卑弥呼の時代の邪馬台国がどこにあるかと言う問いはナンセンスだろう。 邪馬台国論争は所詮おらが村と言う話に過ぎない。 少なくとも卑弥呼の時代は既に伊勢を境として西日本全体を統治していたようである。
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叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

日本の所謂戦争犯罪に関する史料が10万ページにも及ぶって事か。 その中にその当該する関東防疫給水部の史料があるという事か。 さて、英文。 これ、読める人いるのか? PDFとして読めるようだが。 archives.gov/iwg/japanese-w…

2017-08-14 17:10:30
リンク National Archives Japanese War Crimes 100,000 Pages Declassified in Japanese War Crimes Records, Press Release, January 12, 2007 Resources for Researchers Researching Japanese War Crimes: Introductory Essays (2.5 MB) 12
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

これは魏志倭人伝(三國志)に出て来る日本の事(当時は倭国)について書かれた史料を探るようなものだぞ。 今の学校教育って深く掘り下げた結果というざっくりしたことしかやらんから教科書に載っていることが即事実みたいな錯覚を起こすんだけど。

2017-08-14 17:19:28
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

前にも書いたかも知れんが、70年以上邪馬台国の場所を探ろうとして厖大な時間と労力と金が果てしなく注ぎ込まれても大した発見には至っていないからこれ以上の穿鑿が無意味になって来ているんだよね。

2017-08-14 17:40:47
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

邪馬台国と類推される場所の北九州で発見!そしたら近畿でも発見!そしたら今度は山陰で発見!てどんどん発見されるからますます分からなくなって来ている。 結局、邪馬台国があった時代には既に西日本は近畿も含めた文化がある程度統一された組織や共同体が幾つも存在していた事他ならない。

2017-08-14 17:45:38
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

漢字で書かれた名前が実は当時の上古音で読めたのでは?とする考え方が出て来てそれで読もうとする行いもなされたけど、当時の日本人って各地域に同じような地名が今でも残っていることから場所の類推には至っていない訳だし。 大島には伊豆の南の沖にも奄美にもあるし、そういうことなんだよね。

2017-08-14 17:51:06
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

三國志が書かれたのは魏の時代よりも後の晋の陳寿に依って編纂されたものだし、編纂された時代の297年よりも59年前の238年に曹叡から卑弥呼が親魏倭王の金印を受け取った訳だし、かなり時が経っている。 倭国の存在を知ったのは朝鮮半島北部の燕の公孫に伝えるところからだし。

2017-08-14 18:16:50
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

倭国自体、東夷の中にある一部族だという事が実しやかに知られ始めたのも、漢の時代よりも王莽が一回だけ建てた国の新を挟んだ後の漢に依って書かれた漢書に出てくる訳だし、これもまた数百年前の出来事を編纂したものだし、それ以上探れない訳なんだよね。 文書を裏付ける為の遺物しか頼りない訳で。

2017-08-14 18:29:12
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

関東防疫給水部もアメリカが纏めた史料が全てであって、それ以上もそれ以下もないんだよね。 仮令「Human experimentation」と公文書に書かれたとしても後はどれだけ酷いかそれを裏付けさせるかそれを補強させる「モノ」を引っ張るかに躍起になるだけだよね。

2017-08-14 19:00:55
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

熊襲隼人も蝦夷も所謂ヤマト王権時代の親戚かなんかじゃねーの? 記紀万葉が出来る以前にはもう既に各地域の豪族達は姻戚関係になっていたようだし。

2019-05-07 15:36:16
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

これはどうやらかなり早い猛スピード的に統合されていったようなんだな。 倭の五王時代には僅かだが100年足らずで既に日本全国が統合されて行ったと見て良い。 卑弥呼時代でさえもである。

2019-05-07 15:43:39
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

困ったことに邪馬台国北九州説とは言いつつも、吉野ヶ里遺蹟という巨大な遺構が出て来てこれだと言われても同時代のものとも呼ばれる青銅器が畿内や山陰にわんさか出て来ちゃって本当の邪馬台国ってどこだろうってことになっちゃったんだよなあ。

2019-05-07 15:46:25
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

呼ばれる、じゃなくて思われる、ね。 多分掘ってもこれだと言う決定的証拠になりゃせんとも思うんだよね。 魏志倭人伝の頃の倭国って関東の方にまで及んでいたのではと思われていたらしいし。

