海原徹『萩ものがたり 吉田松陰と旅』『吉田松陰』より
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シービー @MrCB_Harukaze

嘉永4年(1851)12月19日、松陰先生は水戸城下に入る。練兵館の斉藤新太郎の紹介で永井政助宅に世話になっている。宮部鼎蔵、江幡五郎とは24日に再会した。翌年1月20日まで水戸の学者の元に通い勉学に励んでいる。1月20日、水戸を出発した三人は陸前浜街道を北上し、28日に白河に着く。

2023-03-26 16:25:38
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南部藩を目指す江幡とはここで分かれ、松陰先生と宮部は会津を目指した。翌29日、二人は会津城下に入る。そして、2月6日まで逗留する。当時評判の高かった会津藩校日新館の制度や教育を知るため、多くの藩士を訪ねていた。日新館教授高津平蔵はその代表であろう。

2023-03-26 16:26:00
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日新館は藩外の者の立ち入りを拒んでいたため、出発の日に、外から広大な敷地、建物、制度、訓練、兵備などを見学している。その後、二人は越後に向かい、松前行きの船便を探すが、冬のため見つけることはできず、日本海沿いを徒歩で弘前を目指す。(このあたりは、僕のmin.tを参照願います)

2023-03-26 16:26:06
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松陰くぐり 嘉永5年(1852年)に吉田松陰が海峡警備の検分に平舘台場へ向かう途中、通ったとされることから、この名で呼ばれています。 ※青森県庁 吉田松陰のたどった上磯の道より引用 pref.aomori.lg.jp/soshiki/kenmin… pic.twitter.com/2LOxZpBMFA

2023-03-26 16:31:24
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松陰先生と宮部鼎蔵は、2月10日に会津を出発し、越後街道で新潟に出た。ここで松前行きの船を探すが冬のため船は出ておらず、しばらく船探しのため滞在した。松陰先生一行は予定を変更して佐渡に渡り、順徳上皇を偲ぶ文を書いたり、佐渡奉行所を訪ねてその地の状況を検分している。

2023-03-29 20:19:12
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金山、春日崎砲台などにも訪問して積極的に情報を集めた。閏2月11日、松陰先生は新潟に戻り、再び松前行きの船を探したが見つからず、やむを得ず日本海沿いを徒歩で北上することにした。

2023-03-29 20:19:53
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閏2月18日、松陰先生は新潟を出発、24日に秋田(久保田)に到着している。これ以降の津軽、南部での記録は他のmin.tを見てもらうことにして、3月に南部藩盛岡城下に入ったところから再開する。

2023-03-29 20:20:39
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嘉永5年(1852)3月11日、日本海側から津軽、南部と現在の青森県地方を訪問してきた松陰先生と宮部鼎蔵の二人は盛岡城下に入った。翌日、盛岡に住んでいた江幡五郎のの家族を訪ねている。そこで五郎の母と会い、亡くなっている兄春庵の墓に詣で詩を贈っている。

2023-04-06 21:44:00
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14日平泉の中尊寺に詣でて18日に仙台城下に入った。松陰先生は多賀城の訪問し、仙台藩の藩校養賢堂を見学している。そこで学頭大槻習斎と会談し、学制、教育課程、軍事調練などを聞いた。

2023-04-06 21:44:26
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ところが3月22日、松陰先生と宮部鼎蔵は偶然江幡五郎に会う。「ここに至りて相逢ふ、抃躍にふるなし」と三人は偶然の再会を大喜びしている。そして3人で白石宿に宿泊し、「酒を酌みて劇談し快愉甚だし」と大いに盛り上がっている。

2023-04-06 21:45:25
シービー @MrCB_Harukaze

そして、南部方面に帰る予定の江幡五郎との別れを惜しみ、松陰先生と宮部鼎蔵は江幡と戸沢でさらに一泊し、浄瑠璃語りを宿に呼び、『仮名手本忠臣蔵』の浄瑠璃の吉良邸討ち入りの場面を演じさせ「相見て忼慨し、涙数行下る」と記している。まだ江幡が仇討ちを果たすと信じていたのであろうか。

2023-04-06 21:45:38
シービー @MrCB_Harukaze

江幡五郎と別れた後、松陰先生と宮部鼎蔵は米沢城下に入った。その後再び会津を経由し、日光に向かう。日光では東照宮を詣でている。鹿沼、栃木を通り、4月3日、松陰先生らは足利学校を訪問、翌4日、館林からは利根川を船で下り、5日午前江戸橋に着いた。前年12月14日以来、140日ぶりの帰還である。

2023-04-17 19:12:14
シービー @MrCB_Harukaze

その後松陰先生はまっすぐ桶町の蒼龍軒塾に向かい、そこで旅装を解いた。そこにたまたま萩藩士の土屋弥之助、恭平兄弟がおり、再会を喜んだが脱藩という藩法を犯した者であり、藩邸には戻らなかった。

2023-04-17 19:12:40
シービー @MrCB_Harukaze

友人達の説得もあって、松陰先生は4月10日に藩邸に自首する。松陰先生は事情も事情であり、軽い処分で済むと考えていたようである。ところが予想に反して帰国という命令が出ることになる。

2023-04-17 19:13:05
シービー @MrCB_Harukaze

嘉永5年(1852)4月18日、松陰先生は護送役人に伴われ江戸を発った。形式上罪人ではあるが、籠に乗せられることはなく、普通の旅姿で役人とも和やかに会話する旅であったという。こうして、松陰先生は5月12日、萩松本村杉家に帰宅する。

2023-04-18 19:16:02
シービー @MrCB_Harukaze

藩の処分は中々決まらず、先生は謹慎の間『日本書紀』『続日本紀』『日本逸史』『続日本後紀』『職官史』『令義解』『三代実録』などの日本史の本を読んで過ごす。そしてこの頃「日本は天皇が外敵を制し、人材を渡洋してきた歴史があるのだ」(『睡余事禄』)と改めて認識した。

2023-04-18 19:16:18
シービー @MrCB_Harukaze

そうする内に、7か月後の12月9日、松陰先生に処分が下る。「御家人召放し」、つまり、藩士としての士籍を剥奪し、家禄を没収という厳しいものであった。また、これは吉田家の断絶も意味した。浪人の身分となった。

2023-04-18 19:17:16
シービー @MrCB_Harukaze

だが長州藩の伝家の宝刀「育」も決まる。要は父杉百合之助の養子(家督は継げない)のようなものである。当人は姓を吉田と名乗り、通称を大次郎から松次郎に改めている。一番通りが良い号の松陰も実は謹慎中から使い始めていた。藩(というより敬親公か)は松陰先生の再起の道を考えていたのであろう。

2023-04-18 19:18:51
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.