『戊辰戦争』佐々木克著 『戊辰戦争論』石井孝著 より
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シービー @MrCB_Harukaze

会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬は、京で反幕府勢力へ盾となっていた。いわゆる一会桑勢力である。しかし、鳥羽伏見で敗戦を迎え、将軍徳川慶喜は江戸へ帰る。江戸では、松平定敬は再挙を唱えていたが、慶喜はその意志はなかった。

2022-02-20 16:35:20
シービー @MrCB_Harukaze

定敬は国許桑名への帰還を命じられていたが、その頃桑名藩は、朝廷に降伏していた。また、兄容保も強硬派であった。そのため、熟慮し、定敬は越後柏崎に移ることにした。

2022-02-20 16:35:47
シービー @MrCB_Harukaze

柏崎には桑名藩の分地があったのだ(江戸時代の藩ではこのような分地は珍しくない)。また、越後の地は会津とは近い。当然、兄容保との何かしらの意思疎通はあったであろう。

2022-02-20 16:35:52
シービー @MrCB_Harukaze

少し時間を戻す。慶応3年11月30日、河井継之助は、長岡藩主牧野忠訓と共に藩士60名を従えて上阪していた。王政復古後、幕府軍の拠点大阪城は主戦論が占めていたが、河合継之助は出兵は得策ではない。

2022-02-21 17:26:31
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、抗戦するなら、大津口・丹波口を固めて敵を包囲し、京都の糧食が欠乏した頃を見計らい包囲線を行うことを提言する。だが、徳川慶喜は、積極的な武力実行をする事はなかった。

2022-02-21 17:26:46
シービー @MrCB_Harukaze

長岡藩は鳥羽伏見の戦いで大阪玉津橋の警護を担当していたが、1月7日に大阪を脱出し江戸に帰還する。江戸に着いた河井は、徳川慶喜に戦意がないことを見ぬき、藩主を長岡に帰国させ、自身は長岡藩江戸藩邸を処分した。

2022-02-21 17:27:26
シービー @MrCB_Harukaze

そして、数万両の資金を得て横浜の外国商人から最新式の銃砲・弾薬、多量の米穀を購入した。ガトリング砲を購入したのはこの時期である。

2022-02-21 17:27:45
シービー @MrCB_Harukaze

一方、松平定敬である。柏崎の桑名藩分領は、幕府からの預かり地を含めると10万石程度あり、家臣の生活、再挙を考えると拠点としては十分であった。また、越後には会津藩の飛び地もあり、松平定敬、松平容保間の連絡も取りやすかった。

2022-02-21 17:27:59
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年3月16日、桑名藩主松平定敬は、ロシア商人エドワード・スネルが借り上げたプロシア船に乗り横浜沖を出港し函館廻りで新潟に向かう。この時、船には会津藩家老梶原平馬、長岡藩士河合継之助が同船していた。

2022-02-21 17:28:15
シービー @MrCB_Harukaze

河井は、江戸の長岡藩士150名と共に3月23日、新潟港に到着した。河合継之助がなぜ松平定敬の船に同船していたのかは詳しくは分かっていない。しかし、同じ境遇である定敬とは何らかの交流会談があったと考えるのは自然であろう。

2022-02-21 17:28:24
シービー @MrCB_Harukaze

4月10日、庄内藩松平権十郎と会津藩南摩綱紀らは会談し、会津藩と庄内藩が協力し合うことを決定することを決める(いわゆる会庄同盟)。この同盟自体は、京から撤退して両藩が江戸に居た頃から構想されていたと言われる。

2022-02-22 18:21:16
シービー @MrCB_Harukaze

当然、一会桑の一つである桑名藩にも耳に入っていたと思われる。徳川慶喜は桑名藩に対して江戸からの退去を命じるが、この時、桑名藩士は会津藩に身を寄せようと考えていたという。しかし「密カニ謀ル者アリテ」(桑名藩士岡本武雄手記)柏崎の分領に行くことになった。

2022-02-22 18:21:33
シービー @MrCB_Harukaze

桑名藩が最終的に会津を回避したのは、鳥羽伏見の戦いの首謀二藩が集結するのは新政府を刺激すると考えたためと柏崎の地の安全がある程度保障されたためと、佐々木克先生は著書『戊辰戦争』で推測する。

