道迫真吾『萩ものがたり 楫取素彦-「至誠」を体現した松陰の盟友』より
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シービー @MrCB_Harukaze

文政12年(1829)3月15日、萩城下魚棚沖町の萩藩医松島瑞蟠の次男として小田村久米次郎(楫取素彦)が生まれる。母は政子。その後通称は、松島内蔵次郎、(小田村)伊之助、文助、素太郎、(楫取)素彦と変わっている。諱は希哲(ひさよし)、字は士毅(しき)、号は耕堂、不如帰、観月など多数。

2021-04-19 18:34:45
シービー @MrCB_Harukaze

通称が多数変わるため、以後、楫取素彦に統一。素彦の四歳上の兄剛蔵は松島家を継ぎ、家業の医学を修め長崎で勉強し、洋学者として名を著した。さらに、藩政にも関与できるほど出世する。弟に健作がいて、儒者小倉尚蔵に養子に迎えられるが、後に独立し、松田謙三として漢学者の名声を得る。

2021-04-19 18:40:17
シービー @MrCB_Harukaze

楫取素彦は、天保11年(1840)6月15日、儒者、小田村吉平の養子となる。このときから、しばらく小田村伊之助と名乗る。大河『花燃ゆ』ではこちらの名の方が通りがよいでしょう。家は萩城下伊勢屋横町にあった。少年の頃から才能、学力を周囲から認められ、村田清風のもとで勉強するようになる。

2021-04-19 18:44:55
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楫取素彦の旧宅跡は、萩の松下村塾近くにあります。市ぃの旧宅のすぐ近くです。ただ、この跡地はいつごろに住んだものか、観光案内では分かりませんでした。 pic.twitter.com/WLQY0mfVV5

2021-04-19 19:01:10
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弘化4年(1847)6月、養父吉平が死去。当時16歳だった楫取素彦は小田村家の家督を相続する。小田村家は明倫館で儒学の講師をしていた。素彦は10月に明倫館の司典助役兼助講となる。現在、萩の松本村にある旧宅跡はこの頃引っ越したのではないかと言われている。

2021-04-21 16:13:45
シービー @MrCB_Harukaze

嘉永2年(1848)2月、新明倫館が落成、楫取素彦は藩主毛利慶親の配慮で講師見習い役に昇進する。このとこ藩主から裃を拝領したという。よほど優秀だったのであろう。

2021-04-21 16:16:58
シービー @MrCB_Harukaze

この頃、有志のグループ「嚶鳴社」が組織されている。この頃の指導者は周布政之助と云われている。正式な名簿は残っていないが、村田清風の孫村田峰次郎が後に年長者から聞いたところ、楫取素彦の名があった。

2021-04-21 16:20:46
シービー @MrCB_Harukaze

他には、前田孫右衛門、松嶋剛蔵、栗原良蔵、山県半蔵など数十名。長州藩志士の錚々たる名前がある。その中に若くして楫取素彦の名があるというのは、彼の優秀さや先進性が認められたものであろう。嚶鳴社は長州藩の正義派の流れを汲む一派である。素彦が後に政治活動を行う上での人脈が形成された。

2021-04-21 16:25:01
シービー @MrCB_Harukaze

余談ですが、大河『花燃ゆ』放映時、第一回長州幕末歴史検定が開催され、倒幕級(中上級者向け)を受験し合格しました。その中の問題で嚶鳴社を答うものがあったのですが、見事外しています。まぁ、合格したからいいか。めったに入れないお茶の水女子大に入れたし。 pic.twitter.com/DCTXkUA4RG

2021-04-21 16:36:36
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嘉永3年(1850)3月、楫取素彦は江戸勤めとなり、御式台番手役を務める。その後、嘉永4年(1851)4月9日、松陰先生が藩主の参勤に従い江戸に到着する。素彦と先生は江戸で知り合ったと言われるが、もともとどちらも明倫館に勤務しており、昔から面識はあったとも考えられる。

2021-04-22 20:54:35
シービー @MrCB_Harukaze

楫取素彦と松陰先生が江戸にて面会したのは5月中旬頃と推測される。それは、5月12日に先生が兄梅太郎に贈った手紙で素彦に度々会っていると記していることで分かる。

2021-04-22 20:57:29
シービー @MrCB_Harukaze

6月13日、松陰先生が浦賀に宮部鼎三とともに出かけ、10日間かけて三浦半島と房総半島を調査した。楫取素彦も江戸で宮部と知り合い、3人とも知り合いだった。素彦と先生は、『海防憶測』の貸し借り等を通じて、海防問題について考えを共有していた。

2021-04-22 21:02:22
シービー @MrCB_Harukaze

嘉永4年(1851)12月14日、松陰先生が突然行方をくらます。楫取素彦は驚愕し、日記(檜荘日記)に、直ちに藩邸に出向き、来原良蔵と小川七兵衛に事情を尋ねたと書いている。素彦は、嘉永5年(1852)1月、水戸滞在中の先生に手紙を送り、江戸に戻るよう諭している。が、先生は戻らなかった。

2021-04-22 21:08:32
シービー @MrCB_Harukaze

楫取素彦は、新政府で「参与」になっています。長州藩からは広沢真臣、井上馨に次ぐ人事で、桂さんや俊輔よりも早く出仕しています。しかし、藩主から新政府に帰藩依頼があり在任40日ほどで辞任し帰藩します。もし、これがなかったら、県令という地位に甘んじてはいなかったかもしれませんよね。

2021-04-22 23:13:32
シービー @MrCB_Harukaze

嘉永5年(1852)4月13日、楫取素彦は松陰先生と藩邸で再会した(檜荘日記)。その後、萩藩は先生に帰国命令を出す。4月18日に江戸を出発、5月12日に萩に到着する。脱藩の罪で士籍剥奪、杉百合之助の育みとなる。嘉永6年(1853)1月16日、先生は10年の諸国修行が許可され、6月1日に江戸に戻る。

2021-04-23 20:07:12
シービー @MrCB_Harukaze

楫取素彦は、同年4月に萩に戻っている。松陰先生とは行き違いである。藩では、再び明倫館に勤める。そして、7月に先生の妹寿と結婚する。素彦は25歳、寿は15歳であった。江戸にいた先生は兄梅太郎から手紙をもらいこのことを知る。大変喜んだようである。素彦は先生の義弟となった。

2021-04-23 20:11:44
シービー @MrCB_Harukaze

大河『花燃ゆ』で小田村伊之助が寿と結納?のときに文が恋心を抱いたような描写がありますが、寿とは4歳違いなので9歳から10歳。無理があるだろうと思いました。河原での覆い被さりのアクシデントは、今なら普通に通報案件です。演じたのが井上真央さんだから幼女に見えなかったけど。

2021-04-23 20:23:56
シービー @MrCB_Harukaze

楫取素彦肖像画 香取夫妻像 香取素彦墓 pic.twitter.com/IGeCkiWpJl

2022-05-05 12:44:39
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.