竹本知行『大村益次郎』 木村紀八郞『大村益次郎伝』 山本栄一郎『大村益次郎』 石井孝『戊辰戦争論』 より
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シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六(大村益次郎)が京の新政府に出仕したのは、2月20日、「軍防事務局判事加勢」に補任されたときとされる(竹本知行先生)。なお、木村紀八郞先生は22日説である。いずれにしろ、軍防事務局判事加勢を任じられたことにより、村田蔵六は朝臣となった。

2022-07-27 18:14:05
シービー @MrCB_Harukaze

これより前の2月15日、大総督有栖川宮熾仁親王、大総督府参謀西郷吉之助(薩摩藩)、林玖十郎(宇和島藩)らが東征の途に着いている。

2022-07-27 18:14:30
シービー @MrCB_Harukaze

そのときの新政府軍作戦計画(廟算)は12条の緻密なもので、第2条には「東海・東山・北陸三道先鋒は、御沙汰次第、随従の諸藩兵隊を揃え、すみやかに進発、路次諸藩その他の方向を定め、二月中、左の根拠に地方を占めるを要す」とあり、その先は三道ごとの戦略が事細かく記載されている。

2022-07-27 18:14:44
シービー @MrCB_Harukaze

この計画を仕上げたのが村田蔵六であるという説がある。蔵六が藩世子に随従して京に入ったのが2月7日、大総督が京を発ったのが2月15日、このわずか8日間の内に蔵六が仕上げたというものである。

2022-07-27 18:15:17
シービー @MrCB_Harukaze

これは、徳富蘇峰が「かくのごとく三道の地理を掌中に見るがごとく熟察して、その方略を定むるがごときは、到底尋常兵家のよくするところにあらず」など批評し、「この起草者は大村益次郎以外では期待しがたい」(『近世日本国民史』)と述べている。

2022-07-27 18:15:34
シービー @MrCB_Harukaze

また、『伝記刊行会編著「大村益次郎」』では、大村益次郎の意見を参考にして作成されたものであると伝えられている、と記されている。もし、そうだとすれば、一足先に新政府に出仕していた桂さん(木戸準一郎)がこの作戦の草案を見せ、仕上げ(全面改定?)を依頼したと考えられる。

2022-07-27 18:15:51
シービー @MrCB_Harukaze

桂さん(木戸準一郎)の国家構想は、『五箇条の御誓文』」に現れている。これは、越前藩由利公正と土佐藩福岡孝弟が起草し、桂さんが修正したと言われる。御誓文は、3月14日、明治天皇自ら誓う形で発せられた。

2022-08-01 19:02:34
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六が戊辰戦争に関わった記録は、当初は多くない。京に来て新政府に出仕した直ぐに、江戸へ出向になっている。どちらかといえば、江戸で大総督府を牽制しつつ、新政府軍官僚としてその権力や責任もあいまいなまま、奥羽や北越に関して司令しているころからが本番である。

2022-08-01 19:06:58
シービー @MrCB_Harukaze

なので、しばらくは、北越への奇兵隊等諸隊派遣のことでもつぶやきましょうか。

2022-08-01 19:08:18
シービー @MrCB_Harukaze

鳥羽伏見の戦いの後、新政府は、山陰道鎮撫軍(総督参与西園寺公望)、中国四国征討総督(総督四条隆謌、参謀大山綱良(薩摩藩))、九州鎮撫総督(総督澤宣嘉(外国事務総督兼任)を編成し、西方諸国を平定。後方の憂いをなくすと、各総督府を再編成し江戸城攻めを計画する。

2022-08-02 12:42:40
シービー @MrCB_Harukaze

2月6日、東海道先鋒総督兼鎮撫使(総督参与橋本実梁、副総督柳原前光、参謀木梨精一郎(長州藩)、海江田信義(薩摩藩))を編成。同6日、東山道先鋒総督兼鎮撫使(総督岩倉具定、副総督岩倉具経、参謀乾(板垣)退助(土佐藩)、伊地知正治(薩摩藩)を編成。

2022-08-02 12:43:47
シービー @MrCB_Harukaze

同6日、北陸道先鋒総督兼鎮撫使(総督高倉永祜、副総督四条隆平、参謀船越洋之助(衛)(広島藩)、小林柔吉(広島藩)、津田信弘(肥後藩)を編成。同9日、東征大総督(大総督有栖川宮熾仁親王、参謀広沢真臣(長州藩)、西郷隆盛(薩摩藩)、林通顕(宇和島藩))を編成した。

