日本国憲法9条2項は、日本人は阿呆か野蛮かのいずれかであると言っている条文である。 9条を守り敵に屈したとしても、人は個人の尊厳をもっているのであるから、生きてさえいれば良いという事だ。このとんでもない考え方を絶対平和主義と言う。
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遠田大亮 @DaisukeEnta

ここで憲法解釈こそが根本規範だというのは、その解釈に関する議論の蓄積の方にこそ国民の根本規範に関する常識・良識が反映されているということである。それは、常識・良識から遊離した成文憲法の(第9条のような)条文に対して、機能停止の宣告をするということでもある。 国民の道徳西部邁

2023-03-14 08:28:22
遠田大亮 @DaisukeEnta

それはまた、憲法学者のような特別な存在はいなくて良いということでもある。憲法学者の解釈に合わせるように国民の常識・良識を変えるというのは、憲法学者として倒錯している。憲法学者がいても良いが、その最大の仕事は、憲法の条文を解釈して、それを国民にあてがうことではなくて、国民自身の根本… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-14 08:38:09
遠田大亮 @DaisukeEnta

【道徳について考えなくて良い人間観】… twitter.com/i/web/status/1… pic.twitter.com/9b0xenmXcu

2023-03-15 08:52:51
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遠田大亮 @DaisukeEnta

近代は、ニーチェという哲学者によれば、「価値判断能力の衰退」によって特徴づけられるのである。じっっ際、近代における宗教の衰退とともに、世間の道徳もまた弱まる一方であったと言ってよい。とくに近代が世紀の変わり目にまで達した今、道徳の衰弱のために家族、学校そして地域社会が赤裸に崩壊の… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-16 08:07:21
遠田大亮 @DaisukeEnta

道徳が地に堕ちたことを象徴するかのように、幼児虐待事件や校内暴力事件、少年たちによる残虐な「いじめ」事件や陰惨で突発的な17歳の殺人事件、セクシャルハラスメント事件やストーカー事件そして生命保険を目当てにした家族殺し事件や役人の汚職事件や経営者の背任事件などが、連日のようにマスメデ… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-16 08:11:18
遠田大亮 @DaisukeEnta

しかもこれは先進諸国に多かれ少なかれ共通する現象と言ってよい。国柄の違いによって事件や犯罪の性格に多少の差はあるものの、近代化に成功した各国が道徳の崩壊としか言いようのない社会病理に悩まされていつことは隠しようもない。 国民の道徳西部邁

2023-03-17 08:17:52
遠田大亮 @DaisukeEnta

なぜ現代はかくも深く不道徳によって彩られているか。いろいろな理由が考えられるが、その最も根本的な理由は、道徳について考えないで済ましうるような人間観を、まるで観念のトリックのようにして、近現代社会が採用したという点にある。 国民の道徳西部邁

2023-03-17 08:20:35
遠田大亮 @DaisukeEnta

その人間観とは「個人の尊厳」という価値観のことであり、それが近代社会の価値観の大前提になっているのである。個人の尊厳という価値に対する解釈は様々ではありうる。とりあえず、世俗的な受け取られ方でいうと、どんな個人も生まれながらにして尊厳性を付与されている、という人間観のことを指す。… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-17 08:24:00
遠田大亮 @DaisukeEnta

自分は尊厳に満ちた存在であると構えてしまえば、誰しも道徳とは何だろうか、価値的に力強く生きるとはどういう事だろうか、とわざわざ考えなくて良くなる。つまり、生きていることそれ自体によって、すでに尊厳ある生き方を補償されている、と近現代人の多くは考えてきたのである。 国民の道徳西部邁

2023-03-17 08:27:40
遠田大亮 @DaisukeEnta

尊厳とは、言うまでもなく気高いことを指す。近現代人として、その本心では、自分が尊いとも厳かであるとも思っていない。誰しも、自分の現実は、極端な場合には悪党であるし、平均的な場合では知性においても特性においても不完全な代物であるということを、心の内面では自覚している。… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-17 08:34:27
遠田大亮 @DaisukeEnta

