敵地とは思えど月の景色かな
0
シービー @MrCB_Harukaze

小倉口の征長軍は、幕府直轄軍1000、幕府海軍、小倉藩軍2000、熊本藩軍1万4000、久留米藩軍1000、柳川藩軍1000、唐津藩軍250、福岡軍2000、佐賀藩軍3000であった。慶応2年(1866)6月4日、小倉藩は下関の対岸の田野村・門司まで出陣した。5日には新田藩、6日には安志藩が楠原村へ布陣した。

2021-10-25 19:10:49
シービー @MrCB_Harukaze

一方、長州藩は小倉口方面に奇兵隊425、報国隊150、正名団150、磐石隊などを派遣した。指揮役に奇兵隊総督山内梅三郎、参謀に谷潜蔵(高杉晋作)海軍総督があたった。が、実質的な総司令官は晋作坊ちゃんで、山縣狂介、福田侠平が軍監、三好軍太郎、時山直八が参謀を務める。

2021-10-25 19:29:14
シービー @MrCB_Harukaze

長州海軍は、小型蒸気艦2艦、帆船3艦である。6月7日の大島攻撃に対し、10日に長州藩藩庁は応戦を決意し、三支藩と岩国藩に伝達。下関方面には井上聞多が派遣され、12日に長府藩主に伝えられている。

2021-10-25 19:42:09
シービー @MrCB_Harukaze

大島での夜間の丙寅丸奇襲戦を終えた高杉晋作は6月14日に下関に帰っている。余談ですが、この日、坂本龍馬が桜島丸(長州藩名乙丑丸)を率いて下関に来ている。晋作坊ちゃんと龍馬の話し合いで桜島丸引き渡しは当初予定の三田尻ではなく下関で行われた。

2021-10-25 19:44:57
シービー @MrCB_Harukaze

6月15日、奇兵隊軍監山県狂介が下関に着き、高杉晋作と小倉攻撃の方略を協議した。翌16日、狂介は部隊配置等を定め、豊前攻撃を指示する。晋作坊ちゃんは長府毛利家に出陣を促し、報国隊の出陣を引き出している。いよいよ小倉口の開戦である。

2021-10-25 19:48:26
シービー @MrCB_Harukaze

慶応2年(1866)6月17日午前2時、長州藩海軍の丙寅丸と癸亥丸、丙辰丸が田野浦沖に、己丑丸と庚申丸が門司沖に碇泊した。午前6時、田野浦と門司に進出していた小倉藩軍の営舎めがけて艦砲射撃を開始。午前7時、上陸部隊が行動をはじめる。

2021-10-26 19:01:34
シービー @MrCB_Harukaze

第一陣は、山県有朋・三好軍太郎等が率いる奇兵隊の第一銃隊・第六銃隊・一番砲隊と福原和勝率いる報国隊の四番小隊・六番小隊で、関門海峡を渡海する。奇兵隊は大久保海岸、報国隊は田野浦に上陸。小倉藩兵を概ね敗走させる。

2021-10-26 19:05:56
シービー @MrCB_Harukaze

第二陣は、時山直八が指揮する奇兵隊の第二銃隊・第三銃隊・二番砲隊・正名団一個小隊と熊野直介指揮の報国隊一番小隊・二番小隊で、門司に直接上陸し、小倉藩兵を敗走させた。長州軍は小倉藩の渡海用小舟1000を焼き払う。さらに門司口まで進んだ。途中戦闘を重ねながら先陣の奇兵隊と落ち合う。

2021-10-26 19:10:01
シービー @MrCB_Harukaze

上陸成功を合図に残りの主力奇兵隊と正名団が渡海し、門司関に向かう。午後2時、海軍から下関への引き上げが打診される。大里まで攻略すべきとの意見もあったが、いったん引き返すことに決定する。午後4時、門司に放火し、下関に帰還した。緒戦は圧倒的な長州軍の勝利に終わった。

