兵は凶器なり。帝室を守護し人民を安全にするの具、国に法あり律あり、教育あり。
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シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)7月8日、明治政府で官制大改革が行われ、兵部省を設立。兵部卿に仁和寺宮嘉彰親王、兵部大輔に大村益次郎が就任した。ちなみに、このとき参議には副島種臣と前原一誠が就任し、木戸、大久保、板垣らの大物は待詔員院学士に就任。今までの激務を解く意図だったらしい。

2021-08-22 18:58:56
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、大物がいないため直ぐに行き詰まり、7月23日に大久保利通、広沢真臣が参議となる。桂さんは病気と称して自体した。大村益次郎は本格的に軍政改革に乗り出し、大阪に軍事拠点を置く「海陸軍建設要綱」を上申するべく、京阪方面の実地検分を予定する。

2021-08-22 19:04:30
シービー @MrCB_Harukaze

7月27日、大村益次郎は中山道で京阪を目指して東京を発つ。途中、兵部省権大丞船越衛が甲府まで追いかけてきた。蔵六の軍政改革に反対していた薩摩藩の黒田了介と村田新八が岩倉具視に協力したいと申し出たという。蔵六は裏があると読んだのか、ある決断を話す。

2021-08-22 19:11:18
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は「それでは薩摩藩から黒田と村田を出仕させなさい。大丞の山田顕義を諦めてもよい」と船越に話す。そして代わりに長州からは「品川弥二郎を出しなされ」という。「山田の方が兵のことはよく知っているが、黒田と村田では論が合わぬ。品川は交情が良い」と。市ぃの頑固さを避けようとしたのだろう

2021-08-22 19:18:02
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、この話は蔵六の暗殺でうやむやになる。市ぃは蔵六と同じ7月8日に兵部大丞に就任し、以降外されたという話しもない。やじは蔵六死後、12月に弾正小忠に就任している。ところで、兵部大輔に次ぐ少輔の席はこのとき空白である。この意味も後に分かる。

2021-08-22 19:23:25
シービー @MrCB_Harukaze

明治2年(1869)9月4日午後6時ごろ、兵部大輔大村益次郎が京木屋町の旅宿で襲われる。蔵六は命を取り留め、大阪府仮病院に搬送される。桂さんは休養中の箱根で9月10日ごろ事件を知り、「(略)刺客八人乱入(略)生命つつがなきを見、ひとまず安堵せり。」と記している。しかし、11月5日絶命。享年45

2021-08-23 18:38:18
シービー @MrCB_Harukaze

11月12日「夜11時過ぎ戸を叩く者あり。(略)山田市之丞らより書翰到来。」と大村の死去を知らせる手紙を市ぃも桂さんに送っている。蔵六の死後、当然兵部省は混乱に陥る。大久保利通は、11月23日に黒田清隆と川村純義を兵部大丞に就任させた。薩摩主導で軍政をにぎりたかったのであろう。

2021-08-23 18:44:43
シービー @MrCB_Harukaze

大丞3人制のもとで、兵部省は山田顕義、船越衛らの大村派と黒田、川村の大久保派が対立する。市ぃは蔵六の計画を完遂するべく大阪に移る。「大村先生の御計画は大村さんの薨去後山田兵部大丞後の伯爵(略)大部分は実行しました」と小丞曾我祐準が述べている。

2021-08-23 18:54:39
シービー @MrCB_Harukaze

山田顕義は大村遭難時山口にいたが、9月16日に許可をもらい、大阪の大村を見舞っている。万一に備えて、大村の計画を詳しく聞いた。それが役だったし、また、市ぃが「大村の後継者は自分である」ことを強固なものにしたのかもしれない。

2021-08-23 19:04:20
シービー @MrCB_Harukaze

この頃、山県有朋は、明治2年(1869)6月28日に西郷従道とともに渡欧し、英・仏・独・ロシアなど7ヵ国の巡遊に出かけていて日本にはいない。空席の大輔をそのままにしておく訳にはいかず、12月2日、大村亡き後の兵部大輔に前原一誠が就任する。

2021-08-23 19:08:13
シービー @MrCB_Harukaze

前原は戊辰戦争後、越後府判事に就任していたが年貢を半分にしたことで明治政府が反対し、桂さんが東京に呼び戻し、無理やり参議にしていた。しかし、もともと鬱気質の中で新政府のことが気に入らず、病気と称し、ほとんど出仕していなかった。