しかし心の外面では、ということは社会という名の世間における存在を仕方としては、自己も他者も尊厳ある人間なのだという風に言われている。そういう建て前に基づいて、尊厳ある人々のコミュニケーションの場、それが世間であるとみなされている。自分たちのやっている言語的な意思疎通なり経済的な取… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-17 08:40:48
遠田大亮 @DaisukeEnta

【他者に迷惑をかけない援助交際は容認される?】 個人の尊厳という大テーゼが、結局は道徳についての努力を放棄させるに至った経緯を戦後日本に即して考えて見よう。… twitter.com/i/web/status/1… pic.twitter.com/zL31YtUBpG

2023-03-18 09:01:29
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遠田大亮 @DaisukeEnta

それは、「平和と民主」そして「進歩とヒューマニズム」という価値の4つの柱に他ならない。これらの価値は全て個人の尊厳と言う事と関係がある。それは、どういう事か。… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-19 10:10:46
遠田大亮 @DaisukeEnta

次に民主と言うのは、社会の比較的多くの人々の意見や行動によって物事が決まる方式の事である。従って、尊厳ある個人と言うという大原則からすれば、社会の多数派の方にこそ尊厳性が、いわば知性や徳性の足し算として、多いであろうと言う想念につながり、それで民主が揺るぎない価値となる。… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-19 21:18:07
遠田大亮 @DaisukeEnta

進歩についても然りである。尊厳ある諸個人が起こす変化なのであるから、そこには良き事態への前進という意味での進歩が内包されている、とみなす価値観が、つまり進歩主義が不動のもとなる。そしてヒューマニズムは個人の尊厳とほとんど同一の人間礼賛の思想であり、人間の振る舞いを全て称賛に価する… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-19 21:24:52
遠田大亮 @DaisukeEnta

逆に言うと、礼賛できぬ振る舞いがあるとしたら、それは、ヒューマニズムを抑圧する何らかの悲しき勢力や要因のせいだとされる。このようにして、戦後の価値体系には道徳への探求をなおざりにする強い傾向が生まれたのである。… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-19 21:31:38
遠田大亮 @DaisukeEnta

それこそは、人間の尊厳という価値に発する人命第一主義の見本である。思えば、日本国憲法の第9条もその価値観に基づいて擁護されてきたのであった。つまり「戦力の否定と交戦の否認」がどうして長きにわたって素晴らしい事の様に言われてきたかと言えば、尊厳ある人間にとっては、何はともあれ生きな… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-19 21:41:14
遠田大亮 @DaisukeEnta

日本国憲法第9条を守り武力も持たず挑まれた戦いにも応戦せず、という事は敵方に屈従してその従僕になろうが、人間は生まれながらにして個人の尊厳をもっているのであるから、生きていさえすれば、尊厳性が保証されるというわけである。そこからいわゆる絶対平和主義というとんでもない観念が何十年も… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-19 21:46:35
遠田大亮 @DaisukeEnta

現在のわかりやすい例で言うと、援助交際という名の少女売春あるいは中年男たちの少女買春がある。尊厳ある人間という前提に立ってしまうと「他社に迷惑をかけない限り」人間の自発的選択に基づく行為は容認され、さらには称賛されなければならないと言う彼女らの言い分の前に、社会の方が譲歩を迫られ… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-20 08:28:19
遠田大亮 @DaisukeEnta

【ヒューマニズムは人間の傲慢な自己礼賛】 次の様に言い換えても良い。人間は、大いにしばしば、性悪というほかない振る舞いに及んでいる。性悪といって語弊があるならば、様々な… twitter.com/i/web/status/1… pic.twitter.com/YBOxGiY90J

2023-03-20 08:42:09
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遠田大亮 @DaisukeEnta

