幕末~明治の上層農民・鈴木藤助の日記について 自己ツイートまとめ
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歳月堂 @saigetudo

RT> 早田旅人氏(平塚市博物館)「相模神職の戊辰戦争―六所神社鍵取役出縄主水の「勤王日記」から」が、戊辰の変革に積極的に関わった例。そして小林紀子氏(横浜市歴史博物館)「江戸近郊農村の戊辰戦争―武蔵国橘樹郡長生村「鈴木藤助日記」から―」が、変革より現状維持を重視した例ですね。 twitter.com/saigetudo/stat…

2017-09-15 06:44:12
歳月堂 @saigetudo

相武地域史研究会の10月開催シンポジウム、2件の報告が予定されているそうです。戊辰期、自らの社会的地位を変えようと積極的に行動した草莽の人と、変化を望まず日常を粛々と維持していった上層農民の人。対照的な立場の人物が見聞・体験した変革期を例に挙げる、と聞きました。

2017-09-05 06:46:19
歳月堂 @saigetudo

相武地域史研究会第3回シンポジウム、小林紀子氏が取り上げる「鈴木藤助日記」も貴重で興味深い史料です。戊辰期は、村に新政府軍から人馬・米・金の供出を命じられ、彰義隊や仁義隊から献金要求され、対応に苦慮。近所で彰義隊のニセモノが人足たちに殺されるなど、物騒な事件も記録されています。

2017-10-14 06:25:41
歳月堂 @saigetudo

朝日記事「戊辰戦争(下)」諸隊から献金要求されたり殺伐とした事件が起きたりの中で、原史料を記した鈴木藤助は、ふだんの家業を粛々と進めてもいます。社会がどのように変わろうと日常をいつもと同じように維持していこうとする姿に、志士たちとはまた別の、人間の強さを感じます。

2018-04-20 05:41:56
歳月堂 @saigetudo

動画で見る 鈴木藤助コレクション展「藤助さんと幕末」 かなチャンTV(神奈川県公式) > 神奈川県立歴史博物館ではコレクション展「藤助さんと幕末」を2024年2月17日から3月24日の間開催します。 藤助さんとは何者なのか?動画で分かりやすく解説します。 youtube.com/watch?v=PC5Y8S…

2024-02-17 08:28:15
歳月堂 @saigetudo

激動の時代の記録、克明に 幕末から37年間、農民の日記 県立歴史博物館企画展 / 神奈川 | 毎日新聞 mainichi.jp/articles/20240… 「藤助さんと幕末」武蔵国橘樹郡長尾村(現在の川崎市多摩、宮前区)でしょうゆ醸造業なども営み、村の役人も務めていた鈴木藤助(※有料記事)

2024-03-05 18:46:20
歳月堂 @saigetudo

神奈川県立歴史博物館のコレクション展「藤助さんと幕末」、今月24日(日)まで開催中。歴史的大事件もさることながら、武州上層農民の暮らしや価値観が窺えるという意味でも貴重な史料です。大まかな展示構成をご紹介⬇️ pic.twitter.com/Fh285b7Pgb

2024-03-08 23:27:56
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歳月堂 @saigetudo

鈴木藤助の日記は、ご子孫が大切に保管されていましたが、後世に末長く伝えるため公的研究機関に託したいとのご意向により令和2年度、神奈川県立歴史博物館に寄贈されました。虫損や劣化を修復(漉きはめ)し、冊子を解いた状態で撮影。今回のコレクション展は作業を完了したお披露目だそうです。 pic.twitter.com/cIVIMt2W30

2024-03-08 23:27:57
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歳月堂 @saigetudo

寄贈先の候補としては川崎市市民ミュージアムも挙がっていた様子ですが、2019年10月に同館収蔵庫の浸水被害が発生しました。図らずも被災資料の仲間入りを免れた形でしょうか💧

2024-03-08 23:27:57
歳月堂 @saigetudo

神奈川県立歴史博物館 コレクション展 「藤助さんと幕末」 解説動画 全4編を公開中⬇️ ch.kanagawa-museum.jp/exhibition/9272 🟢 鈴木藤助 🟣 現在の長尾村 🟠 暦と日記のルール 🔴 藤助さんと食べ物 pic.twitter.com/4JkFLGZupY

2024-03-13 19:25:20
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歳月堂 @saigetudo

【幕臣・堤徳三郎】は、鈴木藤助の姉妹ますの夫。江戸城本丸御広敷添番を務め、百俵取り(文久2年時)。住居は麻布の笄橋付近。万延元年10月に和宮降嫁の勅許が下りると、同年11月に出迎え役の一員として京都へ向かう。その後、約1年を京都で過ごしたと思われる。 #藤助さんと幕末 pic.twitter.com/SqWomGleiB

2024-03-14 19:59:33
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歳月堂 @saigetudo

文久元年10月、降嫁行列に供奉して京都を出発、11月に江戸へ戻る。当時出版された摺り物『内親王和宮様絲毛御車』では「和宮様御広敷添役」20名の2番目に徳三郎の名が挙がる。戊辰戦争勃発直後も静寛院宮の御用を務めていた模様。明治初年に駿府へ移住、後に東京で暮らしたようだが、詳細不明。 pic.twitter.com/ACqVHLdZXl

