【不器用なひと】 あの人はいつも遅くまで仕事をしている。 不器用な人だ。 主人を早くに亡くしてから、ますます不器用になったと思う。 いつもニコニコと仕事をして、先輩後輩別け隔てなく喋り、外の人の仕事まで手伝って。 そうして、自分の分の仕事をこうして遅くまで残ってやっている。
2022-07-23 17:10:03不器用だし、愚かだと思う。 残ったところで残業代など出ない。 分かっているなら、早く帰れるように動けば良いものを、あの人はそれをしない。 「私バカだからねー」 笑いながらそんな風に言われたことがある。 ああ、そうだ。バカだと思う。 いや、愚かだ。 そんなことを続けたところで、
2022-07-23 17:11:50見返りなんぞありはしない。 ただただ己を削ってしまうのみだ。 それなのに、その人はいつも、そんな働き方をする。 ガリガリと身を削る音が自分には聞こえる。 「飲みに行こう」 その人を、よく飲みに誘った。断られたことはない。 「飲みに行くのも仕事のうちだと思っているから」
2022-07-23 17:13:27そんな風に言われたので、「俺と行くときはそんな風に思うなよ」と言っておいた。きょとんとしてから一拍おいて、「ああ、そうだね。ごめん」と謝られた。別に謝ってほしかった訳ではない。 その人は俺より酒が強かったものだから、なかなか酔わない。少しは酔えば良いのに。
2022-07-23 17:15:12酔えないから、そうして身を削るのに。 いつでも明確に周囲を見ているから、手を出さずにはいられなくなるのに。 「無理してるだろう」 言った。笑って「まあ」と答えられた。 「倒れるぞ」と伝えると「だろうねえ」と笑われた。 想定している内のようだった。 「倒れたい?」と逆に聞いた。
2022-07-23 17:22:28少し困った顔をしたその人は「少し」と言ってから「キモいね、私」とまた笑う。 「キモくはないだろう」 きっぱりと否定した。 「削りたいんだろう?」 え?と問い返される。 「自分のこと、削ってしまいたいんだろう?」 もう少し、分かりやすく続けると、うーんと唸られた。 「何故分かる」
2022-07-23 17:24:33「おまえのこと見てたら分かる」 「分かるかー」 どこか嬉しそうに、反復された。 「そんな、削るような働き方をするもんじゃない」 体調を悪くしていっているのを気付かないと思っているのだろうか。 この人は、調子が悪くなると誤魔化そうとして化粧が濃くなる。以前、同僚にそう指摘されたと
2022-07-23 17:26:18笑いながら、落ち込みながら酒の場で愚痴っていた。 それ以来、化粧っけも薄れたが、それだから余計に分かる。だんだん、顔色は悪くなり、窶れてきてしまっている。 それなのに、「大丈夫大丈夫」と仕事の手を緩めはしない。 「不器用だな」 そう言うと「そうなんだよねぇ」と同意された。
2022-07-23 17:28:06「他人事か」と続けると、「他人事にしたいねえ」と微笑んでいる。 その頬ぃ笑みを見ていて、急に酔っていた頭が冷えた。ふっ、と気付いたからだった。 「死にたい?」 言葉にした。 その人は押し黙って、そのまま酒をじわじわと飲み始めた。 少しして、「うーん、正直に言うと」と存外素直に認めた。
2022-07-23 17:30:12「でも、そんなこと考えるのはいけないと思うんだよね」当たり前のことを言う。常識通りの、誰の助けにもならないことを返答される。 「だから、駄目だろうなあって」 「駄目だ」 はっきりと肯定した。 目の前のこの人が消えるなんて、認められない。死んでは、駄目。 「死ぬな」
2022-07-23 17:32:19その人は驚いたように目を大きくすると、「だよねぇ」と、また酒を呷る。 そのまま押し黙ってしまった。 火をつけた蠟燭のように、燃やせば燃やすだけ短くなっていく。 それが、他人のためになっているのは事実だが、身を削って得られる余剰なんて、正しい姿ではないのだ。だから、駄目。
2022-07-23 17:34:26それに。 考えを続けようとしたら、その人が口を開いた。 「別に、そういう不穏なこと考えてる訳じゃないから安心して。ただの、ただの喩えてして聞いてほしいんだけど」 うん、と促して先を続けさせた。 「死んだ後、どうなりたい?」 不思議なことを言ってきた。 死んだ、後?死んだ後になりたいも
2022-07-23 17:36:52へったくれもない。死んだらそれきり。死んだら終い。 「や、あの。あれだ。説明下手だな、私。……死んだ後、自分のことを周りの人にどう思われたいとかある?ってこと」 「どう?」 「うん」 それは周りの人間が決めれば良いのではないかと思ったので、そう伝えた。 「あー、何ていうかさ」
2022-07-23 17:38:23上手く意図が伝わっていないのだと察してか、その人は頭を掻いた。 「残された人に、覚えていてほしい?」 ああ。 そういうことかと理解した。 「大切な人には覚えていてほしいと思うかな」 自分の存在が、残されたに人の手がかりになって生きてもらえるよう。 そう答えた。 「やっぱりそう思うよね」
2022-07-23 17:40:17一定の理解を示されたが、その反応では自信は別のことを考えているのだと言っているようなものだ。 「違う?」 「んー、まあ。そっかな」 「……忘れられたい?」 「んー、というか、皆から自分の記憶だけ綺麗に無くなれば良いのに、と思っている」 突拍子もないことを言うので、驚いた。
2022-07-23 17:42:20「や、ごめん。変なこと言ってる」 「本当に」 この肯定は、同意というよりは、続きを求めるための肯定だった。 そんなことを考えながら働いていたのかと、驚いたのは否めない。 「消えてどうするの」 「どうだろう。なんか、自分のことで人の手を煩わせたくない」 「煩うなんて思ってないと思う」
