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シービー @MrCB_Harukaze

石州口における幕府征長軍の布陣は、当初、益田に福山藩、遠田と津田に浜田藩が在陣、その後和歌山藩、松江藩、鳥取藩が続けて出兵している。指揮はと征長先鋒総督徳川茂承(もちつぐ)が命じられたが、6月7日名代和歌山藩付家老安藤直裕が指揮することになった。

2021-10-19 19:19:59
シービー @MrCB_Harukaze

一方、長州藩軍の編成は、南園隊、精鋭隊、清末育英隊、清末藩兵などであった。総司令官は清末藩主毛利元純が務めたが、長州藩領からは出ず、実際の指揮は参謀大村益次郎が担当した。蔵六は6月初めに山口から本営の三雲に向かう。

2021-10-19 19:26:08
シービー @MrCB_Harukaze

大村の出発に際して「先生は山口より馬にまたがり」と記録がある。(大村益次郎先生事蹟)『花神』での”馬に乗れない”というのは演出である。ほかの参謀は、直目付杉孫七郎、滝弥太郎がいた。

2021-10-19 19:29:42
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩領から益田に向かうには津和野城下を通る必要があった。津和野藩は幕府側であったが、長州藩と交戦することを嫌い、兵を城下に集めて待機させている。衝突を望まない姿勢を感じたのか、大村益次郎は津和野城下を避けて迂回している。生雲から小川村、横田というルートを取った。

2021-10-19 19:33:42
シービー @MrCB_Harukaze

大村益次郎が出陣したのは6月16日である。横田からは扇原、多田に進んだ。この頃の岩見国の民は津和野藩や浜田藩よりも長州藩を支持していた。征長軍には宿を貸さないというほどの気運があったという『松氏春秋』。

2021-10-19 19:40:56
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6月16日午前7時、長州藩軍は多田村を出陣し益田を目指す。益田の福山藩兵と浜田藩兵は扇原関門を封鎖し、小銃を発射。長州藩兵は山の尾に沿って散兵を敷き、小銃を応射した。南園隊が関門に突撃し征長軍を敗走させる。追撃し、全軍多田村に至った。ここに石州口の戦闘が開始された。

2021-10-19 19:48:57
シービー @MrCB_Harukaze

石州口作戦図、ミニエー銃、四斤砲弾。鋳銭司郷土館で拝見しました。 pic.twitter.com/3IjYBbPSaQ

2021-10-19 21:21:48
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6月16日正午、長州軍は多田村を出陣。一手は益田へ、一手は平野へ進出する。福山藩軍は万福寺等の寺に陣を置いた。また浜田藩軍も益田本郷に陣を置いた。午後5時、長州軍は益田を攻撃するが、この日は探りを入れる程度の攻撃で、日暮れになったこともあり横田村に撤収した。

2021-10-20 19:06:05
シービー @MrCB_Harukaze

6月17日午前8時、横田村の長州軍は益田に進軍する。別動の高津方面軍も同じく益田に進軍をはじめる。幕府軍は浜田藩・福山藩1000で万福寺、医光寺、勝達寺に立て籠もる。長州藩は精鋭隊、南園隊らで攻撃するが、寺に立て籠もった征長軍が有利であった。

2021-10-20 19:14:24
シービー @MrCB_Harukaze

一方、高津から進軍した須佐隊、育英隊が万福寺背後の秋葉山から征長軍を射撃する。正面と背後から攻撃された浜田藩・福山藩軍は浜田方面に敗走した。万福寺の浜田藩対象山本半弥は自殺。また敗走中に幕府軍監三枝刑部も戦死する。ここで有名な逸話がある。

2021-10-20 19:22:08
シービー @MrCB_Harukaze

攻撃時「先生石州口の幕軍を破って高津川に至り、河に船なし。先生令していわく、大隊進めと(略)帰りて河に至れば先生船橋を作って待つ。隊兵これにより先生に服す」『天野御民談』「進むときには癇癪を起こすぐらいでなければならぬ。帰りには気が緩むから橋を架けた」『大村益次郎事蹟』

2021-10-20 19:28:12
シービー @MrCB_Harukaze

大村益次郎はまた「縣令条々」と呼ばれる標札を立てる。「兵火のために難渋の村々は訴え次第処置すべし。兵士乱暴かたく相禁じ候」等である。民心を掌握するためであろう。これはその後占領した各地にも立てられた。

