岡山南部方面の訪問記録。
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黒将軍 @ytinbk

昨日は岡山のサーキットを見に行く予定が諸事情で入れず。 やむなくその足で岡山城、後楽園へ。 不安定な天候の中、一眼レフの特訓をしてきたのであった。 pic.twitter.com/WREJGUWerX

2015-04-06 22:58:31
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黒将軍 @ytinbk

瀬戸内の海が見たいという友人の運転で行った先がまさかの長島愛生園。 …かつてハンセン病患者が隔離され、病と不自由と人権侵害に苦しんでいた場所だ。 いや、こんな所は遊び半分で来ちゃいかんだろ… 結局大した景色も見えず、心にわだかまりだけが残ったまま島を後にしたのであった… pic.twitter.com/kB2XLDNtHJ

2019-02-03 21:27:32
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気を取り直して牛窓オリーブ園へと移動。 ここは高台にあり、小豆島付近の瀬戸内の島々がよく見える絶好の場所。 …初めからこっちに来ときゃよかった… pic.twitter.com/4KKiUUfmPx

2019-02-03 21:30:55
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黒将軍 @ytinbk

そのオリーブ園北側には、巨大なメガソーラー施設がある。 …豪雨災害の前に来てたら素直に感動したかもしれんが、頭をよぎったのは真備の洪水と姫路のソーラー施設崩壊現場の惨状であった… pic.twitter.com/WQbNWGj2AA

2019-02-03 21:34:39
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黒将軍 @ytinbk

旅の最後に鷲羽山にて瀬戸大橋を眺める。 もう少し天気が良ければよかったのだが… pic.twitter.com/WAl8PGF7Xc

2019-04-30 00:36:35
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黒将軍 @ytinbk

最近文化的活動をしてないなあと思い立ち、総社まで車を走らせてきた。 その途上に立ち寄った円城寺。 道の駅かもがわ円城より少し奥まった場所にあり、周囲は円城ふるさと村を称す。 要は田舎である(失礼)。  #岡山の寺 pic.twitter.com/VRVmbtPKrh

2018-04-22 21:09:06
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黒将軍 @ytinbk

円城寺本堂。 江戸後期の建物。 縁側が外陣を兼ねているのか広くとられており、天井には板絵がびっしりと描かれている。 ここまで見ると普通の寺だが…  #岡山の寺 pic.twitter.com/u2Rx4k34y6

2018-04-22 21:14:55
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この寺での本命、円城寺鎮守、提婆宮。 提婆天こと仏教における悪人、提婆達多(ダイバダッタ)を祀る、日本唯一とされる社であるとともに、「加茂の提婆は人をとる」と噂された、呪いの社なのだという。  #岡山の寺 pic.twitter.com/JNVWyFCP8W

2018-04-22 21:20:35
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黒将軍 @ytinbk

ダイバダッタという人物は、釈迦の従兄弟にして弟子であったが、教団の肥大化に伴い、戒律による統制を提案したが釈迦に拒絶され、喧嘩別れして別教団を立てたものの釈迦への憎しみ収まらず、毒の爪を以て釈迦の暗殺を謀ったものの自滅したという。

2018-04-22 21:25:47
黒将軍 @ytinbk

彼や釈迦の死後、結局仏教は戒律を導入するので、ある意味彼も仏教の開祖の一人といえなくもなさそうだが、今のところその名誉が回復されたという話はない。 悪魔マーラでさえ釈迦と和解した話があるのに。 その彼が、なぜこんな岡山の片田舎で祀られているのか。

2018-04-22 21:29:34
黒将軍 @ytinbk

結局のところ、その理由はよくわからないのだが。 言い伝えでは、提婆宮に祈願して相手を呪うと、提婆天の使いである白狐が相手に取り付いて災いをなすという。 提婆達多がキツネを使役していたなど聞いたことが無いので、恐らく陰陽道か修験道か、今は絶えてしまった別系統の話が混同したのであろう。 pic.twitter.com/kahC5Odnxp

2018-04-22 21:35:26
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円城寺より少し離れたところに医王院という小さな寺があり、その裏側に北向庚申堂(暗くて見えなかったが本尊は青面金剛ではなかった)、小社の並ぶ廃神社、なぜか山王鳥居の稲荷社などが雑多に配された不思議な空間があった。 神仏分離以前の雑多な宗教観が残っているのだろうか。  #岡山の寺 pic.twitter.com/ttYZNeW2UU

2018-04-22 21:51:31
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備中総社宮。 総社市の由来であり、律令国家時代に国司が各社参拝の苦労をなくすために設けた、いわば神社の総合出張所である。 建物は古くはないが、古代のものを復元したという池と、吉備津神社を思わせる長大な回廊が、独特の景観を作っていた。  #岡山の神社 pic.twitter.com/62qlcUuyav

2018-04-22 22:04:22
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奉納された面の数々。 備中神楽というものがあるらしいが、石見神楽の亜流であろうか。 拝殿には円山応挙の奉納額があったらしいが、見られなかった。  #岡山の神社 pic.twitter.com/znm7yjqfuy

2018-04-22 22:08:26
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境内には多くの摂社があったが、中に何と狼信仰の木野山神社があり、狛狼があった。 なぜか加藤清正を祀る神社もあったが、これは岡山が備前法華とうたわれたほど日蓮宗が強く、清正が有力な法華信者であったことによるものだろうか。  #岡山の神社 pic.twitter.com/7KUVPdVCVe

2018-04-22 22:16:13
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総社宮門前に総社まちかど郷土館なる資料館があった。 建物は総社唯一の洋風明治建築で、前身は警察署だった模様。 展示物は置き薬の製造、販売に関わるものであったが、見学中に激しい便意に襲われ、それどころではなくなっていた。 提婆天の祟りであろうか… pic.twitter.com/lo0EGEceSe