2021-10-26 19:14:43
シービー @MrCB_Harukaze

この戦闘で、奇兵隊小隊長武広九一は「各々散兵にて戦争に及ぶ」と記録している。己丑丸の坂本龍馬も「船より上陸するとばらばらと開き、四間に壱人宛斗りに立並び候」と記している。報国隊の戦闘では、小隊長が先頭に立って進撃している。これは後続する兵士を信頼していた証しであろう。

2021-10-26 19:20:23
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんは詳細な戦闘記録を残していて「門司も田野浦の如く一面火にて勢ひ甚だ烈し。この時、日将に落ちんとす」と詩人らしい文も見える。

2021-10-26 19:25:31
シービー @MrCB_Harukaze

緒戦に勝利した長州軍は軍議を重ね、7月2日、以下のように方略を定めた。「幕府軍艦富士山丸への奇襲」「彦島砲台から大里への砲撃」「大里への上陸兵による攻撃」「下関の後詰め」である。富士山丸への奇襲はおそらく高杉晋作の案であろう。

2021-10-27 18:33:17
シービー @MrCB_Harukaze

7月2日夕方、薄暮に乗じて報国隊5人が上荷船に三貫目大砲三艇を積み込み出発した。商船を装い暗闇に乗じて富士山丸に近づき、蒸気機関めがけて七、八間の距離から発砲。すばやく落潮(下関向き)に乗り退去した。

2021-10-27 18:40:18
シービー @MrCB_Harukaze

富士山丸は巨大軍艦のため、ほとんど損害は与えられなかったが、幕府軍はこのゲリラ攻撃に非常に恐怖し、これ以降の海軍行動に心理的な妨げが生じることになった。7月3日、午前2時。この海戦の砲撃を合図に彦島砲台の二〇ポンド砲等が大里の砲撃を開始する。

2021-10-27 18:44:03
シービー @MrCB_Harukaze

陸軍は、報国隊03小隊、磐石隊、奇兵隊二銃隊を先鋒とし、搦手の曾根口に奇兵隊二銃隊・二砲隊などが出陣した。午前八時、先鋒、搦手両軍が大里に入り、小倉藩軍と砲撃戦が始まる。長州軍は三手に分かれ、戦いが進むにつれ散兵戦術を使用する。小倉藩は支えきれず敗走をはじめた。

2021-10-27 18:50:40
シービー @MrCB_Harukaze

その後長州軍は大里に侵入し火を放つ。午前11時になって、疲労した部隊から順次下関へ引き上げをはじめた。作戦が完了し、正午には全軍下関に帰還。そのとき長州海軍の庚申丸、丙辰丸、丙寅丸は幕府軍艦富士山丸、順動丸、翔鶴丸と砲撃戦を展開しているが陸軍の帰還が終わったのを合図に午後4時帰港。

2021-10-27 19:00:23
シービー @MrCB_Harukaze

前回の戦闘を踏まえて小倉藩は味方の諸藩に応援を頼んでいたが、自分たちには関係のない戦いの中やる気がなく、協力を得る事が出来なかった。また幕府海軍も煮え切らない態度を取ったため、今回もほとんど単独で戦ったため、ほぼ前回どおりの敗戦となっている。

2021-10-27 19:03:52
シービー @MrCB_Harukaze

7月26日朝、奇兵隊幹部で軍議を行い、再度大里を攻撃し、小倉城下へ侵入する方略を立てた。一方征長軍は、これまでの敗戦に危機感を覚え、小笠原長行は本気になって肥後藩に援軍出陣を交渉した。肥後藩は家老永岡監物が率いる銃隊5000を派遣し、小倉の北の赤坂に着陣した。

2021-10-28 19:01:42
シービー @MrCB_Harukaze

7月27日午前5時、長州軍は彦島砲台から対岸を砲撃しつつ、丙寅丸ほか蒸気艦を先頭に陸軍部隊を乗せた船数百を従え海峡を渡る。午前7時、奇兵隊らが上陸を果たす。征長軍は赤坂砲台・長浜砲台から砲撃を開始する。また海からは富士山丸、回天丸、飛龍丸が艦砲射撃を加えた。長州軍の先手は少し苦戦する

