03 14:47:22
シービー @MrCB_Harukaze

久坂は、安政3年(1856)5月下旬、松陰先生への初めての手紙で「久坂誠玄瑞、再拜し謹んで二十一回猛士義卿吉田君の座前に白す」と書いている。このころは、「誠」という名前も使用していたことが分かる。また、先生の百日祭の石灯籠にも「久坂誠」と彫られている。

2021-06-03 15:13:11
シービー @MrCB_Harukaze

久坂は、江戸や京で政治活動を行っていたためか、変名も結構ある。八月十八日政変のころは「河野三平」「河野義助」、元治元年(1864)2月ごろは「河野三助」同6月には「松野三平」「見島百合之助」などと称している。

2021-06-03 15:38:28
シービー @MrCB_Harukaze

河野は家に近い橋本川から、松野は松本村から、見島は萩沖に浮かぶ島名から、それぞれ思いついたらしい。三平や三助は、秀三郎から取ったものと思われる。 以上、海原徹『吉田松陰とその弟子たち十話』より。

2021-06-03 15:41:28
シービー @MrCB_Harukaze

久坂玄瑞誕生地跡と像 pic.twitter.com/2C7b0GAnCE

2021-06-03 16:37:43
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シービー @MrCB_Harukaze

佐世八十朗の改名と変名。佐世八十朗は大組士(47石)佐世彦七の子である。幼名は不明で、松下村塾には八十朗の名前で入門している。文久2年(1862)春ごろ、久坂玄瑞が京都で薩摩藩の挙兵に追随しようとしていたころに行動を共にし「米原八十槌」の変名を一時期使用する。

2021-06-19 18:31:42
シービー @MrCB_Harukaze

「米原」は初代先祖弘綱が近江国米原邑に居を構え米原姓を称したことにあやかったもの(4代目政如の代に佐世に改姓)。元治元年(1864)11月2日馬関総奉行補佐を解任され謹慎するが、そのとき「前原狷介」を名乗る。12月の晋作坊ちゃん功山寺挙兵時はこの名で馳せ参じている。米原を前原に変えたもの

2021-06-19 18:43:13
シービー @MrCB_Harukaze

元治2年(1865)3月13日、用所役右筆に任じられ、藩政府に申し出て「前原彦太郎」を名乗る。なお「前原狷介」は自称である。ただし、親しい友人には八十朗を使用している。維新後は「前原誠」(明治2年2月4日付け手紙)、「前原一誠」明治3年4月22日付け山田顕義宛て手紙)を名乗る。

2021-06-19 18:46:33
シービー @MrCB_Harukaze

姓の「前原」は初代先祖弘綱の米原に、名の「彦太郎」は父彦七の一字を取ったものである。一時期使用した「狷介」は融通が利かない自分への戒めと言われる。(海原徹『吉田松陰とその弟子達・十話』より)

2021-06-19 18:50:19
シービー @MrCB_Harukaze

伊藤利助の改名と変名。松下村塾入門時には「利介(助)を名乗っている。文久3年(1863)5月の英国密航時には「俊輔」を名乗る。なお、「春輔」も使用しており、船内や英国では「春輔」を使用していたようだ。慶応2年(1866)正月、藩命で「林宇一」と改名する。意味は宇宙一(今の世界一)の意味らしい。

2021-06-19 18:56:37
シービー @MrCB_Harukaze

ただし、慶応3年(1867)3月の三十人通の辞令には「伊藤春輔事、林宇一」とあり、旧姓旧名も併用していたようである。明治4年(1871)正月、外国事務御用掛そして新政府に出仕したときは「伊藤俊介」で辞令を受けている。新政府側の間違いであったが、あえて訂正しなかったと思われる。

2021-06-19 19:00:15
シービー @MrCB_Harukaze

「博文」の名は明治2年ごろから使用していた。改名のきっかけは有名な話しがある。晋作坊ちゃんが論語の”博文約札”を挙げて「博文」の名を勧めていたことを思いだしたものである。変名はたくさんあり、「二木迂一」(林の字を崩して二木)、越智斧太郎(先祖の越智姓にあやかったもの)(続く)

2021-06-19 19:05:00
シービー @MrCB_Harukaze

「花山春輔(春太郞)」、「吉村莊藏」などがある。身分を隠すためか、情報収集、逃亡(又は刺客から逃れるため)、外国関係の用事を済ませるためなどに使用している。(海原徹『吉田松陰とその弟子たち・十話』より)

2021-06-19 19:08:38
シービー @MrCB_Harukaze

山県狂介の改名と変名。中間山県有稔の子で幼名は辰之助。安政2年(1855)18歳のとき小助(介、輔)と改名している。この名前で松下村塾に入門している。文久3年(1863)に士分に昇格した時の辞令には「山県小助」とある。が、松下村塾入門から馬関での攘夷運動のころ「狂介」と改名している。

2021-06-28 20:46:13
シービー @MrCB_Harukaze

もちろん”狂”は、松陰先生の影響である。「有朋」は以前から使用していたようだが、正式に名として使いはじめたのは、明治5年(1872)、新政府で一人一名の制がスタートしてからである。ちなみに、明治2年3月の欧州軍制度視察の朝命には「山県狂介」と記されている。意外と気に入っていたのかも「狂介」

2021-06-28 20:50:58
シービー @MrCB_Harukaze

狂介の変名としては、内訌戦時に「萩原鹿之助」と袖章に記している。これは、時山直八が尼子家の旧臣山中鹿之助に憧れていたことに同調したもの。慶応3年(1867)に上洛し薩摩藩邸に潜伏していたときは「秋元竹之助」と称している。この変名の謂れは不明。