2021-08-23 19:11:58
シービー @MrCB_Harukaze

桂さんも心配したのか、このままではまずいと思ったのか、前原一誠に兵部大輔への就任を依頼する。八十朗は固持したが押し切られやむなく就任するが、就任初日から登庁しないという行動を取る。山田顕義は困惑した書状を前原に送っている「折角一同奉渇望居」と。

2021-08-23 19:22:07
シービー @MrCB_Harukaze

結局、前原一誠は兵部大輔としてほとんど出仕せず、あまつさえ辞表を3度提出している。当然、兵部省の仕事や大村の残作業は山田顕義がすべて行うことになる。明治3年(1870)9月2日、前原は鬱々とした気持ちの中で、大輔の任を解かれ、長州に帰ることになる。

2021-08-23 19:25:35
シービー @MrCB_Harukaze

時間を戻し、11月7日、大村益次郎の遺体が長州に送られ、それを見送ってから山田顕義は東京に向かう。12月28日に大阪兵学寮が開校したため山田顕義は、大村の意志を実現させるため、兵部省大阪出張所に移り、兵学寮の運営を軌道に乗せ、大阪を軍事拠点とする「海陸軍諸施設の建設計画を推進する。

2021-08-24 19:27:45
シービー @MrCB_Harukaze

山田顕義が軍施設の建設を推進していた明治2年(1869)12月から翌3年(1870)1月にかけ、長州藩内で不穏な動きが起こる。遊撃隊から脱隊した一部の兵らが三田尻周辺に集まりその数2000人となった。明治3年(1870)脱隊兵らは砲列を押しだし、山口藩庁を包囲する。

2021-08-24 19:53:33
シービー @MrCB_Harukaze

脱隊兵とは何か。戊辰戦争に参加した長州藩兵士は役5000人に登った。戊辰戦争が終わった後、長州藩はこの人数の兵士を持て余す。結果、「精選」と呼ばれる兵の選抜を行い、「親兵」(常備軍)として1500人を残し、他の兵士には帰郷を命じる。しかし、諸隊の多くは農民など貧しい階級が多く、不満が募る

2021-08-24 19:59:02
シービー @MrCB_Harukaze

その不満を抱いた兵が遊撃隊の脱隊兵と行動を共にしたことから、全体を「脱隊兵」と呼んだ。(合ってるかな?)藩庁を囲んだのは11月26日。この様な中で木戸孝允は帰国の途に着くが、神戸で所用のため足止めされている

2021-08-24 20:04:26
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩は桂さんの帰国が待ちきれなく、1月12日、毛利元徳知藩事から広沢真臣と前原一誠に帰国要請を行う。二人は1月12日、山田顕義を呼び対応に関して会議を開く。民部大輔(広沢真臣)よりも兵部大輔(八十朗)の方が兵は言うことを聞くのではないかということで、八十朗が帰国と決まるが・・・

2021-08-24 20:15:16
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、三条実美の慰留を受け、前原一誠は東京に留まらざるをえなかった。そうこうしているうちに、木戸孝允が山口に帰郷する。桂さんは慰撫に努めるが、旧藩主父子だけでなく、自身の危険を理解するにおいて、武力討伐しかないと決心する。

2021-08-24 20:19:44
シービー @MrCB_Harukaze

明治3年(1870)1月、木戸孝允が脱隊兵らの武力討伐を決意し、討伐軍を編成する。長府に駐屯していた常備軍300、第4大隊250、そして、大阪兵学寮から80人。この大阪兵学寮の応援部隊を率いるのは兵部大丞山田顕義である。

2021-08-25 19:14:17
シービー @MrCB_Harukaze

大阪兵学寮(陸軍教導隊)の応援部隊は伝習生と呼ばれ、いわば下士官候補生である。2月4日、山田顕義率いる伝修生80名は下関に到着し、第一軍に編成される。2月8日、討伐軍の進撃が開始された。桂さんと市ぃに率いられた第一軍は小郡に、第二軍は厚狭郡に徳山・岩国藩兵は第三軍とし勝坂関門に向かう。

2021-08-25 19:24:48
シービー @MrCB_Harukaze

小郡には旧整武隊兵士であり、山田顕義が総督を務めたことのある諸隊である。伝習生にも長州出身者が多くいて当初士気は上がらなかったという。この部隊の中に後の陸軍大将児玉源太郎がいた。高杉晋作→大村益次郎→山田顕義→児玉源太郎と続く長州軍事の系列が繋がる。

2021-08-25 19:31:48
シービー @MrCB_Harukaze

小郡に到着した第一軍は山口を目指して北上、柳井田関門で脱隊兵とぶつかった。第一軍はここで苦戦を強いられる。特に伝習生が弱かった。山田顕義は、伝習生を下がらせ三田尻から増援部隊を呼ぶ。第1回戦は押され気味の引き分けとなる。