2024-03-14 19:59:34
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歳月堂 @saigetudo

【日野宿・綿屋重蔵】は、長尾村から養子に入った人物であり、鈴木藤助の又甥(※推測)にあたる。堤徳三郎の京都行きに従者として同行。綿屋の養子となってから、日野農兵隊の一員として取り立てられ、天然理心流に入門もした。日野名主・佐藤彦五郎と親しかった様子(※県博展示では触れていません) pic.twitter.com/ue2gvsaz1A

2024-03-18 19:52:05
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歳月堂 @saigetudo

重蔵の子が誕生した時、佐藤彦五郎は祝詞のため長尾村の実家を訪問、一泊している。また慶応4年1月、日野宿で後装式銃20丁を購入する際、重蔵が横浜へ出向いて取引した。この時、長尾村が懇意にする「調役方」に便宜を図ってもらった様子が、彦五郎の日記から窺える pic.twitter.com/SHwrtgcr3L

2024-03-18 19:52:05
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歳月堂 @saigetudo

堤徳三郎の京都行きについてはこちら⬇️ twitter.com/saigetudo/stat…

2024-03-18 19:56:10
歳月堂 @saigetudo

【石田散薬】の販売先は、鈴木藤助が住まう長尾村にも2軒あった。 🟢鈴木庄蔵…通称「向店」、藤助の親戚。藤助家の向かいに居住し、共同して商売を営んだ。反物や荒物などを扱う。 🟢井田勘左衛門…谷長尾(長尾村南部)の名主。藤助も日頃から頻繁に行き来していた。 pic.twitter.com/LT0cPTGsxI

2024-03-21 20:13:11
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歳月堂 @saigetudo

🟢小山田村(町田市)の若林三右衛門も【石田散薬】を仕入れていた。鈴木藤助の娘おことの嫁ぎ先。荒物、呉服、反物などを商う。小野路村の小島家とも種々の交流があった。…意外なところで繋がる上層農民の姻戚関係、そして【石田散薬】の販売網、改めて凄いと思います

2024-03-22 23:18:56
歳月堂 @saigetudo

神奈川県立歴史博物館のコレクション展「藤助さんと幕末」昨日で終幕。名残惜しいので鈴木藤助の日記から関連投稿いきまーす➡️ pic.twitter.com/Yvbdmme2kY

2024-03-25 22:35:19
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歳月堂 @saigetudo

➡️慶応3年12月25日の江戸薩摩藩邸焼討事件、鈴木藤助は当日に情報をキャッチ「江戸表ニて酒井様サツマ様之屋敷不残焼払被成候由大そう動ニ御座候」村々は多摩川沿いの監視を命じられた様子で、長男・留五郎らが詰め所にいく。また、江戸へ赴く者は瀬田で止められ、やむなく引き返してきたという。

2024-03-25 22:35:19
歳月堂 @saigetudo

この時期の治安悪化は、鈴木藤助の身近でも差し迫っていた模様。11/19に溝ノ口で盗賊対策の寄合、留五郎が出席。12/16にも寄合、対策として渡船場などに見張所を置くよう関東取締出役から命じられるも「それ効果ある?」と疑問視する人々、代表して名主が免除嘆願にいくことに。…八州様も手一杯なの😕

2024-03-26 22:46:07
歳月堂 @saigetudo

【鈴木藤助日記】慶応4年閏4月~5月、彰義隊ほか旧幕諸隊から長尾村にも献金要求が相次ぐ。県博展示より多少詳しくまとめ⬇️(※これでもまだ端折ってます) 3月に新政府軍の東海道通行で出費がかさみ、やっと収まったと思ったら……庶民にとってはどちらも迷惑千万😟 pic.twitter.com/H16dYujBGz

2024-04-02 19:31:50
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歳月堂 @saigetudo

野々村大次郎(大四郎・代次郎・代治郎など表記ゆれ)は、彰義隊に合流した旧幕砲兵隊(猶興隊)の指揮官と伝わる人物。藤助や長尾村と以前から縁故があったわけではなく、東海道を外れた(新政府軍の目が届きにくい)村々を巡り、裕福な百姓を標的に軍資金調達していた様子が窺える🙄

2024-04-02 19:31:51
歳月堂 @saigetudo

#桜田門外の変 鈴木藤助日記における初報は安政7年(3/18万延に改元)3月6日。その後3/8、3/11、3/12、3/19、3/28、4/26にも関連事項あり。「井伊公が亡くなった」という明記はないものの、皆薄々気づいている様子が原文の端々から窺えます🤫 pic.twitter.com/VcxQWdvnLd

2024-04-10 19:59:21
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歳月堂 @saigetudo

3/11の記述では、国元から下ってきた彦根藩士たちが今にも弔い合戦を始めるのでは…と警戒感を強めている雰囲気。藤助がこれほど気にかけているのは、多摩川の対岸すぐに井伊家の世田谷領があり、情報が入りやすかったためでもあるようです🫨

