吉田松陰を慕い、松陰の師玉木文之進に学んだ「軍神」
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シービー @MrCB_Harukaze

嘉永2年(1849)11月11日、長府藩士乃木十郎希次の第三子として、江戸麻布長府藩邸にて、乃木希典が生まれる。幼名は無人(なきと)生まれたとき、二人の兄が夭折しており、嫡嗣となる。乃木が11歳の時、父が藩主に諫言したため、減禄閉門となり、長府に移住する。

2021-06-21 19:29:32
シービー @MrCB_Harukaze

乃木は文久2年6月20日、長府藩の藩学校である集童場に入学し学ぶ。萩藩では人材育成の気運が高まっており、支藩は優秀な若者を萩本藩に留学させるようになる。長府藩でも乃木無人、井上次郎、滝川申芸の三人を留学させようとしたがなぜか計画が中止となる。

2021-06-21 19:37:07
シービー @MrCB_Harukaze

乃木は、父に萩へ行くことを懇願したが父は許可しなかった。主に家計が苦しい(80石取り)ことが原因と思われる。藩費支給なしの私費留学は難しかったのであろう。それでも乃木は萩留学を諦めきれなかった。

2021-06-21 19:40:21
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)3月、16歳になった乃木文蔵(元服後の名、源三から改名)は家出をして長府から萩へ移動する。乃木をそこまで駆り立てたのは、亡き吉田松陰に対する思いであった。松陰先生は長州藩で神格化され、乃木もまた先生を崇拝し、その教えを学びたいと願った。

2021-06-21 19:44:48
シービー @MrCB_Harukaze

下関長府の乃木神社と東京赤坂の乃木神社 pic.twitter.com/LVmOMh4FpX

2021-06-21 19:51:09
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乃木希典が訪ねたのは萩松本村に住む玉木文之進であった。玉木は松陰の叔父であり、学問の師でもある。玉木は松陰先生に徹底的なスパルタ教育で武士道をたたき込んでいる。11歳で藩主敬親公に講義したとき師匠の名を尋ねられ「玉木文之進であります!」と答えたと言われる。(やはり”あります”なのね)

2021-06-22 21:12:29
シービー @MrCB_Harukaze

松陰先生を非常に慕っていた乃木は、その志や考えを学ぶには先生の師匠に師事するのが一番良いと考えたのでしょう。あと、乃木家と玉木家は親戚関係にあったことも影響していると思われます。乃木家の何代か前に枝分かれし、分家が玉木と名乗ったのが文之進の先祖である。

2021-06-22 21:16:31
シービー @MrCB_Harukaze

乃木希典が家で同然で玉木文之進を訪ねた時、玉木は乃木を叱りとばしたという。乃木は身体が弱いため学問で身を立てたいと入門理由を述べた。これが玉木の逆鱗に触れた。「身体が弱いなら、なぜ鍛えて強進せぬのか!武事で身を立てるのが嫌なら百姓になれ!」と甘い考えを激しく非難した。

2021-06-22 21:20:47
シービー @MrCB_Harukaze

言い訳をしようとした乃木希典に玉木文之進は「莫迦!御前のようなものには、これ以上に浪も申聞ける必要がない。帰りおれ!我侭者が」と大喝した。乃木は長府に帰ろうとしたが、玉木の妻辰子に引き留められその夜は玉木家に泊まった。相変わらずの玉木先生である・・・

2021-06-22 21:24:54
シービー @MrCB_Harukaze

乃木希典の悪評は、ほぼ司馬遼太郎先生の小説からと考えて良いのでしょうかね。一説には、司馬先生は長州藩が嫌いというお話しもありますが・・・

2021-06-22 21:37:23
シービー @MrCB_Harukaze

@minato_i_ ご教示ありがとうございます!結構前から悪評はあったのですね。気はまっすぐで、悪い人ではないように思えるのですが。

2021-06-22 21:42:53
シービー @MrCB_Harukaze

乃木希典は、玉木文之進の妻辰子の取りなしで、「百姓」として玉木家で朝から晩まで働くことになる。玉木は乃木を厳しく指導し、田の草取り、草刈り、施肥までやらせる。夜は米つきをさせ、その後は辰子から書物を読む指導を受けることもあった。市ぃの夫人龍子さん同様、たつこさんは賢妻です。

