高杉晋作をくじで引いた?萩城下一の美貌の花嫁
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シービー @MrCB_Harukaze

万延元年(1860)1月18日、萩藩八組士高杉晋作は、同じく萩藩八組士井上平右衛門の次女まさ(政、雅)と結婚した。晋作坊ちゃんが22歳、お雅(以後、この名称で統一。理由は僕の好みだから)が16歳のときである。

2021-04-08 22:09:38
シービー @MrCB_Harukaze

もっとも、晋作坊ちゃんはお雅との婚姻は必ずしも乗り気でなかったようで「父母命によって井上平右衛門女を娶る」と残している。有名な話しであるが、松下村塾に入門し、過激な松陰先生を慕い、江戸にいる坊ちゃんを心配した父小忠太が強引に話しを進めた婚姻であることが大きな要因であろう。

2021-04-08 22:14:19
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんは従兄弟の南亀太郎に年賀状で、30までは妻を持たないと書いている。しかし、忠孝には絶対である坊ちゃんは父の言うとおり素直に結婚している。嫡男としてお家存続に責任を持っていたことが大きいであろうが、萩城下一の美貌と噂されるお雅に興味があったことは想像できる。 pic.twitter.com/WSqKRjMrO3

2021-04-08 22:24:29
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晋作坊ちゃんとお雅の婚約については、有名な逸話がある。お雅の叔父が何も言わず半紙のくじを引かせて、坊ちゃんがそのくじに当たったという。眉唾ものだが、書いた横山健堂は、「彼の未亡人(お雅)から坊ちゃんのことを詳細に聞き」と言っているので、案外本当なのかもしれない。

2021-04-08 22:29:35
シービー @MrCB_Harukaze

大正5年の『東行先生遺文』には、万延元年(1860)「1月23日入家」とある。式は18日で、正式に嫁いだのが23日という意味であろうか。

2021-04-09 20:56:49
シービー @MrCB_Harukaze

お雅と晋作坊ちゃんの婚姻は、前の年の安政6年から進められていた。12月にはお雅の兄権之介が媒酌人の佐伯源右衛門にいわば計画書を送っている。日柄の良い1月18日の朝五つ時半、高杉家から晋作坊ちゃんと父小忠太と親類が井上家に来て挨拶をする。その後、井上家から権之介と親類が高杉家を訪ねる。

2021-04-09 21:03:21
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そして、結納を交わす。夕方に花嫁のお雅が兄嫁(権之介の妻)に連れら高杉家に表れる。夜に結婚式を執り行う。ただし、厳しき時勢なのでお色直し等の衣装は目立たない物にする。という段取りである。式は1日で終わる計画である。なお、この頃お雅の父は江戸在勤のため兄が取り仕切っている。

2021-04-09 21:09:05
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閏3月6日、萩藩から結婚の正式な許可が下りる。益田弾正、ほか多数の重臣からの書が発せられている。さすが、代々、世子の小姓を努める高杉家である。

2021-04-09 21:12:04
シービー @MrCB_Harukaze

高杉家と井上家は、少なくともくじ引きで偶然に縁が結ばれた間ではなかったようである。それ以前から結構近しい関係にあったようだ。高杉小忠太と井上平右衛門は同じ繁沢組に属しており、相応の交わりがあったと史料でも確認できる。

2021-04-09 21:16:19
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大河『花神』では、晋作坊ちゃんとお雅の初夜のシーンで、高杉家の鎮守が映る。ただ、僕の感想では、本物とは違う気がします。 pic.twitter.com/yrKS5PevLZ

2021-04-09 21:25:03
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小忠太と平右衛門は、身分は同格、年も1歳しか違わないため、例えば江戸参勤時の藩主付き添い等、様々な場面で一緒に行動していたと想像される。そのような仲の良い友だち同士であり、将来お互いに子どもができたら結婚させよう、というような話しをしていたとも想像できる。

2021-04-09 21:32:17
シービー @MrCB_Harukaze

高杉晋作は、藩のお役目や国事という志士活動で東奔西走していたため、お雅と一緒に過ごした時間は多くはない。お雅自身も「私は高杉と一緒にいましたのは、ほんのわずかの間で」と回顧談で語っている。

2021-04-10 18:12:48
シービー @MrCB_Harukaze

新婚生活でさえ、万延元年(1860)1月18日の結婚式の日から江戸への航海実習のため4月5日に丙辰丸に乗り込んだ約4か月である。

2021-04-10 18:17:02
シービー @MrCB_Harukaze

その後、「試撃行」を終えて10月に萩に帰り、翌文久元年(1861)7月10日に藩のお役目で江戸に発つまで約8ヶ月が一緒に居た時間では、一番長い。

2021-04-10 18:21:24
シービー @MrCB_Harukaze

次は、京都で剃髪し「東行」と号して萩に帰った文久3年(1863)4月9日から山口の藩主に呼び出される6月ごろまで2か月過ごしている。この間は松本村の松陰先生の出生地の近くに庵を借り一緒に過ごしている。通っていたわけでなく、小忠太が借りてあげて坊ちゃんとお雅と使用人で住んでいたようだ。