2022-08-02 12:45:05
シービー @MrCB_Harukaze

その後、東海道・東山道・北陸道の三方から旧幕府勢力討伐を目指して進軍する。しかし、その途中、前将軍徳川慶喜が新政府に恭順した為、会津藩討伐に目標を変更し、北陸道先鋒総督兼鎮撫使は北陸越後津川口から会津藩を攻めることとし、まず越後を攻めることにした。

2022-08-02 12:46:00
シービー @MrCB_Harukaze

北陸道先鋒総督兼鎮撫使は後に会津征討越後口総督府に再編成される。このとき、奥羽越列藩同盟との間に行われたのが北越戦争である。

2022-08-02 12:46:33
シービー @MrCB_Harukaze

4月23日、長州藩山県狂介と薩摩藩黒田了介の両名が北陸道先鋒総督兼鎮撫使参謀に命じられる。このころの北陸道方面軍は、長州藩の山県狂介と薩摩藩黒田了介の両参謀の指揮下に薩摩藩兵4個中隊相当(城下士小銃隊十番隊・ニ番遊撃隊・外城三番隊・同四番隊)

2022-08-02 12:47:29
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩兵6個小隊(奇兵隊一~六番隊)、長府藩兵4個小隊(報国隊一~四番隊)等の編成であった。狂介らは当時最大の藩である加賀藩を降して新政府軍に組み入れ、更に越後高田藩も配下とした。

2022-08-02 12:48:14
シービー @MrCB_Harukaze

高田藩降伏後、東山道先鋒総督府所属だった軍監岩村岩村精一郎(土佐藩)率いる尾張藩兵8個小隊・大垣藩兵3個小隊・松代藩兵12個小隊(五~八番狙撃隊・一~六番小隊・一~二番遊軍)及び13個砲兵隊・松本藩兵7個小隊・高遠藩兵2個小隊・高島藩兵2個小隊・飯山藩兵1個小隊・飯田藩兵1個小隊・

2022-08-02 12:48:57
シービー @MrCB_Harukaze

上田藩兵2個小隊・竜岡藩兵1個小隊の戦力も指揮下とした。その後兵を二手に分け、北陸道総督府軍監三好重臣(軍太郎)(長州藩)率いる「海道軍」と東山道総督府軍監岩村精一郎率いる「山道軍」に分かれて進軍し、長岡で合流する計画を立てた。

2022-08-02 12:49:45
シービー @MrCB_Harukaze

当時、京に赴任し、江戸へ出向要否という時期(おそららくそれ以降も)は、蔵六は「官僚」だった(ということを理解しないと、見えない部分が多いと思います。蔵六は官職上、軍人ではなく文官です。

2022-08-03 14:41:22
シービー @MrCB_Harukaze

とはいえ、維新以降の立法・行政・司法の制度は、短期間で変わるので、そもそも官僚と軍人の仕訳がちゃんとしていたのかという疑問も当然ある。蔵六が江戸で戦略や戦術を組み立てていたというのも、官僚が現場に。ということなので。でも、その曖昧さが良くも悪くも明治初期政府でしょう。テヘペロ。

2022-08-03 14:46:43
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六が戊辰戦争に深く関わったきっかけとすれば、江戸に赴任し、上野戦争だけでなく、大総督府や東海道先鋒総督府から新政府官僚として上に立って北陸道先鋒総督を会津攻めの総督府に改変を・・・。

2022-08-03 14:51:06
シービー @MrCB_Harukaze

わかり安く言えば東海道は大総督府とほぼ同じ。東山道は越後高田藩占領から越後方面と関東方面に分岐。北陸道は越後主目的から会津攻めに変わったということでしょうか。

2022-08-03 14:58:20
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六が新政府で終生「官僚」であっ、ということは「シビリアンコントロール」の原型では?という、妄想憶測。できます。

2022-08-03 15:02:36
シービー @MrCB_Harukaze

北陸道先鋒総督を会津攻めの総督府に改変にしたのは、どうやら蔵六らしい(確認不備ですが)。この時以来、狂介の権力は総督や了介を超えて大きくなる。ほぼ、戦力をどう配置するかは狂介の意のままになる。とはいえ、上越・庄内・秋田と会津を両方向かつ同時に攻めるには必要な権力かも。

2022-08-07 16:37:50
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、庄内方面と会津方面への二方面への戦力配置は苦労したようで(そりゃそうだ)。その辺は、『進撃の市ぃ』のモーメントで参照ください。

2022-08-07 16:44:58
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六が主張した「枝葉を削げば幹は枯れる」(意訳)の重要な所は、力攻めをしないことで会津藩から和平交渉を持ち出す、ということだと思う。個人的な妄想であるが、そうすれば、いわゆる「観光史観」はなかったのではないか。