2021-08-25 19:37:40
シービー @MrCB_Harukaze

脱隊兵の反撃は激しく、討伐軍はいったん三田尻方面まで後退する。このあたりの戦闘が最も激しく、討伐軍が撃った銃弾は7万発にも及んだという。2月10日、薩摩の西郷隆盛が木戸孝允に協力を申し出るが、木戸は断る。

2021-08-25 19:44:31
シービー @MrCB_Harukaze

2月11日、討伐軍は総反撃を開始する。山田顕義は未来の陸軍下士官候補を甘やかすことはせず伝習生を前面に配置する。宮市・勝坂・千切など防府方面の敵を撃破し、小郡も突破。山口に入り藩知事を解放する。

2021-08-25 19:47:47
シービー @MrCB_Harukaze

脱隊騒動での討伐軍の死者は20、負傷者64。脱隊兵の戦死者60、負傷者73と言われる。首謀者は斬首、遊撃隊30を最高に奇兵隊、整武隊と続き、協力した農民も含め133が斬首された。反乱者だけでなく、藩政府でも責任問題に発生し、権大参事兼三田尻管事楫取素彦が辞職した。

2021-08-26 18:01:35
シービー @MrCB_Harukaze

鎮圧後、明治政府で2つの出来事が起こる。1つは、前原一誠の兵部大輔辞職である。前原は帰国して説得を行う予定であったが、三条実美に慰留され東京に留まった。この裏工作をしたのは、三浦梧楼と井上馨であったが、前原は木戸孝允が黒幕と考え、木戸とは決定的な亀裂が生まれた。

2021-08-26 18:05:23
シービー @MrCB_Harukaze

前原一誠は、明治3年(1870)9月2日兵部大輔を辞職し、山口に帰郷する。その後、もっと大きな波乱に遭遇するがもう少し先のことである。もう一つは、山県有朋の帰国である。狂介は、木戸孝允と西郷隆盛の賛成を取り付け、岩倉具視に許可を得て、明治2年6月28日に巡遊に出発していた。

2021-08-26 18:17:14
シービー @MrCB_Harukaze

欧州から戻った山県有朋は、明治3年(1870)8月28日に兵部少輔に就任する。兵部大丞山田顕義の上司となったのである。もともと少輔の席は、大蔵益次郎時代は空席であった。おそらく、大村と木戸で協議し、巡遊中の山県のために空けて置いたものと思われる。

2021-08-26 18:23:38
シービー @MrCB_Harukaze

その後、大村暗殺直後の兵部省混乱期に公家の久我通久が少輔に就くが、混乱期の手当として一時的なものであったと思われる。大村と木戸は、薩摩と仲良くするためには、西郷と仲が良く、上越で指揮を行った山県が適任と考えたと個人的に考えます。

2021-08-26 18:28:09
シービー @MrCB_Harukaze

当初、山県は少輔就任を断っていた。それを見た三条実美右大臣は、「山田顕義大丞を少輔にするのが良い、が山県ならもっと良い」と考えていた。(「三条実美意見書」より)それらを踏まえて、山県は承諾した。もっとも、本当に断る気持ちであったどうか・・・

2021-08-26 18:32:03
シービー @MrCB_Harukaze

表だっては衝突しなかったが、山県と山田は兵制に関する考えが異なっていた。山県はプロイセン式が望ましいと考え、山田はフランス式を推していた。また徴兵制に関しても、山県はすぐに実現しようと考え、山田は時間を掛けるべきと考えていた。

2021-08-26 18:37:25
シービー @MrCB_Harukaze

さらに言えば、山県有朋は最初から大輔の席を狙っていた節がある。帰国当初は前原辞職前だったため就くことはできなかったが、薩摩の川村純義が少輔に推されている事を知り、少輔は川村に譲り、大輔には自分がと考えていたようだ。山県は明治4年(1871)6月25日に少輔を辞職し、7月14日に兵部大輔に就く

2021-08-26 18:42:07
シービー @MrCB_Harukaze

山県がプロイセン式を推したのは、欧州で実際に見たこと、普仏戦争でプロイセンが勝利したことなどの理由が考えられるが、西郷ら薩摩に近いこともあり、長州の大村構想を潰そうという意図が感じられる。山田顕義は争いはしないものの、これからの狂介との確執は予想できたに違いない。

