側室である女性が主君(夫というより主君なんだな)の寝室に侍ったときにすることは主君に額づくことだし、なんなら裸になって寸鉄帯びてないことを証明することだし、主君は側室の手を握るなり緩く抱きしめるなり、何なら押し倒す、でいいんだな
2023-03-13 00:40:16於大の方は家康の母でもあるけど、現状久松の御方様であってやで。母であるというので松平家康家に力はあるけど、そもそも家康父とは離縁してるし…発言力ある、のかな?
2023-03-13 05:38:39あー、酒井忠次の妻・碓井姫が於大の方の母・華陽院(於富の方)の娘で、於大の方とは姉妹だわー。碓井姫は家康祖父・松平清康の娘だし
2023-03-13 05:50:191565年に信長姪が信長の養女となり、武田勝頼に嫁いでる。が、1571年(元亀2年)に信長姪は難産の末亡くなってる。元亀年間に武田と織田の同盟は手切れとなる
2023-03-20 02:11:00信長姪・龍勝院が亡くなった元亀2年の一年後に武田対徳川の三方ヶ原の戦いが起こり、信長は家康に援軍を送ってるけど、龍勝院が亡くなってるのも援軍送りやすい理由かも
2023-03-20 02:16:13武田と織田が同盟し、織田と対決した今川と武田が手切れとなる。当然だわな。が、武田と織田が手切れしたことにより足利義昭主導による信長包囲網に武田が参戦しちゃう
2023-03-20 02:19:14寿桂尼のこと女領主って書いたけど、書きながら「女大名?」「女城主?」て迷ってた。いろいろネット見てみたら「女大名」が適してるみたい
2023-03-20 04:18:46大河「徳川家康」には家康父・松平広忠の継室である真喜姫(田原御前)が登場していて、この人は広忠亡き後元亀二年まで岡崎城に在城してる。真喜姫が松平の大方だったってことだろう
2023-03-22 15:22:44「どうする家康」に真喜姫は登場してないけど、もし真喜姫が出てたら大方として在城している岡崎に久松の御方である於大の方がそうそう顔を出せないわな、と思う
2023-03-22 15:24:50於大の方の異父妹の碓井姫(母は華陽院)がしゃしゃってきても、碓井姫は酒井家に入ってるので、華陽院亡き後は大きな顔は出来ないはず
2023-03-22 15:29:14於大の方は今川方である松平の敵方である織田氏側の水野家から嫁いだから、松平家中では大きな顔は出来ないはず。現段階の「どうする家康」では松平も織田方で真喜姫もいないので、まぁ可能なんだけど
2023-03-22 15:33:32大河「徳川家康」で於大と離縁後の竹千代を育てたのは「松平広忠側室の久」だったけど、実際の於大離縁後に竹千代を養育したのは「松平清康妹の久」だったんだな。一度は結婚したけど出戻った久(しんさう)は松平広忠の後見をしており、広忠死後は松平家の当主代行として差配したらしい
2023-03-24 20:10:15「どうする家康」は横において。西郡局は上之郷城の戦いで負けた鵜殿長照の縁者で、鵜殿氏が家康に服従(同盟)した証として嫁いできた女性じゃないだろうか
2023-03-25 02:43:25結城秀康の母だけど、彼女の実家・永見氏は家康母・於大の方と長く通婚してきた家で、彼女自身於大の方の姪なんだな。おそらく、於大の方にとって築山殿より付き合いやすい妻ってこと
2023-03-26 04:39:37於愛の方(西郷局)は西郷氏や菅沼氏など東三河希望の星★!っぽいけど、西郷清員の妹の旦那が酒井忠次だし、酒井忠次の嫁は於大の方の異父姉の碓井姫だし、於大の方と碓井姫の母・華陽院は菅沼氏に嫁いだことあるし、で於大の方側なんだよな