2019-05-07 15:48:14
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

日本書紀が三國志を参考にして作られたということもあるし。 魏志倭人伝とは三國志魏書東夷伝倭人條な訳だし。 twitter.com/goshuinchou/st…

2019-11-29 01:42:45
幣束 @goshuinchou

卑弥呼に関して俺がすげえって思うのは日本書紀の神功皇后巻の注釈に「魏書によれば倭の女王が遣いを送ったとある」的な事が書いてあって微妙に卑弥呼が神功皇后かもねって事を匂わせてて、書紀編纂者は中国の史書もきっちり資料として持ってて当時の東アジアの歴史文化神話を把握して書いているって事

2019-11-27 22:57:35
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

しかし、よく見ればであるが既に神功皇后の話が日本書紀編纂の時には伝承であったということなのである。 それまであった伝承を纏め上げたのが「日本書紀」。 「一曰(あるふみにいわく)」ばかりで読みづらいんだよなあ非常に。

2019-11-29 01:46:25
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

編纂時から凡そ500年前なんだよな卑弥呼って。 神功皇后も卑弥呼も当然別人なんだけど、そもそも神功皇后自体が天皇のいない時代の皇后なのでこの時即位してるかどうかは分かっていない。 遠征から戻ったら応神天皇を産んだらしい。 応神天皇は胎中天皇とも呼ばれている。

2019-11-29 01:53:40
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

応神天皇こそ、あの倭の五王の讃と言われている。 応神天皇の和名は「ほんだわけ」とあって誉田と書く。 讃は誉め讃えるという意味だけど実在が疑われている。 疑われている理由って、継体天皇の祖先ということらしい。 継体天皇も婿入りだったけど天皇になれたんだよな。

2019-11-29 02:08:30
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

神功皇后は天皇にはなれなかった。 手白香皇女も天皇になれなかった。 この頃は怪しいけど男系男子ばかりだったけど、それ以降は女帝も女系も沢山出てくる。 本当は女帝も女系も当然だった筈なんだろうけど、歴史を編纂するというのは本田透が言うように「黒歴史を消す作業」と言われているらしい。

2019-11-29 02:28:01
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

そもそも継体天皇が皇統とは無関係な人であろうがなかろうが、まだまだ倭国は統一国家でなくて各勢力がまだ残存していたということなんじゃないのかと思われる。 応神天皇以来の手白香皇女までに至る河内王朝って親戚同士の血が濃くて尻すぼみになってしまったというハプスブルク家的な典型だよな。

2019-11-29 02:31:15
NHKニュース @nhk_news

邪馬台国の女王、卑弥呼の墓という説もあるものの、内部の構造が全くわかっていなかった奈良県桜井市の箸墓古墳で、宇宙から降り注ぐ素粒子を使って内部を透視する調査が行われています。 www3.nhk.or.jp/news/html/2020… #nhk_news pic.twitter.com/40zBtCptRq

2020-01-09 18:24:41
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

これ、結局意味はないんだよ。 卑弥呼を証明しようにも出来る訳がない。 あの「倭人条」からどうやって本人だと証明出来ようか? 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓という説もあるものの、内部の構造が全くわかっていなかった奈良県桜井市の箸墓古墳で、宇宙から降り… www3.nhk.or.jp/news/html/2020…

2020-01-10 15:30:12
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

卑弥呼に関する記述の一部。 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與 卑弥呼の殉葬者が100人以上いるってことだからこの人達の骨でも見つかればドンピシャだけどね。

2020-01-10 15:44:24
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

ただ、こう言った殉葬の例は沢山あったようで、この代わりに埴輪とかが用いられるようになった訳。 100人以上いても卑弥呼とは限らない訳だから結局卑弥呼を証明するものでもない。

2020-01-10 15:44:28
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

年代的にはぴったりなのだろうけど、倭国の範囲が三国志の時代では既に西日本を覆っていたことになる。 その後の倭の五王辺りで関東を制圧するに至るんだけど。 (武王、大泊瀬幼武尊の時代には既に両毛のある関東を支配し終えていた) twitter.com/nhk_news/statu…

2020-01-10 15:49:51
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

FGOの卑弥呼、世界観が全部小中学校で習う歴史の教科書しかないのが悲しい😢 他のソシャゲだと大体神話の人物を匂わすキャラだったりするのに、日本書紀を使えない大人の事情でもあるのだろう。 ギルガメシュだって殆どが伝承の人物だから石板以上の情報だってないはずだが…。 #FGO

