そっと風が撫でるような。そんな歌声で彼女は歌っていた。
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どーる @doll046

1 『あんたはそれがなければただのクズだからね』 今も時折母の言葉を夢に見る。 『お前は何で兄のようにならなかったんだ』 そう言った父の顔は今でもふとした時に浮かんでしまう。 この世界は残酷で正直だ。 才能のない者に見向きする人はいなかった。

2022-09-07 19:00:18
どーる @doll046

2 そんな俺にも兄にはない才能があった。 母もかろうじて認めてくれていた才能。 絵を描いているときだけは、俺もこの優秀な一家の一員になれた気がした。 そう、思っていた。

2022-09-07 19:00:25
どーる @doll046

3 焼くような西日が差し込む美術室。白と黒。色のないキャンパスの前に何をするでもなく座っていた。 いつまでこうしているつもりなのか。何もかもわからず、今日も一日が終わる。 「今日もダメだったな...」 弱々しく呟いた言葉は壁に跳ね、虚空へと消える。そんな日常。

2022-09-07 19:00:32
どーる @doll046

4 扉が開く。 「筑紫、準備できた?」 陽が長くなったとはいえ遅い時間なので他の人はいないのだが、それでも迷惑をかけないよう気を配って和が入ってきた。 和とはなぜか小中高とずっと同じクラスで、小さい時は気まずかった仲も今や登下校を共にするようになっている。

2022-09-07 19:00:38
どーる @doll046

5 「ちょっと待って...おかしいな」 和に呼ばれてから帰り支度を始めたが、どれだけ探してもない。筆箱が見当たらない。 「忘れ物したみたいだからさ、今の時間より遅くならないように先帰っていいよ」 和は少し残念そうな顔をしたが軽く頷き「じゃあ、また明日」と言って小走りで廊下を走っていった。

2022-09-07 19:00:45
どーる @doll046

6 まずは教室。ここを探すのが妥当だ。 しかし、 「ないな...」 無かった。こうなると逆に落ち着き、周囲を見渡す余裕ができた。 目に入った時間割。 『3限目 音楽』 それ以外の授業は全てこの2-1で行われた。そうなるともう答えは見えている。 もう一度美術室のある技術棟へと戻る羽目になった。

2022-09-07 19:00:52
どーる @doll046

7 しかし面倒だ、面倒だとは言っているものの、誰もいない夕日に照らされた学校を歩くというのはいくつになってもワクワクする。 半ば探検気分で音楽室の扉を開けると、そこには一人の女子生徒がいた。 透き通るような。そっと風が撫でるような。そんな歌声で彼女は歌っていた。

2022-09-07 19:00:58
どーる @doll046

8 歌声のあまりの美しさに。沈みゆく太陽に橙色に染められた幻想的なその姿に、俺は思わず言葉を失い立ち尽くしていた。 俺の存在を気にも止めず彼女は歌い続ける。彼女の歌っている歌は俺の知らない歌で、聞いたこと無かったけれど、彼女の歌声に当てられて、俺は気付かぬうちに涙を流していた。

2022-09-07 19:01:03
どーる @doll046

9 「あの...大丈夫ですか?」 こちらに気が付いた少女がこちらの様子をうかがう。 一人背後にたたずむ男。不審者だと思われただろう。 「いや、その、君の歌声があまりに綺麗だったからさ」 疑いが大きくなる前に何とかしなければと思い、必死に弁明をする。しかし、 「おかしいな」 涙が止まらない。

2022-09-07 19:01:07
どーる @doll046

10 「これ、どうぞ」 差し出されたハンカチで涙を止める。 「ごめん、自己紹介もせず。湊筑紫です。改めて、歌すごい上手でした」 「ありがとうございます。歌、褒めてくれて嬉しいです。私は中西アルノって言います。同じクラスですよね?...多分」 これが二人の(厳密には違ったが)初めての出会い。

2022-09-07 19:01:13
どーる @doll046

11 「この筆箱、湊くんのですよね?」 傍らに置いてあった筆箱。 「そう、探してたんだよ、ありがとう。助かった!」 「よかったです」 「にしてもさ」 ここで一番の疑問をぶつける。 「なんで歌ってたの?こんな遅くまで」 その答えは単純なもので、一言、彼女は答えた。 「歌うの、好きだからです」

2022-09-07 19:01:18
どーる @doll046

12 好きだから。単純で、最も奥が深い。 「そっか...」 なんで涙を流したのかが分かった。 「はい、大好きなんです」 彼女の歌声は、まなざしは、どこまでも純粋なものだったから。だからこそより心に響き、揺さぶられたのだった。

2022-09-07 19:01:22
どーる @doll046

13 「ただいま」 玄関を開けるといいにおいが。帰宅が遅くなり、もうとっくに祖父母は夕飯を食べ終えていた。 「おかえり、今日は遅かったねえ。手、洗ってきな」 その間にテーブルには焼き魚。 「いただきます」 ごはんと魚を同時に口へと運ぶ。 そのおいしさに頬がほころぶ。 今日は鮭だったらしい。

2022-09-07 19:01:27
どーる @doll046

14 ご飯を食べ終え、食器を片す。 「ばあちゃん、あとやっとく」 洗い途中の食器を引き受けて黙々と片付けていく。 この家に住まわせてもらっている以上、できる限りの雑用は積極的に引き受けたい。

2022-09-07 19:01:31
どーる @doll046

15 「はあ、気持ちよかった」 ゴロンとベッドの上に寝転がる。 風呂にも入り、あとは寝るだけ。 そこに一通の通知。和からだ。 『明日は朝練あり!一人で登校だからって寝坊せずに行くこと!』 『了解。朝練頑張って』とだけ返す。 いいつけを守るためにも、今日は少し早めに電気を消した。

2022-09-07 19:01:35