2021-04-10 18:26:49
シービー @MrCB_Harukaze

お雅は当時のことを「毎朝、(松陰)先生のお墓参りばかりしておりました」と回顧している。その後、晋作坊ちゃんが藩の政務座に再任され、9月10日ころから、上方方面に出奔する元治元年(1864)1月28日までの約4か月半を一緒に過ごす。

2021-04-10 18:31:23
シービー @MrCB_Harukaze

この頃は、山口江良村の静間邸を間借りして藩庁に出仕していた。その後、お雅の実家井上家が山口に持っていた屋敷の離れに移り起居していた。「六畳と四畳半の二室で手狭で二畳の落ち間を作り下女部屋にした」「ある日突然晴れの衣装を整えて」遊撃軍説得に出かけ出奔したと横山健堂が書いている。

2021-04-10 18:39:16
シービー @MrCB_Harukaze

大河では岡江久美子さん、黒島結菜さんのイメージが強いですが、日テレドラマ『奇兵隊』のお雅は伊藤麻衣子さんでした。とても可憐でした。お雅が嫁いだときは数え16歳なので、実は一番リアリティがあったかもしれません。ちなみに、おうのはランちゃんさんが演じていました。 pic.twitter.com/aVY2KHxxQX

2021-04-10 22:02:21
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シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)1月24日、高杉晋作は、来島又兵衛の進発を説得するよう世子定広公から親書と預かり、防府に向かう。しかし、説得に失敗し、京都の情勢を得るたため上方に向かう。これが後に脱藩と咎められる。このとき、市ぃも同行しているが、桂さんらの配慮か、お咎めなしとなっている。

2021-04-12 17:00:59
シービー @MrCB_Harukaze

2月18日、晋作坊ちゃんは京から萩のお雅に手紙を送っている。急な出奔については理由を語っていない。緊急時のため、萩でやるべき事が細かく書かれ、坊ちゃんの両親を大切にと説く。そして、武士の妻としての心得が書かれている。一緒に『いろは文庫』も送っている。

2021-04-12 17:07:29
シービー @MrCB_Harukaze

2月、晋作坊ちゃんは萩に帰るがすぐに親類預けとなり、士籍を削られ、脱藩の罪で野山獄に入れられる。その後父小忠太の尽力で家居謹慎となる。6月21日から8月4日に山口に呼び出されるまで、約1か月半、お雅は坊ちゃんと暮らしている。この頃、聞多が訪ねてきて坊ちゃんと面談した旨お雅は回顧している

2021-04-12 17:12:36
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)俗論派台頭のため、10月16日、晋作坊ちゃんは山口から萩の自宅に戻る。その月の5日は長男梅之進が生まれていた。しかし、危険を察知した晋作坊ちゃんは10月25日に萩を脱出する。その後福岡まで亡命している。おそらくまともにお雅と子どもと3人で暮らしたわずかな10日足らずであろう。

2021-04-12 17:17:56
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晋作坊ちゃんが来島又兵衛と面談した「大専坊」。防府天満宮敷地内にあります。 pic.twitter.com/Vju2I9n4SF

2021-04-12 17:21:16
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慶応3年(1867)3月24日、晋作坊ちゃんの病状が悪化したため、萩から父小忠太がやってくる。お雅が同行していたことは彼女の回顧談(坊ちゃんが訪ねてきた聞多と侠平に「しっかりやってくれろ」と話した。お雅はそれが遺言と語っている)で分かる。

2021-04-13 17:47:20
シービー @MrCB_Harukaze

4月13日、晋作坊ちゃんが亡くなる。臨終の際のことはお雅からは語られていない。 晋作坊ちゃんとお雅が一緒に暮らしたのは、7年半の結婚生活で、延べにして23か月(2年足らず)であった。

2021-04-13 17:50:00
シービー @MrCB_Harukaze

お雅の回顧談は2つある。言論雑誌「日本及び日本人」677号の高杉東行先生特集で記者の取材に応じている。あと、時をほぼ同じくした「朝日新聞」にも回顧談が掲載されている。大正5年のことである。お雅はこの後6年後に他界している。萩博物館では内容を画像化したものが観られたような記憶がある。

2021-04-15 20:48:04
シービー @MrCB_Harukaze

お雅は、当時東京都の飯倉あたりに住んでいたらしい。このとき、晋作坊ちゃんの妹である次女栄子、三女光子はなくなっており、長女竹子だけが存命であると語っている。竹子は青山あたりに住んでいて、お雅よりも年上なので、すっかり弱っていると述べている。

2021-04-15 20:52:13
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そしてこのときは、晋作坊ちゃんの長男東一(梅之進)もすでに亡くなっていた。東一には二男二女がいて、その長男である春太郎が存命でお雅と一緒に住んでいたらしい。それ以外の子孫は当時では亡くなっていると語っている。

2021-04-15 20:59:37
シービー @MrCB_Harukaze

この時の回顧談では、お雅は「政子」と記されている。昔の人の名前、特に漢字はいろいろ当て字が使われることが多いので驚くことではないが、大正時代に使われているというのは、当時(戸籍登録以後?)は正式にこの名前を使ったのであろうか。もし、知っている人がいたら教えて欲しい。