2021-10-28 19:11:36
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、連続の負け戦で気力が萎えていたのか小倉藩陸軍は間もなく撤退。長州藩の陣容は、先鋒奇兵隊四小隊、報国隊三小隊、長府藩兵二小隊、山内梅三郎一手一小隊ほかである。海岸線沿いに福原和勝の報国隊、山間部を山県有朋の奇兵隊、時山直八が迂回部隊を率いて三方向から小倉平野へ進撃する。

2021-10-28 19:18:03
シービー @MrCB_Harukaze

当初は長州藩が有利に戦いを進めた。しかし、思わぬ強敵が待ち受けていた。小倉への通り道の赤坂口に肥後藩兵が布陣、延命寺山に本陣を置き、弾正山に主力を置くなどして長州藩兵を迎え撃つ体制を整えていた。

2021-10-28 19:22:06
シービー @MrCB_Harukaze

肥後藩の兵器は近代化されており、銃隊が編成され、アームストロング砲も装備していた。長州藩は上陸戦で大型の大砲は持ってこれず、装備の面では肥後藩がやや優勢であった。肥後藩は延命寺山の高地に砲台を築き容易に攻め落とせなかった。さらに幕府軍艦が新町沖から大里と赤坂を砲撃した。

2021-10-28 19:28:37
シービー @MrCB_Harukaze

長州軍は最新装備の肥後藩3000と激突することになった。「午前七時、長州軍が新町口まで進み来たり(略)ライフルカノン砲で砲撃した。(略)これにより長州軍の隊列は崩れ」と肥後藩の記録にある。肥後藩は他にホット砲、ライフル砲も使用している。

2021-10-30 20:36:35
シービー @MrCB_Harukaze

一方、長州軍については「茂み之ヶ所々々(略)西洋散兵(略)別してあちこちと縦横いたし」と散兵戦術を使用したことを記録している。肥後藩はそれに対抗するために家老長岡監物は、赤坂戦争後も長州軍襲来の恐れがあるので銃100挺を小倉に送るよう依頼している。

2021-10-30 20:45:26
シービー @MrCB_Harukaze

さらに肥後藩は長州軍の退却しながらも発砲する戦法に感心している。赤坂の戦いでの長州軍の死傷者は、即死18人、負傷100人を超えた。四境戦争での最大の犠牲を出している。しかし、長州軍の士気は衰えなかった

2021-10-30 20:49:43
シービー @MrCB_Harukaze

一方勝利したとは言え、肥後藩も大きな損害を受け、小倉口の幕府軍総督小笠原長行に赤坂守備の交代を求めた。が、小笠原はこれを拒絶。長州藩に恨みがあるわけではない肥後藩兵の不満は募っていく。

2021-10-30 20:53:50
シービー @MrCB_Harukaze

破れても士気盛んな長州軍は、7月28日、高杉晋作は白石正一郎らと大里の浜久留米屋敷跡入江から上陸。兵200が大里に渡り防御を固める。7月29日朝、小倉藩は大里への打入を決め、肥後藩に協力を求める。肥後藩はいったんは応援すると回答した。

2021-10-30 20:57:33
シービー @MrCB_Harukaze

ところが、7月30日、肥後藩は引き払いを開始する。撤兵理由は肥後藩単独の戦いになることを懸念したという。小倉藩兵は戦う姿勢を見せたが、小笠原長行から撤退の命が届き、小倉城下に引き上げた。同30日、将軍徳川家茂の死報を聞き、軍艦富士山丸で小倉城から逃げ出した。

2021-10-30 21:04:03
シービー @MrCB_Harukaze

慶応2年(1866)7月30日、小笠原長行が富士山丸で小倉城を脱した後、諸藩の兵も次々に撤退をはじめた。その日の夜、残った兵により小倉城で軍議が開かれ、いったん小倉城から退いて要地で反抗することに決した。翌8月1日早朝、小倉藩は小倉城と諸屋敷に火を放ち、田川郡に落ちていった。