2022-07-23 20:58:10「そうかな」 「そうだろう」 「……そっか」 ここで話を止めてほしくは無いと思った。しっかりと全てを聞いて、それから話をしたいと思った。 「ちょっと病んでるのかもな」 恥ずかしそうにえへへと笑うその人を、笑うことはできなかった。 「消えたら寂しいと思う奴がたくさんいるぞ」
2022-07-23 20:59:54「存在自体なかったことになったらなあ、とか考えてる」 「どうして」 「うんん、なんでだろう」 こんなにも一生懸命な人から「自分が気持ち悪いなあと」そんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。 「自分が嫌いというか。なんだろね。理想が高いのに、全然それには届かなくて。嫌なのかな」
2022-07-23 21:01:52「そんなのは、皆一緒だ。俺も、できてないことばかりだ」 「そう?めちゃくちゃ有能だと思うけどなあ」 ふふ、と笑いかけられる。 その感情を、もう少し自分に向けてほしいと思った。 「おまえも、周りからはそう見えてる」 「そうかなあ」 「そうだよ」 「だといいなあ」 「俺の言うことくらい聞け」
2022-07-23 21:06:55「あー、いや。ごめん。軽んじてる訳じゃないって」 頭を掻いて困ったように、また笑う。 「酒飲みの戯言だから」 「だといいけどな」 また、一杯呷る。少し目が潤んでいるのは、どうしてかきちんと言葉にしてほしかった。 「これも叱られそうだけどさ。理想の生き方の話」 「どんなの」
2022-07-23 21:08:48「自分が死んだ後に、私のことを世界の誰も覚えてなくて。だから死んでも悲しむ人もいなくて。葬式とかは…無縁仏さんとかでいいから。ただ、私が仕事で遺したもの、他の人が身につけたスキルや能力だけはそのままで。綺麗に私だけがいなくなる世界」 想像した。 想像して、それはとてもとても
2022-07-23 21:10:32悲しい世界だと、俺は思った。 「何になりたいんだよ、おまえ」 「えー、分からないなあ」 言っていて恥ずかしくなったのか、「今の無し無し」と手を振っている。 冗談めかしているが、分かる。 本気でそう思っているのだと。 世界から、自分が薄れて消えたら良い、なんて考えている。
2022-07-23 21:12:18許せる筈がない。 「おまえのことを覚えていたい奴からすると、たまったもんじゃないな」 「いるかぁ?そんな人」 「いるだろ」 「うーん、そっかあ」 あと一息で、「俺は嫌だ」と言いそうになった。 言えない。 御主人を亡くしたその人は、本当に御主人を大切にしていたから。 俺がそんなことを
2022-07-23 21:14:24言えば、きっと困るから。 「まあ、そっか。……ありがとう」 不器用なその人は、そう笑いかけると、残りの酒を飲みきった。 「今日、ありがとう。変な話聞かせて、ごめんね」 そうして、あっさりと話を終える。 二軒目に行こうか、と誘えば良かったのに、俺にはそれができなかった。
2022-07-23 21:15:59きっと、不器用なその人が、唯一弱いところを見せられるのが俺だったのだと分かっていたのに。 そうして、その人はこの世を去った。 自殺ではない。きっと、あの人はそれを自らに許すこともできなかった。 過労だった。 体重も、10キロ落ちていたらしい。 見つかったとき、あの人の額からは血が流れて
2022-07-23 21:18:04いたという。 随分前から飯も食えなくなっていたと。 俺と飲みに行った日には、そんな風優には全然見えなかった。 苦しんでいるのは知っていた。 そこまで、追い込まれていたなんて、きっと、いや、たぶん。知っては、いた、のに。 「自分が嫌い」だと言っていたから、積もり積もったものがあれば
2022-07-23 21:19:45頭を打ち付けていたのだという。思い切り、ガンガンと。血が流れる程に。 傷が見えるからと、手首を切ることも出来ず。 後始末が大変だからと首を吊ることも、飛び降りることもできず。 ぐずぐずと苦しみに煮詰められながら、あの人は一人で倒れて死んだ。 分かっていたのに、何も出来なかった。
2022-07-23 21:21:45あの日、二軒目に行って、その後……。いっそのこと、全部を忘れるようにしてしまえば良かった。 食生活も悪く、体力も落ちて、身体もボロボロになり、頭を打ち、打ちどころが悪かったのか、血管が脆くなっていたのか。 そのまま脳溢血で亡くなったのだという。 死因は、後で医者に聞いた。
2022-07-23 21:23:52見つけたのは、俺だ。 連絡もなく出勤してこなかったその人に、胸騒ぎがした。 上司に連絡して、すぐに様子を見に行った。 管理会社に連絡し、部屋の鍵を開けてもらったら、……彼女が倒れていた。遅かった。 もっと、上手く、寄り添えられたら良かったのに。 もっと、素直に
2022-07-23 21:25:36言ってしまえば良かったのに。 不器用なあの人は、もういない。 その願いのとおりに、月日が経てば立つほどに、自然と皆の中からあの人は薄れてしまう。 俺は、大切な願いだったとしても、絶対に忘れない。 そんなこと許してやらない。 ずっと先に、俺が寿命で死んだら、説教してやろうと思う。
2022-07-23 21:27:25「おまえを大切に想っている奴に、おまえを想う権利を奪おうとするのは傲慢だぞ」 そう言って叱ってやろうと思う。 ……ああ、違うな。 叱るんじゃない。たぶん、抱きしめてやろうと思っているんだ。 言えなかった言葉をしっかりと伝えて、それがもう手遅れでしかなかったとしても。
2022-07-23 21:29:43