2021-10-20 19:35:02
シービー @MrCB_Harukaze

福山藩士が長州の散兵戦術を記録している。「広く散らばった兵士は、草木の影、屋根の上など物陰に隠れて狙撃してくる。一発撃つと場所を変える。山を登りまた駆け下り(略)まるで猿のようである(略)多人数の様に思ってしまう」浜田藩の記録には「長州軍の戦法は卑しき戦い」とある。

2021-10-20 19:39:37
シービー @MrCB_Harukaze

益田を退却した幕府軍は、6月23日、7月2日に軍議を開き立て直しを図った。その結果、和歌山藩は浜田城下周布村聖徳寺を本陣とし、門出、三宅村に陣を敷いた。浜田藩は大麻山、松江藩と福山藩は長浜村、鳥取藩は内田村と浜田城下に布陣した。

2021-10-21 18:27:52
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大村益次郎は益田を攻略した後、6月25日に山口に帰り6月26日と27日の2日間藩庁で軍議を開いている。この頃の四境戦争の戦況は、大島口は大島を奪還したが、芸州口は小方で膠着状態、小倉口は軍艦で門司を砲撃したが、まだ上陸はできておらず、石州口のみ順調であった。

2021-10-21 18:31:39
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この時の軍議では、特に目新しい決め事はなく、今までの作戦を続けることが確認された。大村益次郎は6月27日に山口を発って益田に向かった。しかし、28日に益田攻撃一時停止の命が届く。藩庁は津和野藩が裏切る(というより、中立を崩す)のではないかと心配していた。

2021-10-21 18:36:19
シービー @MrCB_Harukaze

藩庁は石州口参謀の杉孫七郎を6月17日に津和野藩に派遣した。続いて、新たに石州口参謀となった高田春太郎(井上聞多)を6月21日に益田に派遣し、津和野藩近侍羽田多橘と会談させ、二心なきことを誓わせた。聞多は石州口では活躍の場がないと思い、山口に帰って芸州口浅原口参謀に転じている。

2021-10-21 18:40:30
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聞多の転進については蔵六が「高田春太郎も御地御用済み次第早く帰陣候よう御申し伝えくださるべく候」と藩庁への書簡に書いている。津和野藩との話し合いも済み、石州口の攻撃も再開される。

2021-10-21 18:43:10
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鋳銭司郷土館の展示物2 pic.twitter.com/Tg3EMXseKm

2021-10-21 18:51:29
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7月5日、石州口の長州軍は攻撃を再開し、益田から三隅に進む。浜田藩は岡山藩、鳥取藩に救援を求めた。長州軍は、南園隊らが内陸側を進軍し嶺村に着陣、精鋭隊、清末育英隊らは海岸部の浜田街道を進み三隅に入る。7月13日、南園隊は周布川沿いの内田村に布陣する松江・福山藩を攻撃した。

2021-10-22 20:21:22
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征長軍はよく耐え、長州軍は渡河できず、日暮れとともに撤退した。このときの松江藩は西洋式六斤砲、カノン砲、スナイドル銃、12連発ベンセル馬上銃など最新式の西洋式武器を所持していた。

2021-10-22 20:27:49
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よく、四境・戊辰戦争について幕府軍の武装が旧式のため敗因になったと言われるが、実際は、幕府軍の方が西洋式武器は充実していた。ただ、各藩の武装はレベルが様々であり、その一部分がフォーカスされていたりする。幕府側各藩の意識の差が激しかっただけである。

2021-10-22 20:30:31
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7月15日午前7時、長州軍は二手に分かれて大麻山を攻撃する。もともと長州軍にとってはこちらが攻撃の本命だったらしい。浜田藩800が守っていたが、午前10時には長州軍が攻め落とした。この戦いを「散兵ニテ木陰又ハ巌岩之間ニ潜ミ」と大森代官が伝えている。

2021-10-22 20:37:11
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要は、武器の差ではなく、その武器を活かす戦術訓練、現場士官の能力、そして、大村益次郎の戦略とそれを忠実に実行できる兵がいたということが、長州藩勝利の要因であろう。また、幕府側に従った各藩にとって自分らとは全く関係のない戦であり、それについて士気が上がらなかったとも想像される。