2022-02-22 18:22:16
シービー @MrCB_Harukaze

越後柏崎の安全を保障するには近くにある程度の軍事力を持つ藩が味方をする必要があると。その保障をしたのが、長岡藩ではなかったかということである。鳥羽伏見から撤退した1月上旬以降、長岡藩は江戸で長岡藩・会津藩と幕府軍の再挙を考え滞在していた。

2022-02-22 18:22:29
シービー @MrCB_Harukaze

河井継之助は江戸出発を前に、幕府側支藩・小藩らとの送別会で「宗家に関係なく王事に尽くすよう」説き、ある小藩の家老牧野某に「継之助は忠良の臣となろうか、はたまた英雄となろうか」と言った(『河井継之助伝』)。

2022-02-22 18:22:53
シービー @MrCB_Harukaze

この言は理解が別れるところだが、鳥羽伏見で敵対し、徳川慶喜に付き添い江戸に撤退した身の長岡藩が新政府側に立って英雄となれる立場にはない。また、河井と桑名藩の主戦派山脇十左衛門は船中で深く交流していたと桑名藩士岡本武雄が述べている。このように、河井継之助と桑名藩は無関係ではなかった

2022-02-22 18:24:12
シービー @MrCB_Harukaze

大河『花神』では、高橋英樹さんが河井継之助を演じました。実は、河井継之助登場シーンだけを録画したビデオが発掘されていますが、公開されていません。NHK公開してくれないかな。 pic.twitter.com/EXos8vvqOC

2022-02-22 18:32:07
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シービー @MrCB_Harukaze

河井継之助は、横浜でオランダ商人スネルス、スイス商人ファーヴァル=プラントから大砲・小銃を調達、またガトリング砲2門も一万両で買い付けている。河井はこれらを国許に輸送した。帰藩後約2か月は藩内に閉じこもり表向きは中立態度を維持してきた。(石井孝『戊辰戦争論』)

2022-02-23 18:42:46
シービー @MrCB_Harukaze

4月上旬から閏4月、会津藩と庄内藩が同盟を結び、桑名藩は越後柏崎の分領に入り、長岡藩も藩主と河井継之助も横浜で調達した武器と共に国元に帰っている。佐々木克先生は四藩の特徴として「戦争が終結する最後の最後まで、新政府の意志に従わなかった」と考察し、長岡藩の「中立論」に疑問を呈す。

2022-02-23 18:44:23
シービー @MrCB_Harukaze

河合継之助は、帰藩以来ひたすら武備の充実に努めていた。この間、新政府軍から献金・出兵の要請があったがすべて無視している。だが、河井は藩内(主戦派含む)に対して、新政府軍への対応について明確な方針は示さなかった。

2022-02-23 18:44:53
シービー @MrCB_Harukaze

新政府軍に対しても。藩内に対しても、一切意思表示をせず、黙々とし、具体的な行動や意思表示をしないまま、4月と閏4月を過ごす。表面的には「中立」的な態度に見えた(見せていた?)。

2022-02-23 18:45:15
シービー @MrCB_Harukaze

閏4月19日、高田に集結した新政府軍は、柏崎から新潟港を目指す海道軍と十日町から小出・小千谷を目指す山道軍に分かれ軍事行動を開始する。

2022-02-23 18:45:33
シービー @MrCB_Harukaze

山道軍の軍監は土佐藩岩村精一郎で閏4月27日に小千谷を占領する。小千谷は当時会津藩の飛地であり、会津藩の守備兵が駐屯していたが、新政府軍を戦闘することなく退却している。このことを知り、長岡藩家老河井継之助はようやく具体的な行動に出る。

2022-02-23 18:45:39
シービー @MrCB_Harukaze

5月2日、河井継之助は、長岡藩士二見虎三郎と従僕松蔵ら二人を連れて小千谷の新政府軍本陣を訪問した。河井が奥に通されてしばらく待っていたら、会津軍が小千谷方面に向かっているとの報が入り本陣は大騒ぎになった。