未開社会にまで遡れば、例えば近親相姦のような犯してはならないタブーというものがある。逆に言うと人間は、少なくとも可能性として、殺したり盗んだり騙したり悪としかいいようのない事をなすのだ、と人間自身が気付いていたという事である。そうした人間行為の現象だけ注目すれば、人間の尊厳という… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-21 09:39:56
遠田大亮 @DaisukeEnta

しかし、そんな人間観が何百年にもわたって普遍性を誇りながら世界に普及してきたのはなぜか。それは自分の性悪ぶりを意識する力が人間にあるからに他ならない。つまり、人間にとって悪の自覚こそが善の根拠だという事である。その自覚は理性あるいは良心によって果たされる。 国民の道徳西部邁

2023-03-22 08:40:05
遠田大亮 @DaisukeEnta

人間は性悪なものである、不完全なものである、と認めればこそ宗教的戒律や道徳的規律や法律的規則という禁止の体系を作る。そして、その禁止の体系に基づいて、人間は自らの性悪や不完全さに対して対応策を練る。ということは、人間に関して性善説と性悪説のいずれかをとるという二者択一をしているわ… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-22 18:22:42
遠田大亮 @DaisukeEnta

性悪であったり不完全性に転落したりするというのが、人間の現実の少なくとも半面ではある。しかしそのことを洞察し、それに対してできるだけの防止策や改善策を張り巡らすべく努力するという意味においては、人間には理性の力と良心の力があると認めざるを得ない。 国民の道徳西部邁

2023-03-22 18:54:03
遠田大亮 @DaisukeEnta

個人の尊厳というヒューマニズムそれ自体は、軽率もしくは傲慢な人間の自己礼賛にすぎない。しかし、人間にはなかなかに良き精神の力もある。また、そういう精神力があるとしなければ、価値について力強くあろうとする、等という道徳的な生の目的も生まれはしない。しかし、その力を過大評価して、不完… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-22 18:59:03
遠田大亮 @DaisukeEnta

なぜ、そのような傲慢の罪とでも言うべき態度を近現代人は取り始めたのか。それは、理性といい良心といい、「個人」の精神的な力量として発揮されるものだからである。デカルトに倣って言えば、「我思う、故に我あり」である。思うことに限らず、感じたり行なったりすることについても、まぎれもなく、… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-23 08:05:17
遠田大亮 @DaisukeEnta

社会には集団もあれば制度というものもあるのだけれども、集団や制度はそれ自体としては感じたり思ったり行ったりする主体ではない。つまり人間は自意識を発見し、それをサブジェクトつまり主体としたのである。至高の存在がしっかりと想定されている場合にはサブジェクトは、「主体」であると同時に、… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-23 08:14:17
遠田大亮 @DaisukeEnta

つまり、あらゆる感情、思考そして行動の始発点、それが自己という名の主体だとされる。そういう人間の自己発見とともに近代意識というものが芽生えてきたわけである。その結果、主体としての個人が、その根本に、理性や良心を保有しているのだと思われはじめた。それが、「個人の尊厳」というテーゼに… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-23 08:20:28
遠田大亮 @DaisukeEnta

【民主主義における「民」とは何か】 民主と言うのは、読んで字のごとく、民に主権があるという事であり、そして主権とは、曖昧にいえば無制限の権力ということである。… twitter.com/i/web/status/1… pic.twitter.com/kFcgSHcXr5

2023-03-24 09:30:23
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遠田大亮 @DaisukeEnta

だが、国の民という観念は敗戦とともに放棄もしくは希釈された。 従って、戦後の民主主義は、言葉の上では国民主権と言われているが、その実質は、歴史感覚なき民のことしか念頭におかないものとしての人民主権主義であった。 国民の道徳西部邁