2018-04-22 22:21:07
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岡山は妙本寺を参拝。 妙本寺は鎌倉時代建治元年、日蓮在世時の創建で、日蓮宗西国布教の拠点として西身延と称される。 (なお、西身延と称される寺はいくつかある模様。) 生憎、創建当時のものという本堂は修理中であった。  #岡山の寺 pic.twitter.com/4HvXqJqEIV

2021-12-11 22:50:29
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黒将軍 @ytinbk

今回の目当て、妙本寺番神堂。 番神とは三十番神のことで、日本中の各神社の神が輪番で国家を守護するという信仰。 元は天台宗の信仰だったが、日蓮宗に取り込まれた。 この番神堂には一つの由来譚がある。  #岡山の寺 pic.twitter.com/cbuKW0F28m

2021-12-11 22:59:50
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室町時代、吉田神道の実質的創始者である吉田兼倶は、日本の宗教界を手中に収めんと野望を巡らせており、その一環として、日蓮宗に目を付けた。 三十番神が天台由来と認めたがらない日蓮宗に、三十番神は吉田神道由来であると言いがかりをつけ、支配下に収めようとしたのである。

2021-12-11 23:04:06
黒将軍 @ytinbk

これに対し、妙本寺の日具は理路整然と反論し、兼倶は負けを認め、お詫びの品代わりにこの番神堂を寄進したのだという。 なお、日具がどういう論を展開し、兼倶を納得させたのか、不思議と書かれているものが見つからなかった。

2021-12-11 23:09:46
黒将軍 @ytinbk

なお、実際の建物は桃山時代の建物と見られており、兼倶の時代とはずれている模様。 建て直されたのか、論争の話が後でこじつけられたのかもしれない。 また、岡山には他にも古い番神堂がいくつかあり、地域での信仰の厚さが見て取れる。 pic.twitter.com/7orMEP4mj2

2021-12-11 23:17:58
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続いて吉川八幡宮に参拝。 この辺りは中世、石清水八幡宮の荘園であり、その別宮として創建されたもの。  #岡山の神社 pic.twitter.com/t8bR7AivzH

2021-12-11 23:26:26
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吉川八幡宮本殿。 室町時代応永2年の建物。 大きな本殿に向背を設け、回廊のような拝殿のつく古式の神社建築。  #岡山の神社 pic.twitter.com/2AkMaoodg9

2021-12-11 23:36:16
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この吉川は昭和の名作庭家、重森三玲の出身地であり、隣接する地区公民館の敷地にはその記念館や孫・重森千靑の造った小庭、三玲が最初に手掛けた茶室・天籟庵があったが見られなかった。 pic.twitter.com/Wg2FW5DgB2

2021-12-11 23:44:05
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妙本寺や吉川八幡宮よりの光景。 この一帯は吉備高原といい、気持ちのいい農村風景が広がっている。 pic.twitter.com/Cun2tf9pwW

2021-12-11 23:48:31
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本日は備中松山城を探訪。 現存十二天守唯一の山城として著名な城だが、先日のヒストリアによると江戸時代、泰平の世になってからの藩主、水谷勝村が城への憧憬から、あえて時代遅れの山城を修復させたのだとか。 そういわれると確かに狭間が下を向いてない! なんだかなあ… pic.twitter.com/KJktA2xFjF

2016-09-24 22:31:54
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松山城下にある頼久寺には小堀遠州により作庭された庭園がある。 遠州は本名小堀政一、茶道、作庭、建築に長じた文化人大名で、一時期松山城主であった。 頼久寺は足利尊氏が全国に造営した安国寺が前身だが、残念ながら庭園の他見る物がなかった。 pic.twitter.com/rgzo5aBHFW

2016-09-24 22:40:28
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頼久寺にあった上野頼久、三村家親・元親親子の墓。 上野頼久は戦国初期の松山城主で安国寺を再興、後その名をとって遠州により頼久寺へ改められた。 三村元親は戦国後期の松山城主。 父家親は暗殺のスペシャリスト・宇喜多直家の手の者にスナイプされ、暗殺されてしまう。 pic.twitter.com/DOIJ0h3gpD

2016-09-24 22:49:30
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@ytinbk 父の敵を狙う元親は直家を討たんとするが、狡猾な直家は三村氏を傘下に置く毛利氏に降伏、元親は手が出せなくなってしまう。 窮した元親は勢い余って毛利から織田へ鞍替えするが、激怒した毛利・宇喜多連合軍により松山城を包囲され、滅ぼされてしまった。

2016-09-24 22:53:17
黒将軍 @ytinbk

@ytinbk その後、毛利の協力を経て備中を平定した直家はあっさりと織田へ乗り換えてしまったため、毛利にとってはかわいがっていたインコを飼い始めた猫に食われた上に、猫に仲の悪い近所の元に逃げられたようなものであった。 この一連の出来事を「備中兵乱」と称す。

2016-09-24 23:00:08
黒将軍 @ytinbk

松山城下、高梁の町外れにあった山中鹿之助の墓。 播磨上月城で最後の抵抗を試みた尼子再興軍は毛利軍の包囲により降伏、鹿之助は毛利輝元の元に護送されることとなったが、鹿之助が輝元を害することを危惧した吉川元春の指示によりここ、阿井の渡しで殺害されてしまった。 pic.twitter.com/2InoGSuHKu

2016-09-24 23:05:44
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まとめたひと
黒将軍 @ytinbk

黒将軍だ。 歴史探訪とSDガンダムに情熱を注ぐ者だ。 作成品、探訪記録をmin.t ↓ にまとめました。 (モーメント廃止に伴い移行。)