2022-02-25 19:06:18
シービー @MrCB_Harukaze

そのためか、新政府軍軍監岩村精一郎と長岡藩家老河井継之助の会談は慈眼寺に移して行われることになった。小千谷会談はそのような騒然とした戦況の中で行われた。河井は「総督府から出兵・献金すべしとの命令を受けながら今だに誠に謝する所をしらない。

2022-02-25 19:06:29
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、それは藩主に異心があってのことではなく、藩内の議論が分かれて一定しなかったからである。その上、会津や米沢、桑名の諸藩兵が長岡城下にきて、薩長は私心を挟んでおり真の官軍ではないから抵抗すべきであると迫り、むげに断れば戦争になる恐れがある。

2022-02-25 19:06:42
シービー @MrCB_Harukaze

このようなやむを得ない事情があって朝命に応ずることなく今日に至ってしまった。だがしばらく時日をかしてもらいたい。そうすれば、会津、桑名、米沢の諸藩を説得できる。

2022-02-25 19:07:08
シービー @MrCB_Harukaze

だから今直ちに軍兵を薦めるのを停止して貰いたい。そうでなければ、たちまち大乱となり、人民に塗炭の苦を受けさせることになる」(『河井継之助伝』)と訴えた。

2022-02-25 19:07:25
シービー @MrCB_Harukaze

新政府軍の攻撃を停止してくれれば、会津藩諸藩を説得する、と言う。いったい、どのような方法で、どのような落とし所で、など具体的なことは何一つ伝わっていない。岩村は、この訴えを取り上げなかった。さらに、河井が持参した藩主名義の大総督府宛の嘆願書も受け取らなかった。

2022-02-25 19:07:36
シービー @MrCB_Harukaze

一般的には、河井継之助は中立の立場を守り、会津藩・桑名藩と新政府軍の間にたち会津藩らを説得し、戦争回避の方向に導こうとしたと言われる。だが、それが出来なかったのは、岩村精一郎が会談を決裂させたからだ、と。

2022-02-25 19:07:50
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩士品川弥二郎は「黒田了介か山県狂介が河井と応対すれば戦争は回避できたかもしれない」(『河井継之助伝』)と述べる。しかし、この理解は正しいのであろうか。

2022-02-25 19:07:56
シービー @MrCB_Harukaze

河井継之助は、会津藩を説得すると言う。しかし、この頃すでに、仙台藩や米沢藩が会津藩を説得し、失敗している。そして同盟を組み、現に新政府に対して武力抗争を行っている。それを長岡藩がどうやって覆すのかの根拠もなかった。これでは、岩村精一郎も耳を傾けることもできなかったであろう。

2022-02-26 17:43:09
シービー @MrCB_Harukaze

また、河井が長岡藩に帰ってから、この対談に至るまで、会津藩を説得したり、会談したりしたことは一切なかった。もし、本当に説得の意思があれば、いくらでも時間と機会はあったはずである。

2022-02-26 17:43:25
シービー @MrCB_Harukaze

河井継之助の「中立論」は政府と会津藩らからの等距離に位置していたのもではなく、会津藩の立場に立ったものであった、と佐々木克先生は言う。河井継之助は新潟に到着後の2か月、藩外に何の働きかけを見せていない。

2022-02-26 17:43:43
シービー @MrCB_Harukaze

それは、奥羽列藩同盟諸藩に対してだけでなく、新政府からの働きかけにも全く応えていない。そして、この事は、間接的に反新政府軍的立場であることを明らかにし、同盟側補給拠点の新潟港を監視しつつ新発田など越後諸藩に睨みをきかせていたとも言える。

2022-02-26 17:44:09
シービー @MrCB_Harukaze

長岡藩は沈黙しつつ決して新政府軍になびかないことで、その(会津藩や桑名藩が望む)役割を果たしていたとも言える。新政府軍は長岡藩の立場がはっきりしないうちは、うかつに越後の戦線を拡大できなかったのである。

2022-02-26 17:44:13
シービー @MrCB_Harukaze

奥羽列藩同盟の前身、白石盟約書は閏4月23日に結ばれている。その後、紆余曲折あるが、5月3日の太政官建白書への合意が奥羽列藩同盟成立という説が主流のようである。当初は、大総督府に対して戦争の中止を嘆願するのが目的の同盟であった。