2020-10-10 07:30:16
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

オデュッセウスもトロイア戦争が実在した(らしい)というだけでオデュッセウスの漂流記自体が荒唐無稽(そもそも神話)だし、かくもそこまで日本書紀を避けるのだろうか…? 神功皇后(お札にもなった)とか御誂え向きだとは思うけどね。 まあ征伐先がアレだから出来ないのだろうけど。 #FGO

2020-10-10 07:30:17
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

誰しもが予想できるだろうけど、対外的に武勲を上げた英雄は“この国”では無理なのだろうきっと。 後は今のロイヤルに繋がる系譜も無理っぽい。 #FGO

2020-10-10 07:30:17
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

日本書紀も作成に当たり三国志を手本にしている訳だから、どっかで邪馬台国の卑弥呼の部分を見て性格がはっきりした最古の倭人らしいからということで、古くから伝わっている太陽の女神と重ね合わせて作ったのだと思うよ。 #FGO

2020-10-10 08:04:59
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

まあね、姫という名前自体も「日女(ひめ)」から来ている訳で、これも正統な継承を経た王様の娘の意味なんだろうけどさ。 彦も勿論「日子(ひこ)」から来ている訳で、太陽の子供とかって意味なのだろう。 でも既に姫も彦も各地でその名前でいっぱい。 何故だろうね。 ツァーリみたいなものか。

2020-10-10 19:25:19
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

ツァーリもただ一人だった筈なのに各地でツァーリを名乗る(またはそう呼ばれる)人が多かった理由に近いよなあ。 ツァーリも元々ビザンチンの王様の称号だったのにモスクワの王様が名乗り、そしてモンゴル(タタル)の王様までも名乗るようになってしまった。

2020-10-10 19:30:18
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

結局イワンがシメオンから禅譲される形で漸くツァーリが統一の方向へ向かうのだけど。 卑弥呼が初登場するまで既に姫(日女)や彦(日子)の名前が付いた天降った太陽王の末裔が九州のみならず大和(奈良)の方までいっぱいいた訳だ。 そりゃそうで歴史ってのは物事を整理するための物だからな。

2020-10-10 19:38:31
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

時代を経ると今度は称号が「公(きみ)」になってくる。 「きみ」から「わけ(別)」られた王様が増えて彼らが各地へと散らばっていく。 でも段々と「きみ」だらけになってその「きみ」を一纏めにする「大君(おおきみ)」が登場してくる。 で「大王」が統ぶる王として天皇となる。

2020-10-10 19:54:24
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

我が国では王様とは親王(王子)のことで天皇よりかは下として見られる。 イギリスでも王族がウェールズの領主を名乗るようなものだろう。 各地の小王国を統合して姻戚関係を結んで生まれて来る子供に王を名乗らせるという慣習を続けさせた結果なのだろう。

2020-10-10 20:00:06
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

まだまだ邪馬台国の時代からは伊勢までが倭国の限界だったのだろう。 近江(淡い海)とは琵琶湖のことだし。 北陸となると「倭国を越す」から越の国となる。 中部以東は「蝦夷」であり、毛人の勢力が中部や関東(東日本)を制圧していた。 分かり易いのが関東を東(吾妻)って呼んだことだよね。

2020-10-10 20:05:54
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

恐らくだけど日本武尊が東国遠征した時の現地妻を貰ったことに因むのはわりとマジじゃないかと思う。 征服地での政略結婚はよくあることで、墨田区には立花という地名もあり、吾妻も吾嬬も墨田区のみならず群馬にまであったりする。 江戸は昔入り江で埼玉まで伸びていたからな。 上流は直ぐに両毛だ。

2020-10-10 20:20:21
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

テレビで山武市の読み方がやってたけど、山武は今でこそ「さんむ」と呼んでいたが合併前は山武郡や山武町(さんぶ)と呼ばれていて、武社国造や武射神社にまで行き着くという。 山武郡は山辺郡(やまべ)と武射郡(むさ)が合併して出来た郡という。 面白いな、千葉県だけど武州の由来にも似てるとは。

2020-10-30 01:44:57
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

武州とは武蔵国。 武蔵野という平原も存在する。 武蔵(むさし)の語源はよく分かってないという。 武蔵国は元々、无邪志と知知夫(秩父)に分かれていたという。 位置関係からして信濃から両毛に入る前に秩父にぶつかったところで武蔵に降りたって感じなのだろう。

2020-10-30 02:31:30
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

秩父の先が武蔵と古代の人は見ていた可能性は高い。 「むさ」も「ふさ(ぷさ)」も古は殆ど発音の区別は適当だったのではと思う。 「ふさ」が生い茂る土地は九十九里まで届いていたという感覚なのか、それとも「むさ」が南関東一帯を支配していたのだろうか。 無論北関東は「毛野」だけど。