2021-06-25 22:03:31
シービー @MrCB_Harukaze

乃木希典が萩の玉木家で10か月ほど続いた年末の頃、乃木は玉木に呼ばれた。玉木は乃木に正月を祝うため帰省せよという。玉木の妻辰子は乃木の父が預けたというという学資の余りが入った封筒を乃木に手渡した。乃木は、父母の思いを知り、涙を落としたという。

2021-06-25 22:07:42
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年(1865)の正月を故郷の長府で過ごした乃木希典は、再び萩の玉木家に戻る。今回は両親の許可をもらっての晴れて堂々の留学である。玉木文之進も農作業だけでなく経書や歴史も教えた。さらに、松陰先生の遺著、水戸学の諸書を写して学んだ。玉木は、乃木に松陰先生の面影を見ていたのかもしれない

2021-06-25 22:12:24
シービー @MrCB_Harukaze

玉木文之進は、乃木希典に『士規七則』を与える。これは、松陰先生が玉木の長男彦助の元服にあたり武士の心得を記したものである。「凡生まれて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし」「君臣父子を最も大なりと為す。故に人の人たる所以は忠孝を本と為す」など書かれている。

2021-06-25 22:18:00
シービー @MrCB_Harukaze

乃木希典は、『士規七則』を肌身離さず大切に所持していたが、西南戦争で失くしてしまったという。(いや、軍旗より大切なものだったのでは・・・)なお、長府の乃木の父は、山鹿素行『中朝事実』吉田松陰『武教全書』を書写して送り届けてくれたという。乃木は、一層学問に励んだ。

2021-06-25 22:22:53
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久しぶりの赤坂乃木神社。16時過ぎていたので、旧邸には入れませんでした。 pic.twitter.com/jqP6M7w2rp

2021-06-25 22:27:02
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下関長府乃木神社の夫婦像他 pic.twitter.com/0vWpqbaW71

2021-06-25 22:43:54
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慶応元年(1865)9月、乃木希典は萩藩校の明倫館の入学を許可された。当時明倫館には兵学寮と文学寮があったが、乃木は文学寮を選択する。学問に対する思いが強かったのであろう。維新後、乃木は流麗な戦況報告書を書いている。本来は、武よりも文の人だったのかも知れない。

2021-06-26 18:52:31
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、文武両道を志すのか、乃木は11月から来栖又助に入門し、一刀流の剣を学んでいる。修行の甲斐があり明治元年(1868)1月には一刀流の目録を授けられている。乃木希典が玉木文之進のもとで学ぶ元治元年(1864)から明倫館で学ぶ慶応元年(1865)は、長州藩にとって「存亡危急の秋」であった。

2021-06-26 18:58:23
シービー @MrCB_Harukaze

四ヵ国連合艦隊との下関戦争、俗論派の台頭、晋作坊ちゃんの功山寺挙兵、内訌戦、長州征伐・・・ 幸か不幸か、乃木希典はこれらに大きく関わることはなく、文武の修行に専心していた。しかし、慶応元年(1865)1月21日、玉木文之進の長男玉木彦助(御盾隊斥候役)が内訌戦で25歳の短い命を散らす。

2021-06-26 19:03:10
シービー @MrCB_Harukaze

嫡子を失った玉木文之進は、乃木希典の弟真人を養子として迎えたいと希望する。これは乃木の人間性を信頼していた玉木がその家系に信頼を寄せていたからと言われる。こうして玉木家で乃木希典と真人の兄弟は同居し、共に学ぶことになる。

2021-06-26 19:08:40
シービー @MrCB_Harukaze

乃木真人は、明治9年10月、「萩の乱」に参加し、戦死する。さらに、玉木文之進も責任を取り、先祖の墓前で自決した。その間、乃木希典は学ぶことが困難になったと思ったのか、慶応2年4月願い出て長府に帰った。玉木も賛同したとという。

2021-06-27 18:46:54
シービー @MrCB_Harukaze

乃木希典は、四境戦争で小倉口で晋作坊ちゃんの指揮下で報国隊士として戦っている。戦後、乃木は萩に帰り学問を続けるように沙汰が下る。再び明倫館の文学寮に復帰する。明治元年(1868)乃木は明倫館を退学する。こうして乃木希典の萩留学は終わった。

2021-06-27 18:51:56
シービー @MrCB_Harukaze

時は流れて、明治12年、乃木希典の弟集作が松下村塾に遊学することになる。その際、乃木は「家弟松下村塾に在るに寄す」と漢詩を寄せている。亡き松陰先生と玉木文之進のことを追懐している。(完)(以上、一坂太郎『萩と日露戦争』より)

2021-06-27 18:57:07
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.