2023-03-24 12:41:44
遠田大亮 @DaisukeEnta

崇高な権力さらには無制限の権力は、「実態」としてはあってはならないものである。それは高々、憲法制定権力の権限を高度のフィクションとして想定する、と言う意味での主権にとどめられるべきものである。だから、主権者が実態として存在するのは、天皇主権にせよ国民主権にせよ、有害にして無益と言… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-24 12:46:01
遠田大亮 @DaisukeEnta

なぜならそれは、知徳において不完全でしかありえない人間(たち)に絶対の権力を付与することに他ならないからだ。主権を名乗ることが許されるものがあるとしたら、それは、国民が引き受けようとしている歴史の英知くらいであろうが、しかし、その英知は国民によって探求されるべきものであって、実態… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-24 12:54:16
遠田大亮 @DaisukeEnta

つまり歴史の英知(伝統)という観念は、それを内包する慣習体系のことも含めて、権力の源泉というよりもむしろ、パワー(権力)の源泉たるオーソリティ(権威)の源泉とみておいた方が良いのである。 国民の道徳西部邁

2023-03-24 12:59:03
遠田大亮 @DaisukeEnta

道徳の基礎の上に法律が作られる、という秩序の基本構造は守られなければならない。 その構造が解体してしまったら道徳に無関心な法匪あるいは法律に冷淡な道徳漢が社会を混乱させたり抑圧するに決まっている。 国民の道徳西部邁 pic.twitter.com/ot1eYwqy8c

2023-03-25 12:55:55
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遠田大亮 @DaisukeEnta

近代社会は、確かに、形式的合理的な法律体系を作ろうと努めてきた。しかし法律は、実質的合理性を備えていなければ、安定し得ない。そして、その実質がどこからくみ取られるかと言えば、道徳をおいて他にはありえないのである。その意味でなら法律という形式合理と道徳という実質合理は互いに支えあっ… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-26 09:39:45
遠田大亮 @DaisukeEnta

なぜこのことを確認しておくかというと、戦前・戦中のいわゆる天皇主義を批判するに当たって、近代主義者たちは、当時の日本国家が法律の形式合理化を行っていなかったことをことさらに取り上げてきたからである。 国民の道徳西部邁

2023-03-27 08:13:20
遠田大亮 @DaisukeEnta

つまり、そのために、天皇への崇敬という(感情の凝縮度としての)実質的なものが重きをなし、その崇敬の念の濃淡によって社会秩序が作られてしまったというのである。しかしそれは、国柄を徹底的に無視した上で、いわば純粋法律の世界を構築しようとする設計主義にすぎない。 国民の道徳西部邁

2023-03-27 08:14:39
遠田大亮 @DaisukeEnta

【道徳教育のなかの徳義と徳目】 日本においては、敗戦までは教育勅語というものがあり、それに基づいて、道徳教育が行われていた。明治憲法が国家規範を示し、教育勅語が、その規範に沿うような国民を育成するための、教育原理を指示していたということである。 国民の道徳西部邁 pic.twitter.com/uNwl2beCcY

2023-03-27 13:56:50
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遠田大亮 @DaisukeEnta

日本が国家として危機的な状況に追い込まれて行くにつれ、他国と敵対せざるをえなくなり、そこで、教育勅語に基づく教育の具体的過程が政府統制の方向に傾いたことは否めない。例えば、天皇の御真影に対していかに礼を尽くすかの細かな徳目までが指定されていった。 国民の道徳西部邁

2023-03-27 14:02:25
遠田大亮 @DaisukeEnta

しかし御真影にせよ日の丸・君が代にせよ、常に直立不動で対すべし、というのは儀礼の過剰である。国家の危急存亡に際しての日の丸と、村のちょっとした催しにおける日の丸とは、意味が異なってくるからである。出征兵士を送るときの君が代と、新年を迎える時の君が代とも意味が違う。… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-27 14:05:22
遠田大亮 @DaisukeEnta