2021-10-31 18:14:27
シービー @MrCB_Harukaze

8月1日、高杉晋作と山県狂介は大里に渡り、小倉城下の自焼状況を見分。夕方下関に戻っている。8月2日、長州軍は海陸軍を小倉に進撃させ城下に入った。翌3日、小倉藩が残した武器食糧を点検。「元来十五万石不似合器械其外極品多く(略)銃砲弾薬は大概舶来物多し」と記録している。

2021-10-31 18:29:06
シービー @MrCB_Harukaze

肥後藩だけでなく、小倉藩も(十五万石に不似合いな)西洋の武器・薬をたくさん持っていたようである。ライフルカノン砲、ホイッスル砲、ポート砲などなど大量だったようである。ただ、それを活かせるだけの兵の訓練・士官教育・軍制が存在していなかったというのが敗因である。

2021-10-31 18:33:26
シービー @MrCB_Harukaze

小倉藩軍は布陣を固め、金辺峠口、狸口の二方面で戦闘が行われる。8月10日、狸口の小倉軍は長州軍の曾根口屯所を攻撃するが長州軍はこれを撃退している。翌11日、長州軍が奇兵隊・報国隊ら八小隊が小倉藩軍を攻撃する。この時は苦戦し、葛原に後退する。

2021-10-31 18:39:31
シービー @MrCB_Harukaze

小倉藩軍は高津尾村まで本隊を前進させ、16日に徳力村、17日に狸山の本営を長州軍は攻めるが、小倉藩兵はゲリラ戦を仕掛けるようになり、どちらも長州藩は苦戦し撤退している。しかし、8月28日、狸山と金辺峠の小倉藩が長州軍を攻撃するが、長州軍はこれを撃退している。

2021-10-31 18:47:43
シービー @MrCB_Harukaze

小倉口での戦闘は以後も続くが、8月頃は、四境戦争の止戦の動きが見られる。8月14日、徳川慶喜は二条関白賀陽宮を通じて止戦の勅書を願い出て、15日に朝議が開かれた。場は慶喜の掌返しに対する不興が渦巻いており、何も決定することなく散開する。

2021-11-01 19:57:50
シービー @MrCB_Harukaze

8月16日、徳川慶喜は、さらに出陣辞退を申し出ている。老中板倉伊賀守を連れて参内し「長州を征せんことその機にあらず。(略)征長の兵を解き」「故に将軍職断然辞退し奉れば」と陳述した。朝廷は不愉快であったが将軍不在の時間が生じることを恐怖し、最後には聞き入れた。

2021-11-01 20:04:17
シービー @MrCB_Harukaze

幕府側の講和の使者には勝海舟が任命された。勝は19日に京を出立、25日に宮島に到着する。しかし、勝が長州藩と交渉に入る前の21日に朝廷から征長停止令が幕府に伝達されている。

2021-11-01 20:13:36
シービー @MrCB_Harukaze

9月2日、安芸厳島大願寺で勝海舟と長州藩広沢兵助、春木強四郎(太田市之進)、長松文輔、高田春太郎(井上聞多)らと会談。長州藩は和議は拒否したが、幕府軍が撤収しても追撃しないことを約束する。これにより、休戦協定が締結された。

2021-11-01 20:17:01
シービー @MrCB_Harukaze

9月4日には「征長軍解兵」が発布され幕府軍は撤兵を開始する。が、小倉口はまだ戦闘が続いた。9月9日早朝、小倉藩軍は分散して小倉城下に突入する。守備が手薄だった長州軍はいったん退却した。増援部隊を得て長州軍は小倉藩軍を徳力村まで追撃する。以後、このあたりでは9月25日まで小競り合いが続く