2021-10-22 20:40:51
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鋳銭司郷土館展示品3 pic.twitter.com/vyjOdsw9BL

2021-10-22 20:44:18
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7月16日、長州軍は大麻山から国司隊、精鋭隊、清末隊が進発し、和歌山藩兵を攻撃した。和歌山藩は散兵戦術に対して大砲で応戦したが支えることが出来ず潰走する。この時「紀州藩之安藤は、出張中人民を大キニ苦しめ候(略)長浜辺之者は竹槍を以、紀州残兵を遂に至る」と、民衆に竹槍で追われている。

2021-10-23 18:08:07
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征長軍の大きな敗因には、輜重や土木を行う者が脱走し、進軍が思うように行かなかったことも数えられる。これらの要員は国から連れて来たり、現地で調達したりしていたが、待遇が悪いのか元々嫌われていたのか脱走者が相次いだという。そのため、部隊の活動が滞った。

2021-10-23 18:11:30
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長州軍は浜田藩に書簡を送り、浜田藩主が病気のためそちらから攻撃しなければ長州藩は城下に迫ることはしない。と通告した。浜田藩は鳥取藩と岡山藩に救援を依頼していたが、応援の兵は来ず、進退窮まり、7月16日、止戦講和を申し入れてきた。翌17日、周布村で講和会談が行われた。

2021-10-23 18:17:01
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長州藩からは参謀杉孫七郎と滝弥太郎が応接、浜田藩重臣と会見し、講和は浜田城から他藩の兵を撤兵させることを条件とした。返答期限は18日午前11時とした。浜田城で停戦か交戦かの軍議が開かれたが結論は出ず、藩主松平武聡が浜田城を夜半に退去し、松江藩に向かう。(亡命ですかね)

2021-10-23 18:21:48
シービー @MrCB_Harukaze

他藩の征長軍も浜田藩主退去の報を聞き、浜田城から撤退していった。交戦派も諦め、18日午後4時浜田城を自ら焼き、撤退していった。征長軍が撤退すると市街で民衆による略奪等が行われたため、19日、長州軍が浜田城に入り市中の警備を行ったという。民衆の浜田藩政に対する怒りと思われる。

2021-10-23 18:27:22
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浜田城制圧は一気に大村益次郎の名を高めた。「先生に皆の者が浜田の城を攻めるのは困難である。応援が来る。と言っていたが、先生は何も気を遣うことはない。応援も来ない。と断言したが。その通りであった」『大村益次郎事蹟』そして、石見銀山を占領し、当初目的であった浜田藩領と銀山を掌握した。

2021-10-23 18:31:28
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鋳銭司郷土館展示品4 pic.twitter.com/ST0SNQ9GqM

2021-10-23 18:32:58
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7月25日、南園隊は大森に出張する。大村益次郎も26日に大森に至る。そこで一揆を鎮め占領した銀山領の長州藩による民政を開始し、藩庁に伺いを立てる。7月28日、長州藩大森本陣は一揆の原因となっている米高騰の問題に着手した。30日、米を百文につき二合五勺とし、大森代官の残した米を分け与えた。

2021-10-24 19:33:47
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一揆をうまく纏めた長州藩に比して、鳥井村に滞在していた松江藩軍は一揆に翻弄され、松江藩領口多儀方面に退却している。一揆を鎮圧する力も失っていた。大村益次郎は一揆対策は重要として「戦争之支リニも相成申候、一刻も早く始末片付不申では追々面倒之儀差起り困り申候」と藩庁へ手紙を送っている

2021-10-24 19:42:18
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8月24日、長州軍大森本陣は民政方針を布告した。「何か願いがあれば穏便に嘆願すべし」「物価については諸方の相場を聞き合わせ諸売買を許可する」「年貢は維持するが、過酷のものは改正すべし」。以後岩見国の占領地にも展開された。ここに石州口の戦いは終了する。勝利以外に占領地政策まで定めた。

2021-10-24 19:47:50
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鋳銭司郷土館展示品5 pic.twitter.com/PTR0sW5uDe

2021-10-24 19:48:44
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鋳銭司郷土館展示品6 pic.twitter.com/j4UN4mNbKe

2021-10-24 19:50:01
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シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.