高杉晋作は息子を残している。晋作の長男東一(梅之進、春雄)は、偉大な父を持つが故、紆余曲折の人生を送っている。
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シービー @MrCB_Harukaze

元治元年(1864)10月5日。長州藩政務座役兼石州口軍政掛高杉晋作に長男梅之進が産まれる。

2020-10-04 22:22:41
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんの長男梅之進(東一)は紆余曲折の人生を送る。谷家を継いだ梅之進は明治四年に学業のため桂さんに連れられ上京する。岩国使節団随行のため河瀬真孝(石川小五郎)に預けられるが、明治六年に帰国した桂さんに河瀬は山口に送り返したい旨を進言し送り返す。勉学が得意ではなかったようだ

2020-10-04 22:39:37
シービー @MrCB_Harukaze

明治六年、山口に帰った梅之進は明治九年春雄と名を改める。13歳。祖父丹治(小忠太)は再び東京で学問させたいと桂さんに何度も手紙を送る。しかし、桂さんの返事は芳しくなく、むやみに勉学をせかしてはいけない、という手紙を返している。そのようなやり取りの中、桂さんは明治十年病没する。

2020-10-05 20:44:02
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんが病没し、春雄(梅之進)の上京が危ぶまれたが、丹治(小忠太)は、谷・高杉家を挙げて上京することを決めた。同年谷・高杉家は上京し、春雄は商法講習所(現:一橋大学)で学ぶ。

2020-10-07 19:23:57
シービー @MrCB_Harukaze

上京後、丹治(小忠太)は、春雄(梅之進)の海外留学を考えるようになった。丹治は伊藤博文に協力を依頼する。費用は公爵毛利家から出してもらえるよう頼んでいる。さらに、海外留学は亡き晋作の夢でもあったからと申し添える。さすがに博文は承諾し、明治15年ヨーロッパ巡回へ春雄を連れていく。

2020-10-08 21:01:49
シービー @MrCB_Harukaze

丹治の懸命な周旋で、伊藤博文と一緒に欧州巡回に出発した春雄(梅之進)であったが、オーストリアあたりでしきりに日本に帰りたがった。伊藤もしかたなく平田東助の帰国に合わせて帰している。最初の上京しての勉学修行同様、海外留学も途中でリタイアしたのである。

2020-10-09 21:17:42
シービー @MrCB_Harukaze

欧州巡回から途中で帰国した春雄(梅之進)は、明治二十年に名を東一に改めると共に、姓を谷から高杉に変える。同時に未亡人雅子も高杉姓を名のる。ただし、東一の高杉姓は分家の扱いである。なお、谷姓は藩主から頂いたものでありむげにはできず、東行庵庵主梅処(^_^)(おうの)が継いだ。

2020-10-10 22:27:08
シービー @MrCB_Harukaze

高杉東一は明治二十一年、二十五歳のときに『英和新国民大辞書』を出版した。しかし、昭和十四年豊田実『日本英学史』によるとこの辞書は明治六年に出版された『附音挿図英和字萎』の海賊版のようである。二冊の辞書を比べると和訳部分がほとんど同じである。

2020-10-12 17:38:49
シービー @MrCB_Harukaze

東一の出世を生きがいとした丹治は、辞書出版の二年後に亡くなっている。出版の真相を知っていたかは定かでない。東一は、高杉晋作の息子という過剰な期待をかけられ、応えようとして背伸びしすぎたのではないか。大正二年(1913)7月11日に没する。(以上ここまで、一坂太郎『高杉晋作の29年』より)

2020-10-12 17:44:20
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.