2022-08-13 21:39:24
シービー @MrCB_Harukaze

板垣、伊地知は、いきなり「幹」を切り落とすために力業で攻めに攻め、恨みを買い、後の「観光史観」を形成させてしまった。と。蔵六は、戦は「政治問題の解決策」と考えていたと思うのだが、板垣は「武力で解決」と単純であった。やはり、人物的に板垣は蔵六にかなわない、と個人的妄想憶測。

2022-08-13 21:44:09
シービー @MrCB_Harukaze

小千谷会談。岩村精一郎の河井継之助に対する態度が非難されがちだが、当時の新政府の方針に従っただけである。仮に、狂介が応じていても、返答は同じであろう。ただ、狂介なら河井を国もとに返さなかったであろうが。それはささいなことで、要は当時の先鋒総督府の方針であったということある。

2022-08-14 19:39:39
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年3月、奥羽鎮撫総督府(総督九条道孝、副総督沢為量、参謀に醍醐忠敬、薩摩藩大山山格之助、長州藩世良修蔵)が会津討伐のため仙台に到着した。

2022-08-18 12:14:43
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年3月19日、仙台藩松島湾に上陸した奥羽鎮撫総督府一行はその後仙台に入り、藩校養賢堂を本営とした。東征大総督府ほか各先鋒総督府もそうであるが、総督自体はお飾り的存在で、実際には薩長土藩士をはじめとした参謀が実権を握っていた。

2022-08-19 18:58:09
シービー @MrCB_Harukaze

奥羽鎮撫総督府では薩摩藩大山格之助、長州藩世良修蔵である。総督府の最大の目的は会津討伐である。仙台藩主伊達慶邦に会津征伐を命じる。大山・世良が仙台藩重臣但木土佐・坂英力に対し、会津征伐を急ぐよう厳しく攻め立てる。翌日、藩主に対しても同様な姿勢を見せた。藩主伊達慶邦はすぐに退出した

2022-08-19 18:59:06
シービー @MrCB_Harukaze

この時点では仙台藩は新政府には降伏はしていない姿勢として新政府恭順であったが、総督府は当初からまるで降伏者への態度を取っている。当然、仙台藩士からは恨みを買ったし、会津藩征伐反対論が勢いを得てくる。しかし。この空気を読まず、大山・世良両参謀はいよいよ会津征伐の督促を強める。

2022-08-19 19:00:19
シービー @MrCB_Harukaze

仙台藩は、4月11日藩主伊達慶邦自ら兵を率い出陣、白石城を本営とした。九条道孝総督も翌12日、薩摩・長州・越前藩ら諸藩の兵を率い出陣、岩沼を本営とした。14日には大山格之助が副総督澤為量のもと薩摩・長州藩兵を率いて新庄に向かう。後に奥羽越列藩同盟の要となる庄内藩を牽制する姿勢をとった。

2022-08-19 19:01:27
シービー @MrCB_Harukaze

長州クラスタのご期待に応え、奥羽方面への諸隊派兵情報。鋭武隊100、第一大隊200、第四大隊20、毛利出雲一手100、第二砲隊半砲隊50。第一大隊は銃隊、第四大隊は四境戦争直前に大組中間を中心に組織された諸隊ではなく毛利家家臣部隊である。

2022-08-19 19:12:55
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六が江戸に派遣されてからは奥羽と北越に対して積極的に関わってくる。そもそも「東征」大総督府が「東征」に関して司令塔の役割を果たすべきなのであるが、江戸の彰義隊と関東近辺の旧幕府勢力(大鳥圭介等)への手当で精一杯であり機能不全であったっためでしょう。

2022-08-19 19:17:18
シービー @MrCB_Harukaze

補足です。鋭武隊は、八幡隊(総督堀真五郎)と集義隊(総督桜井慎平)を合併させた部隊です。

2022-08-19 19:40:41
シービー @MrCB_Harukaze

仙台藩は奥羽鎮撫総督府に強制されて出兵したものの、藩内では会津藩擁護論が多数派を占めていた。そのため、藩士若生文十郎を会津に派遣して降伏の説得をする。ただ、藩内では全面降伏論ではなく寛大処分での降伏を求める派閥もあった。

2022-08-20 13:47:49
シービー @MrCB_Harukaze

総督府恭順派の三好監物は失脚する。若生が提示した降伏条件は、領地の削減、藩主父子の謹慎、首謀の家来の死罪の三つであり、総督九条道孝は概ね了承していたようである。当の会津藩では議論が発散したが、勧めに応じて降伏を申し出る方向にまとまりつつあった。