2021-11-01 20:21:59
シービー @MrCB_Harukaze

9月12日には狸山を長州軍が攻撃し、こちらも9月末ごろまで小競り合いが続く。10月4日、長州軍は大部隊を編成し、蒲生村、森垣村、祇園町などを攻撃し、砲台を奪った。翌5日、金辺峠方面に対しても攻撃を行う。小倉藩軍は敗退し、これにより小倉藩内で止戦を求める声が大きくなった。

2021-11-01 20:27:08
シービー @MrCB_Harukaze

我らが晋作坊ちゃんだが、小倉口戦争の頃にはいよいよ病状が悪化していた。7月22日に体調不良を訴え、23日には奇兵隊から見舞いに鯉が届けられている。27日、小倉城下制圧の際は病身をおして白石正一郎らと小倉城を見分している。「敵地とは思へど月の景色かな」と歌を詠んでいる。

2021-11-02 18:50:07
シービー @MrCB_Harukaze

7月30日、小倉口での功績により谷潜蔵(高杉晋作)は馬関口海陸軍参謀を命ぜられている。山内梅三郎総督が形式的なものであるから、これにより実質、晋作坊ちゃんが小倉口の総司令官になったと言って良いだろう。

2021-11-02 18:53:18
シービー @MrCB_Harukaze

8月1日、晋作坊ちゃんの肺結核が進む。そんな中、2日、新地会所にいる前原彦太郎(一誠)に小倉藩領に砲台を築く費用の調達を依頼する書状を送る。8月5日、前原彦太郎に馬関口諸軍参謀を命じ、海陸軍参謀高杉晋作と戦略を議させる。この頃から藩要路も感じていたのかも知れない・・・

2021-11-02 18:58:23
シービー @MrCB_Harukaze

8月26日、御用所役国政方・海軍興隆用掛木戸寛治が白石正一郎邸にいる晋作坊ちゃんを見舞っている。この頃には床に伏すようになっており、前線指揮は八十朗が執るようになっている・・・

2021-11-02 19:04:07
シービー @MrCB_Harukaze

小倉口は幕府との休戦が結ばれた後も小競り合いが続いていたが、9月9日、幕府は使いを出し、小倉藩主名代小笠原貞正に暫時兵事見合せを沙汰する。しかし、小倉藩軍は新大砲を長崎で購入し、試射するなど交戦の意志が高かった。(なんでなのか理解しがたいが)

2021-11-02 19:08:47
シービー @MrCB_Harukaze

とはいえ、城も失い疲弊していたのは事実であり、一方で休戦への動きも進む。10月8日、小倉藩の使者が五卿が滞在する太宰府に行き、三条実美を守衛する肥後藩士に対して肥後藩と薩摩藩で止戦に尽力する事を依頼している。これにより、肥後藩と薩摩藩仲介の休戦交渉が始まる。

2021-11-02 19:14:48
シービー @MrCB_Harukaze

10月12日、長州藩は野村右仲を派遣し、止戦交渉をはじめた。10月14日には小倉藩から止戦講和の使者が馬関口諸軍参謀前原彦太郎を訪ねて来て、八十朗は原狷介という変名で応接している。止戦交渉は長引いたが慶応3年(1867)1月22日、小郡で小倉藩と長州藩の間で止戦協定が結ばれる。23日征長軍解兵。

2021-11-03 16:23:11
シービー @MrCB_Harukaze

なお、小姓筆頭海軍頭取前原彦太郎は、講和内容に不満を持ち、役職を退き勉強したいと御用所役国政方木戸準一郎に手紙を送っている。嫌なことがあると辞める、辞めるというのは長州藩士のお家芸である。

2021-11-03 16:25:59
シービー @MrCB_Harukaze

小倉口も幕府側の方が、西洋式武器や軍艦等で長州藩の武装を上回っていた。が、小倉藩、肥後藩とも軍事編成が旧来のままであり折角の西洋武器を活かせなかった。加えて征長軍は士気の面で振るわず、前線に立とうとする藩はほとんど無く、幕府軍本隊も腰が引けて海軍も有効活用できなかったのが敗因。

2021-11-03 16:33:46
0
まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.