2021-04-15 21:06:23
シービー @MrCB_Harukaze

お雅は写真に写ることがことのほか嫌いだったようで、残っているものは多くない。回顧談で撮影を促され「私のような者が写真をとるのは、東行うぃ辱めるようなもの」といったんは断るが、坊ちゃんの50年祭で旧藩主からの営みもあると特別に許可している。

2021-04-15 21:14:20
シービー @MrCB_Harukaze

「東行はご存じのとおりの乱暴者でございましたから」とお雅は回顧する。そのため「野山屋敷」へ入れられたと。野山屋敷は野山獄のことでもともと武家の屋敷だったから当時はそう呼ばれていたことがうかがえる。

2021-04-16 21:07:35
シービー @MrCB_Harukaze

お雅は親類預けになったが、晋作坊ちゃんが野山屋敷から出されたため家に帰ってくる。坊ちゃんは二間の奥座敷に入れられ閉めきって外から釘付けしたと語っている。当時の謹慎の状況が分かる。

2021-04-16 21:11:14
シービー @MrCB_Harukaze

家の者も容易に出入りすることはできず、ほとんどのことは野山獄の役人が処理していたという。まぁ、見張り役を兼ねていたであろう。みなもと太郎『風雲児たち 関ヶ原編』でも謹慎や蟄居の厳しさやそれが原因で精神を病んだり自ら命を絶ったりした話しが書かれている。

2021-04-16 21:14:34
シービー @MrCB_Harukaze

「そのうち井上さん(聞多)が洋行から帰って来て、ぜひ東行に会わせてくれ」と訪ねてきたことが語られる。小忠太は当初断固として拒絶していたが、聞多の熱心さに負けて許可する。この辺、小忠太の甘さが見える。坊ちゃんは大変喜んだようだ。

2021-04-16 21:18:41
シービー @MrCB_Harukaze

聞多から外国艦隊のことを聞いたからなのか、晋作坊ちゃんは、突然、大きな石を運ばせ、毎日のようにその石を差し上げては下ろし、という運動を始めたという。いざ、戦いが始まったときに体力が萎えていることをおそれたのであろうとお雅は語っている。リアルな事実が分かる。

2021-04-16 21:22:55
シービー @MrCB_Harukaze

お雅は、それから4ヵ国連合艦隊との講和のため、晋作坊ちゃんが許されたと語る。そして藩主から拝領した鎧直垂を着て、宍戸刑馬と変名し、講和談判に向かったとも語る。記憶がしっかりしているとも言えるが、坊ちゃんとの一緒の時間が少ないためエピソードを鮮明に覚えているのかも知れない。

2021-04-18 14:23:57
シービー @MrCB_Harukaze

その後、晋作坊ちゃんは下関に居たが、病気がひどいという知らせを受けて、お雅は父小忠太と母ミチと一緒に下関に向かう。回顧談では「馬関にまいりました」という言葉を使っている。新地の林屋の奥座敷に寝込んでいたと。林屋は、酒屋林算九郎のことであり、現在は高杉晋作終焉の地碑がある。 pic.twitter.com/JjXslPqujS

2021-04-18 14:30:24
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晋作坊ちゃんは身体が悪くなり、いつもいらいらしていたという。聞多や侠平がよく訪ねてきて、「ここまでやったのだから、これからが大事じゃ。しっかりやってくれろ。しっかりやってくれろ」と言い続けて亡くなった。家族の者には別に遺言もなく、お雅は「しっかりやってくれろ」が遺言をいう。

2021-04-18 14:34:10
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お雅は野村望東尼についても語っている。東行が亡くなるまで林屋で世話してくれたと。後に東行のかたみを当時三田尻にいた望東尼に贈っている。その令状を今でも保存していると。「東行は平生、天満宮と観世音様を大変信仰していた」と言う。

2021-04-18 14:41:35
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望東尼が観音経を晋作坊ちゃんのために写したことがある。それに対して、坊ちゃんは、その裏にいたずら書きをしたらしい。「明日をもしれぬみのおわり(美濃尾張)かな」自分の運命を知っていたとも言えるし、最期を分かっていながら、なお、この洒脱が坊ちゃんの真骨頂とも思える。

2021-04-18 14:46:58
シービー @MrCB_Harukaze

お雅が嫁いだとき、母ミチは「晋作は気短だからそのつもりで仕えてくれ、どんな事を云われてもその時は黙っていて後で意見してくれ」と言ったが、お雅は「私ども弱い者にはごく親切で、8年も連れ添って一度も叱られたことはありません」と語っている。

2021-04-18 15:16:27
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また、お雅は、晋作坊ちゃんは子煩悩で、幼い梅之進に「偉くなれ、偉くなれ、国の為に尽くすようになれ」と云っていたという。当の晋作坊ちゃんも「寿命はしかたないが、お国のためにもう少し生きていたい」と云っていたとも語っている。(完) pic.twitter.com/fbaP9bNZlq

2021-04-18 15:22:29
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.