2022-08-20 13:48:09
シービー @MrCB_Harukaze

4月29日、仙台藩と会津藩の使者は談判の場を設け、米沢藩が立ち会った。会見は紆余曲折したが、概ね会津藩は条件を了承した。

2022-08-20 13:48:37
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、会津藩の強硬派家老から嘆願書が提出され「鳥羽伏見の戦いの非を認めない」ものであった。仙台藩と米沢藩は当惑したが、会津藩から一定の恭順姿勢が観られたということで、閏4月4日に総督府に対して停戦処置を報告する。

2022-08-20 13:48:49
シービー @MrCB_Harukaze

この間、会津藩は4月10日、庄内藩と密約をを結ぶ(いわゆる「会庄同盟」)。「仙・米・会・庄四藩の同盟が成ったら奥羽諸藩は一言にして同盟するに違いない」と、すでに奥羽列藩同盟による新政府への抵抗意志を匂わせている。

2022-08-22 19:18:00
シービー @MrCB_Harukaze

閏4月4日、仙台・米沢藩は奥羽諸藩の家老に書簡を出し、会津藩の嘆願を評議したいので白石に出張して欲しいと訴えた。これに応じて東北諸藩の要路は白石に集結する。結局27藩の重臣が署名し、会津藩に対して寛大な処置を求める願書が閏4月11日に作成される。後の奥羽列藩同盟の下地と言って良い。

2022-08-22 19:18:22
シービー @MrCB_Harukaze

翌12日仙台・米沢両藩主は岩沼の奥羽鎮撫総督府に向かった。九条実道孝総督は会津は降伏しないのではと疑念を抱いた。一旦願書は受け取り、参謀の世良修蔵の意見を聞いた。結局、世良の強硬意見が通り、17日に以前求めた三条件による無条件降伏を仙台・米沢両藩に通達された。

2022-08-22 19:18:47
シービー @MrCB_Harukaze

閏4月19日、仙台・米沢藩は会津征討軍の解兵を奥羽鎮撫総督府に伝え、鎮撫総督府はこれを承認した。九条総督の独断と言われている。この日、参謀世良修蔵は福島に到着している。仙台藩士は福島藩士とともに世良の宿所金沢屋を襲撃した。世良は捕らえられ翌20日須川の河原で斬首された。

2022-08-23 19:51:57
シービー @MrCB_Harukaze

その日には、九条総督が仙台に移り、仙台藩の監視下に置かれるようになる。また同じ日、白河は会津藩により占領される。

2022-08-23 19:52:20
シービー @MrCB_Harukaze

世良修蔵の暗殺の原因は、世良が福島に着いた閏4月19日、新庄に駐屯している大山格之助に対して密書を作成。それを送るために福島藩に使者を依頼する。が、この密書が仙台藩士に漏れる。いきさつは諸説あるが、奥羽の盟主である仙台藩の意向を福島藩が組んだというのが正解というのが”僕の”考えである

2022-08-23 19:53:25
シービー @MrCB_Harukaze

二階から呼ばれてなんて創作にしか思えません。その密書に「この上は一応京都へ出向き、奥羽の実情をじっくりと申し入れて、『奥羽皆敵』と見なして、逆襲の大策を練りたいと思っております」とあり、『奥羽皆敵』という文字が怒りを誘い、暗殺されたというのが定説です。

2022-08-23 19:53:45
シービー @MrCB_Harukaze

ですが、偽造されたという説が根強く、実際仙台藩も後に偽書と認めています。要は暗殺の言い訳が欲しくてそのように伝えて暗殺したが、後に新政府に責められ偽書だと説明したのでしょう。ちなみに、「密書」は複数存在し、そのどれもが所々書き換えられている可能性が高い(『東北戦争』山田野理夫)

2022-08-23 19:54:49
シービー @MrCB_Harukaze

世良修蔵暗殺の知らせを聞いた蔵六はは、「世良修蔵に関する覚書」という書を書いている。「世良修蔵は福島にて仙台藩甲東憲八郎討取。髪は会津に行、首は仙台に行。胴は阿武川に流す。これ薩藩分取の書中にあり」 世良修蔵は同郷のこともあり、その死を悼んだのであろう。

2022-08-23 19:54:56
シービー @MrCB_Harukaze

閏4月22日、奥羽25藩の家老が白石に集まり、いわゆる「白石盟約書」に調印する。時期を同じくして「奥羽同盟列藩軍議書」が起草された。閏4月27日、太政官への建白書が仙台藩によって起草される。これらは後に改定されるが、要は薩長を国賊と非難し、新政府に対する強硬姿勢が貫かれていた。

2022-08-24 18:40:06
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.