2020-10-30 02:35:29
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

でも南関東は湿地帯で水浸しで大きな川ばかり集中していてそう言う土地柄だった筈。 古代は毛野や武蔵という具体的な呼び名ではなくて寧ろ「東国」「坂東」または「あずま(吾妻、吾嬬)」と呼ばれていたという。 前にも挙げたが、この感覚は東国の人が呼んだのではなくて、大和の人の呼ぶ感覚だよな。

2020-10-30 02:40:27
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

結局「東国」の人は自分達で土地の名前を呼んだ訳でもなく、遙か昔西からやって入植した人達によって呼ばれていたしていたのではと感じる。 日本武尊が「あづま」と叫んだのも「吾が妻」と由来するようだし、駄洒落かと思うが案外そうでもないのではと思う。

2020-10-30 02:44:30
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

「あ」はあちらとかあそことか彼方の「あ」じゃないかと思うし、「つま」は奥さんというよりも先細りした所という意味のツマ(端、詰)なんじゃないかと思う。 最果てとして使った意味じゃなかろうか? 墨田区の立花辺りが日本武尊が歩いた最果ての地ではなかろうか?

2020-10-30 02:48:21
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

邪馬台国畿内説ではないけど、卑弥呼のいた時代には既に北九州じゃなくて山陰や畿内までも文化が行き渡ってたと思うし、それから少し後の日本武尊の時代には既に千葉県まで人が入り込んでいて文化がかなり広がったのではと感じる。 雄略天皇の頃には関東以北を治めていただろうし。

2020-10-30 02:53:02
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

聖徳太子(推古天皇の甥)よりも先に生まれて長生きしたからな…。 実質卑弥呼みたいなもんだ。 恐らくだけど、日本書紀が出来上がる時に卑弥呼のイメージと推古天皇のイメージと天照大神のイメージが重なったのだろう。

2020-12-14 05:27:37
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

前にも言ったが媛彦(日女日子)は古代日本では割とポピュラーなステータスだったようで、誰も彼もが名乗っていたらしい。 太陽の子供、天候を司る(占う)祭司的な存在だったらしい。

2020-12-14 05:55:29
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

ミミは耳って書かれるけど、これも御霊のミってやつだって言われるよな。 泄謨觚は島子と読むようだし、この頃から既に倭語は単音節言語ではなくなっているのだなと思う。 島と子、別々の意味だったものが文字のない時代でも言葉を重ねて新たな概念を絞り出していたらしい。

2020-12-28 01:09:49
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

単音節言語は、「こ」と書いて「子」「蚕」「籠」「卵」の多くの意味を含ませたり、「ひ」と書いて「日」「火」「干」、「め」と書いて「目」「芽」「女」、だったりしたものがまあ恐らく古代支那の流通言語の影響で文章化されていったのではと思う。

2020-12-28 01:17:15
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

魏志倭人伝の頃には既に統一国家とは言い難いが、大きな連合体としての国家が誕生していた(多分範囲は阿蘇日向以北から伊勢の手前まで瀬戸内海を治めていた)。 各地の首長は大体親戚(姻戚)のようなもので、彦媛を既に各地の首長が名乗っていた。

2020-12-28 02:06:58
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

高床式倉庫があるくらいだし、高度な技術は既にあって言語は先に書いた通りで複雑化していた。 文字も使っていたろうが、木の板に書く(刻む)ので木が腐ってしまって形に残らない。 邪馬台国はどこにあるという論争ももはや成り立たないのではと思う。 既に各地の人が大和や彦媛を名乗ってるのなら。

2020-12-28 02:06:58
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

当時の国というのはnationやstateじゃなくて城壁で囲った「都市」という意味だから、とは言っても当時の倭国にはそんな大層な壁なんてものはなくて精々濠か柵かのどっちかだろう。 だとして古代支那人にとっても村(邑)の方が妥当だとは思うが、「国」にしている以上まともな形態をしていたのだろう。

2020-12-28 02:15:57
叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

邑の字が周代や春秋戦国時代の行政区分によるものだとされているが、日本の弥生時代が紀元前1000年くらい前から始まると言われて、まさか周代の且つ楚蛮の人間がわざわざ東シナ海や黄海を隔てて倭国へやってくるものなのだろうかと思う。 ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5…

2020-12-28 02:30:24
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叢叡世 Степин Будимир @kusamura_eisei

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