2022-02-28 18:15:47
シービー @MrCB_Harukaze

小千谷会談で河井継之助は、新政府軍の攻撃中止と戦争中止を訴える大総督府宛嘆願書の取り次ぎを願い出ている。河井の行動は基本的に会津藩を中止とした奥羽列藩同盟のそれと同じである。小千谷会談にあたって、河井継之助は会談が決裂したことを考えていたであろう(当然その確率のほうが高い)。

2022-02-28 18:16:18
シービー @MrCB_Harukaze

その際に一番に考えることとすれば、長岡藩を滅亡から最も遠ざける振る舞いであろう。会談で河井継之助の態度は意気騒然とし、論結の語を帯びていたと伝わる。「嘆願」に来たものの態度とはとても思えない。河井は政府軍に対して毅然と会談が決裂した場合の長岡藩の態度を見せていた。

2022-02-28 18:16:29
シービー @MrCB_Harukaze

さらに言えば、「嘆願」に重きを置いているはずなのに、たった一度決裂しただけで、それ以後二度と交渉を求めていない。小千谷会談が終わったあと宿に帰った河井は、同行した藩士二見虎三郎を相手に酒を酌み交わし、面白そうに詩を吟じていたという。

2022-02-28 18:16:49
シービー @MrCB_Harukaze

さて、長州藩士品川弥二郎がいう「了介か狂介が河井の相手をしていたら」の話しであるが、結論から言えば、結果は同じであろう。この頃の新政府は、朝敵処分への非協力藩を放置することはなかった。簡潔に言えば、新政府に協力しないものは決して許さないという方針が貫かれていた。

2022-02-28 18:17:07
シービー @MrCB_Harukaze

長岡藩の「中立」は、新政府に協力するというものでは決してなく、単にどちらにもつかないという意思表示である。それに譲歩することは新政府としてあり得ないし、仮に譲歩した場合、今後そのような態度を取る藩が出てきた場合許さざるを得なくなる。

2022-02-28 18:17:29
シービー @MrCB_Harukaze

つまり、新政府に明確に協力するとは言わない藩を許すことになる。岩村精一郎は、その新政府の方針を堅固に示したものであり、仮に了介や狂介であっても、それは変わらなかったであろうことは想像に難くない。ただ、会談後、河井を解放せず置きとどめ、その後の措置を封じた可能性はあるが

2022-02-28 18:17:56
シービー @MrCB_Harukaze

5月4日、小千谷会談からわずか2日後、片貝から合図藩軍(一瀬要人、佐川官兵衛)が長岡藩に入る。また、桑名藩軍(立見鑑三郎)、衝鋒隊(古屋作左久左衛門)も長岡藩に入った。これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加入する。

2022-03-01 18:24:50
シービー @MrCB_Harukaze

。小千谷会談は5月2日であり、会談後わずか2日後かつ会津藩と桑名藩が間髪入れずに長岡城に入城して、同盟加入が決定する。この当たりも河井の政治姿勢主張と矛盾する。

2022-03-01 18:25:11
シービー @MrCB_Harukaze

中立的な立場で新政府と奥羽諸藩の間を取り持つというのであれば、奥羽諸藩と会談を行い何かしらの説得工作を行うのが普通であろうし、そう行動することで新政府にもアピールできるではずある。

2022-03-01 18:25:22
シービー @MrCB_Harukaze

長岡藩が奥羽列藩同盟に加入2日後、5月6日には新発田、村上、村松、三根山、黒川の諸藩も同盟加入を決定する。当然ながら、これは長岡藩の動向が大きな影響を与えたものであろう。結果論かも知れないが、長岡藩は会津桑名が望む行動を行っている。

2022-03-01 18:25:38
シービー @MrCB_Harukaze

石井孝先生は著書『戊辰戦争論』で「従来の説によれば、河井は、中立の立場を厳守していた、とされる。しかし佐々木克氏の説によると、河井の「中立」は、政府と会津藩との間にあって、等距離に位置していたのではなく、むしろ会津側に立っていたのだ、という。

2022-03-01 18:26:26
シービー @MrCB_Harukaze

岩村との交渉決裂後、河井が決然たる抗戦態度に出たことからも、佐々木氏の想像が当たっているように思う」と述べている。(完)

2022-03-01 18:26:31
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.