それが、ステレオタイプの徳目になってしまう人々の表現を鋳型にはめることになる。日本だけではなくて、世界のいたるところに、徳目が表現の抑圧手段となる歴史があったのである。 徳義という観念は極めて重要であるが、それを徳目として指定をする場合には極めて注意深くなければならない。… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-27 14:09:00
遠田大亮 @DaisukeEnta

学校での教育の現場、家庭での躾の実際、社会での慣行の実状、そういう場面における柔軟性に富んだ実際知の応用のなかでしか徳目の意味は定着しない。簡単に言うと、道徳教育にあっては、一般的なものとしての徳義を教科書で示すことは可能であろうが、それを徳目として具体化するに当たっては、学校の… twitter.com/i/web/status/1…

2023-03-28 08:32:50
遠田大亮 @DaisukeEnta

戦後、子供の躾を家庭や社会にあずけ、学校はその仕事をほとんどやらなくなった。そのこと自体は、学校は主として知識教育を行う場なのであるから、やむを得ないことではある。しかし肝心の家庭・社会がそうした躾を行う能力を欠いていたのである。 国民の道徳西部邁

2023-03-28 08:39:14
遠田大亮 @DaisukeEnta

そうなったことについてはいろいろな理由があるがその一つは、生活の場において子供たちに徳目を具体的に教え込んでいくことが、国民の大きな義務だということが確認されてこなかった事にある。 国民の道徳西部邁

2023-03-28 08:39:46
遠田大亮 @DaisukeEnta

戦前の教育勅語に関するのと同じことが、戦後の教育基本法についてもいえる。教育基本法は、日本国憲法が施行される直前の、1947年3月に施行された。アメリカの派遣した教育使節団の要求に応じてのことである。 国民の道徳西部邁

2023-03-28 08:42:46
遠田大亮 @DaisukeEnta

憲法によって示された日本の国民および政府にとっての価値観と規範を子供たちに対していかに教え込んでいくか、その基本線を示したのが教育基本法である。それによってアメリカニズムの原理による洗脳、精神制御あるいは刷り込みが推し進められた。 国民の道徳西部邁

2023-03-28 12:42:36
遠田大亮 @DaisukeEnta

これはアメリカの押し付けということよりも、むしろ敗戦のショックで心理的深手を負っていた日本人たちが、周章狼狽して、自分らの歴史から遠ざかりたいと思い、それで、そういうアメリカから与えられたものを自ら押し戴こうとした。 国民の道徳西部邁

2023-03-28 12:46:48
遠田大亮 @DaisukeEnta

つまり、みずからの主体性を空虚にし、その空洞に吹き込まれたのが日本国憲法と教育基本法であった。 教育基本法は、きわめてアメリカ的なものである。それを強引に日本に注入しようとしたため、教育基本法は法律としてきわめて特殊な形をとっている。 国民の道徳西部邁

2023-03-28 12:52:06
遠田大亮 @DaisukeEnta

つまり、普通の法律には前文などというものはないが、教育基本法には前文があり、その前文と諸条項で強調されているのは、子供たちに「自主的精神」を持たせる必要があるということである。個人の尊厳性と個人の自主性、それがこの法律の眼目なっている。 国民の道徳西部邁

2023-03-28 12:57:34
遠田大亮 @DaisukeEnta

子供たちに徳義・徳目を伝えることの意義については一言もない。これが憲法と一対になって、戦後日本人の価値観とそれにもとづく規範意識を半世紀以上にわたって方向づけ決定づけたのである。 国民の道徳西部邁

2023-03-28 13:00:10
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まとめたひと
遠田大亮 @DaisukeEnta

農業、農政、農協等“農”に関してのツィートが多いです。 (個人的には)GHQの占領政策や押し付けられた憲法を金科玉条としたままでは、日本農業はもっと衰退すると考えています。 山形県農協中央会勤務。農協監査士。明治大学法学部卒。山形県酒田市出身。 過去のツィートは、以下↓のまとめサイト(min.t)からどうぞ。