2023-03-26 04:57:42上ノ郷城の鵜殿氏だけど、西郡局は鵜殿長照の弟の娘(養女)で、鵜殿長照死後その息子たちは今川方につく。で、上ノ郷城には久松俊勝と於大の方の息子(家康の異父弟)・久松勝元(松平康元)が入城した
2023-03-26 05:18:10深溝松平家忠(松平家忠日記の筆者)の母鵜殿長持(長照父・西郡局祖父)で、妻は於大の方の兄弟・水野忠分の娘。鵜殿長照の次男・氏次は築山殿・信康の人質交換に使われ今川方に帰順したが、大名今川滅亡後は深溝松平家忠のもとに着く
2023-03-26 07:10:18上ノ郷城(西郡城)は鵜殿長照死後に久松俊勝(於大の方の夫)のものになっていて、三河より浜松に近い。久松俊勝が上ノ郷城にいたなら於大の方もそこに居たんじゃないだろうか
2023-03-26 09:41:06なお於大の方の兄・水野信元が武田勝頼と内通した嫌疑で、家康は石川数正と平岩親吉に水野信元を殺させた。久松俊勝は怒り西郡城に隠居してしまう。於大の方の気持ちはどうだっただろうか
2023-03-26 09:44:48側室任命権や取り仕切りできるのは築山殿だけど、何分岡崎から浜松は遠い。それだけでなく、姑である於大の方が浜松に近い上ノ郷城にいたのかもしれない
2023-03-26 09:47:10瀬名姫は於大の方より家格は上だけど、於大の方は姑なんだよなぁ。瀬名姫は於大の方にしおらしくしていたかどうか。姑を立てる嫁だったか
2023-03-26 09:50:34永禄五年に上ノ郷鵜殿氏が負け、途中から家康方についていた柏原鵜殿長忠の養女(娘?)西郡局が家康に嫁ぐ。鵜殿長照の子息たちのこともあるし他の鵜殿氏の為でもあるし、一族の期待を背負い西郡局は永禄八年に督姫を生む
2023-03-26 11:12:39永禄三年が桶狭間の戦いで、永禄八年十月に武田義信幽閉死亡、義信妻嶺松院送還(甲駿同盟破棄)。同年十一月武田勝頼織田信長の姪龍勝院と婚姻
2023-03-27 00:54:41北条氏政の妻である黄梅院(武田信玄娘)は最新研究で永禄12年6月に小田原城で亡くなったらしい。黄梅院の死で武田と北条の同盟は消滅かな
2023-03-27 01:16:30今川と北条の同盟は早川殿だけではなく、北条氏康に嫁いだ義元の姉妹(瑞渓院。母は寿桂尼)もいて、瑞渓院の息子北条氏規が今川の人質になったときは寿桂尼が世話したとか
2023-03-27 01:22:13いや…それにしても松平忠房自身、家光~綱吉の時代の人だから、第一次資料にはならんというか。松平忠房が聞いた伝聞の可能性ある >rt
2023-03-28 20:37:52桶狭間以降の元康独立後、竹千代(信康)が今川の人質だったとして、それを取り返したなら、「後顧の憂いなく三河や遠江をぶんどったるぞ!」と家康がなるのは当然なんよ
2023-03-28 20:50:18松平広忠死後の岡崎領を今川義元が接収して竹千代(家康)を駿府に移し、岡崎城に今川配下の武将を城将を置いて直接統治って、竹千代人質より余計状況悪いってことじゃないの…?
2023-03-28 21:33:08電子版だけど、ここらの本から呟いてる(両方とも黒田基樹氏による本) pic.twitter.com/a44UCusYR0
2023-03-28 21:48:16毛利興元が亡くなったあと、興元嫡男・幸松丸(2歳)が当主の座を継ぐけど、後見人は多治比猿掛城の元就(興元同母弟)と幸松丸の母の父・高橋久光がしてたじゃん。高橋久光が戦死してからは多治比元就がしてたじゃん
2023-03-28 21:53:46