2021-06-28 20:56:45
シービー @MrCB_Harukaze

「有朋」の名は、父有稔から取ったものと言われる。(以上、海原徹『吉田松陰とその弟子たち・十話』より)

2021-06-28 20:58:44
シービー @MrCB_Harukaze

金子重之助の改名と変名。先祖は代々、萩城外渋木村に住んでいたが、父茂左衛門の代に萩城下津守町で紺屋を営む。重之助の幼名は「卯之助」や「直三郎」と名乗ったらしい。その後、「貞吉」と改名する。その後、足軽金子繁之助の養子となり、「重之助」「重輔」なども名乗ったという。

2021-06-28 21:04:37
シービー @MrCB_Harukaze

金子重之助は、嘉永6年(1853)12月、長崎から帰った松陰先生にアメリカ密航の計画を聞き同行することを約束する。(結構前から行動を決めていたようだ)なお、このころ「渋木松太郎」という変名を使用している。渋木は先祖の出身地で松太郎は”論語”の子罕篇の厳寒に耐える松のちなんだ者といわれる。

2021-06-28 21:12:50
シービー @MrCB_Harukaze

嘉永7年(1854)3月5日、松陰先生と金子重之助は赤羽橋で待ち合わせた。(変名渋木松太郎を使用していたようである)しかし、米国船には「市木公太」と名乗っている。正体を分かりにくくしたかったのであろう。なお、下田港で書いた日記では「大日本無二生」という号を用いている。

2021-06-28 21:20:40
シービー @MrCB_Harukaze

幕府の調査もさすがで、9月18日の”幕府裁決書”では「渋木松太郎事重之助儀」と本名はばれている。しかし、律儀な松陰先生は、白井小助(元金子の師匠)宛て手紙でも「渋木生遠牢にあり」と金子の本名を隠している。さらに、その後の回想録でも一環して金子ではなく渋木を記している。

2021-06-28 21:26:23
シービー @MrCB_Harukaze

そんな松陰先生であるが、江戸から萩に先生と金子重之助が護送された時、非道な役人に対して詰る記述では「金子生」「重輔」の本名を使っている。(以上、海原徹『吉田松陰とその弟子たち・十話』より)

2021-06-28 21:29:31
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生の改名と変名。萩藩無給通士(26石)杉百合之助次男として誕生。幼名は「虎之助」。萩藩山鹿流兵学師範吉田大助の養子となり吉田家操守となる。そのとき養父の名の一字を取り、名を「大次郎」と改める。

2021-06-29 21:07:47
シービー @MrCB_Harukaze

嘉永4年(1851)12月14日、東北遊学という脱藩行で下総松戸の本福寺に現れた時は「松野他三郎」と名乗っている。先祖の姓や名前から思いついたらしい。しかし、藩からの追っ手が来ないのを知り、すぐに本名の「吉田大次郎」を使用している。

2021-06-29 21:11:45
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生は、嘉永5年(1852)12月、脱藩の罪で士籍を剥奪されたとき「松次郎」と改名している。翌6年(1853)正月に諸国遊歴に出発する際、「寅次郎」と改名している。(たぶんこれが一番なじみ深いであろう)「松次郎」は松本村から取り、「寅・虎」は文政13年(1830)の庚寅の年に因んだものという。

2021-06-29 21:17:11
シービー @MrCB_Harukaze

米国への密航を企てた時には本名の「吉田寅次郎」と名乗っていたが、アメリカ人には「瓜中万二(かのうちまんじ)」という変名を使用している。身分がばれて萩藩に累が及ぶのを警戒したものと思われる。(金子も同様のことをしている)なお、変名は吉田家の家紋卍に因んでいる。

2021-06-29 21:21:22
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生の”松陰”は松本村が”松下”と呼ばれ、“下”が陰を表すということで脱藩後に帰藩したときから使用したと言われる。先生の本来の諱は「矩方(のりかた)」、字は「義卿」「私義」姓は「吉田」である。なお、好んで使用した号?には「二十一回猛士」がある。理由はよく知られているので割愛する。

2021-06-29 21:27:35
シービー @MrCB_Harukaze

”猛”の字は幼名の”寅・虎”をイメージしたと思われる。松陰先生は21回にはあと18回”猛”残っていると言及している。(以上、海原徹『吉田松陰とその弟子たち・十話』より)

2021-06-29 21:31:35
シービー @MrCB_Harukaze

小田村伊之助の改名と変名。手廻組士藩医(40石)松島家の次男として生まれる。幼名を「久米二郎」「内蔵次郎」、名は「哲」、諱は「希哲」と称する。その後、大組士儒者(47石)の養嗣子となり「伊之助」「文助」などを名乗る。小田村氏中興の祖が”文助”、”伊助”などと称したことにあやかったもの。

2021-06-30 21:18:38
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)9月17日、藩命で「素太郎」と改名する。他者と異なり藩使として様々な他藩に奔走していたため、名前を使い分ける必要があったと云われている。慶応2年(1866)11月24日、太宰府の五卿のもとに派遣されてときは塩売商人に変装し「塩間鉄造」という変名を使用している。

2021-06-30 21:24:14
シービー @MrCB_Harukaze

太宰府から戻ってすぐ「小田村素太郎」に戻し、9月25日、奥番頭になったとき「楫取素彦」に藩命で改名している。小田村氏の先祖が三田尻水軍の舵取り役であったとか藩主敬親公が藩の舵取りを期待した、などと言われるが根拠はまったくない。なお、小田村家は長男篤太郎が継いでいる。

2021-06-30 21:28:34
シービー @MrCB_Harukaze

改名と変名シリーズはこれで終了します。(以上、海原徹『吉田松陰とその弟子たち・十話』より)

2021-06-30 21:29:51
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.