2024-04-10 19:59:21
歳月堂 @saigetudo

#桜田門外の変 鈴木藤助日記より「三月三日聞取写」をざっくりまとめ。昨日の投稿の続き、3月8日条にある事件詳報です。人名表記に多少の誤字がありますが原文のままにしました⬇️ pic.twitter.com/9Qnuouzfip

2024-04-11 20:19:38
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歳月堂 @saigetudo

鈴木藤助はこれを「溝ノ口の名主から届いた」と記しています。ということは、事件詳報はすでに庶民にも広く知れ渡っていたのでしょう。また、掃部頭様の生死については「無事」とも「死亡」とも「どちらか不明」とさえも書かれていない。つまり真相は口コミで伝わっていたと推測されます🤔

2024-04-11 23:05:37
歳月堂 @saigetudo

桜田門外の変×鈴木藤助日記 第3弾! 万延元年3月19日条より「大名方へ相廻り対廻状之覚」のざっくりまとめ。前半が幕府の通達、後半が井伊家より「掃部頭」名義で幕府へ提出した報告でしょう。藤助の情報入手元は明記されていませんが、日記の前後関係から江戸在住の親戚か知人と思われます🤨 pic.twitter.com/PLlsV1hxho

2024-04-15 19:55:19
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歳月堂 @saigetudo

掃部頭様が奮戦の末に襲撃犯を撃退、首をとられたのは家臣・服部……なんとも強引な取り繕い作戦(※月番老中・内藤紀伊守と彦根藩江戸家老・岡本半介とが図って作成した文面とか) なお〔別紙〕で「即死」が2グループ、「手疵」が4グループに分かれている理由は不明です🙄 pic.twitter.com/OwtNgPnARU

2024-04-15 19:55:20
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歳月堂 @saigetudo

桜田門外の変×鈴木藤助日記 第4弾! 万延元年3月28日条「井伊様御事之写」のざっくり意訳。入手元はおそらく親戚・知人筋。原文は何ともわかりにくいものの「(老中あたりの偉い人が将軍の意向を伝えつつ)井伊の家臣に暴挙を慎むよう釘を刺したそうだ」と読み取れます🤔 pic.twitter.com/z6lFhPqr37

2024-04-17 20:00:51
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歳月堂 @saigetudo

また、この書面写しに続けて狂歌(たぶんどこかで見かけた落書)が書き留められています🔽 曰く「雪なかで井伊かもだと首をねじたいろの元へあける塩切」… 「かも」は掃部×鴨でしょうが、「たいろ」は大老×退路or大炉?「塩切」は和船の水押か、それとも塩切り麹???…うーんわからん😵‍💫

2024-04-17 20:00:52
歳月堂 @saigetudo

桜田門外の変×鈴木藤助日記 第5弾! 県博『藤助さんと幕末』では近江八景のパロディ「掃部の運之尽」が展示されていました。あれは藤助の自作ではなく、久本村の岡氏(医者)が作ったものと記されています。藤助は自ら茶化さないまでも、幕府の事後処理にモヤッとして書き留めたのでしょうか🤨 pic.twitter.com/xzHbjVMOdl

2024-04-22 20:14:06
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歳月堂 @saigetudo

当時このような風刺(狂歌、戯れ句、落とし咄、ちょぼくれ、『絵本太功記』や歌舞伎のパロディなど)が巷間に溢れ返りました。医者の岡氏は、無許可で自宅に薬医門を建て、お叱りを受けても取り壊さなかった、という伝説の豪傑。だからこそ、こんなおふざけにも進んで参加したのかもしれません🤭

2024-04-22 20:14:06
歳月堂 @saigetudo

神木山等覚院、鈴木藤助の日記にも頻繁に登場する天台宗の古刹です。今がツツジの真っ盛り。生憎の天候にもかかわらず多くの参詣者が訪れていました。境内の稲荷堂には鈴木家から遷座された稲荷尊が祀られています⛩️ pic.twitter.com/hFp2TflK6v

2024-04-23 20:15:54
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長尾山妙楽寺。鈴木藤助の日記に登場、鈴木家の菩提寺でもある天台宗の古刹。鎌倉殿の弟・阿野全成が院主を務めた威光寺の後身と推定されています。通称「あじさい寺」。さすがにアジサイ観賞には早過ぎるも色とりどりのボタンがきれいでした🩷 twitter.com/saigetudo/stat… pic.twitter.com/1rxQTKlXZP

2024-04-26 20:12:07
歳月堂 @saigetudo

【妙楽寺】源頼朝が阿野全成を院主として派遣した威光寺は、源家累代の祈祷所であったが、室町時代より後に衰亡した模様。その威光寺の遺物を伝えており旧跡と推測されるのが妙楽寺(川崎市多摩区長尾3丁目)。現在「あじさい寺」として親しまれている。稲毛三郎重成の枡形城跡とは徒歩30~40分ほど。 pic.twitter.com/gWdebA5HGZ

2022-06-26 19:06:51
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歳月堂 @saigetudo

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