2021-08-27 18:03:47
シービー @MrCB_Harukaze

当時、山県のライバルは、山田顕義、川村純義、黒田清隆の3人であったが、了介は明治3年(1870)5月に開拓次官となり、兵部省からは離れている。10月に開拓長官東久世通禧が辞任し、実質的な開拓使のトップとなっている。この頃、市ぃの資料を処分した疑惑に早乙女先生が触れているのは前に書いた。

2021-08-27 18:10:12
シービー @MrCB_Harukaze

同じく薩摩の川村純義は、兵部少輔に就いたため、大輔を狙う山県にとって恐れる存在ではなくなった。そして、最後に残った最大のライバルである山田顕義を兵部省から遠ざけようと考えたことは想像に難くない。

2021-08-27 18:12:43
シービー @MrCB_Harukaze

閑話休題。脱隊騒動も収まり、山県有朋が欧州巡遊から帰り、少し落ち着いた山田顕義は、明治3年(1870)に湯田温泉の瓦屋・鹿島屋喜右衛門の長女との結婚を考える。市ぃ28才、龍子19才である。郷里が同じ湯田温泉ということもあり、民部大輔井上馨に相談する。

2021-08-27 18:24:01
シービー @MrCB_Harukaze

問題は、龍子の実家が武士階級でなく、長州藩大組であった山田顕義との身分の隔たりであった。口利きをしていた井上馨が、自分の養女にして嫁がせることを提案する。養女になれば、同じく大組井上家の人間になり、身分の問題は解決される。

2021-08-27 18:27:09
シービー @MrCB_Harukaze

こうして話しはまとまり、明治3年(1870)10月、東京で山田顕義と龍子は結婚式を挙げた。(Wikiでは明治3年になっているが、古川先生説では明治4年(1871)10月の洋行前になっている。どちらだろうか)

2021-08-27 18:35:13
シービー @MrCB_Harukaze

山県有朋は、山田顕義に対して、洋行して外国の軍制を研究してもらいたいと話し、明治4年(1871)7月28日、陸軍少将に任じ、(兵部大丞は兼任していたが)兵部省の実務から遠ざけた。

2021-08-28 16:24:08
シービー @MrCB_Harukaze

山田顕義はこの頃、東京の駿河台東紅梅町に住んでいた。元大村益次郎の屋敷である。市ぃは気に入っていたが、11月に洋行の内示を三条実美から受け、11月12日に横浜港を出発した。いわゆる、岩倉使節団である。市ぃは理事官として乗り込んだ。

2021-08-28 16:28:19
シービー @MrCB_Harukaze

三条実美は理事官に対して「緊要な事務・情況をを観察し、その方法を研究講習して、帰国後の実務に役立てよ」と命令した。山田顕義は軍事分野を担当させた。理事官は他に、司法大輔佐佐木高行、侍従長東久世通禧、田中光顕などがいた。

2021-08-28 16:34:12
シービー @MrCB_Harukaze

明治6年(1873)6月24日、山田顕義は1年8か月ぶりに横浜に上陸して日本の地を踏む。そして、間もなく「陸軍少将山田顕義を東京鎮台司令官に補す」との辞令を受けた。市ぃが帰って来た時、日本の軍事制度は山県有朋によって大幅に変えられていた。

2021-08-28 16:47:00
シービー @MrCB_Harukaze

兵部省は、明治5年(1872)2月27日、陸軍省と海軍省に編成された。山県は陸軍中将陸軍大輔に就任する。このとき陸軍卿は置かれなかったため、実質トップは狂介であった。山田顕義は当然、陸軍省にポストはない。大村が構想し、市ぃが進めた大阪を軍事拠点にする計画は、狂介の手で東京中心に変えらていた

2021-08-28 16:55:36
シービー @MrCB_Harukaze

また、山田が慎重を期すべしと意見していた徴兵制は陸軍大輔山県有朋主導で徴兵制が採用され、明治5年(1872)11月に徴兵の詔・徴兵告諭が発せられ、翌年1月に正式に布告された。もちろん山県なりの考えはあったであろうが、大村・山田路線をすべて自分の手で塗り替えることで軍の主導権を握ろうとした

2021-08-28 17:01:19
シービー @MrCB_Harukaze

そして、山田顕義に対する東京鎮台司令官の辞令である。東京鎮台に移れば、当然陸軍省の中枢からは離れることになる。されに追い打ちを掛けるように、市ぃに「清国特命公使として清国北京在勤」の辞令が11月に出る。もちろん、狂介にとって最大のライバル市ぃを遠ざける企てである。

2021-08-28 17:04:58
シービー @MrCB_Harukaze

まぁ、というより、岩倉使節団随行も市ぃを遠ざけようとした狂介の企みであったのだけど、育ちの良い市ぃは、まさか権力を得るためにそこまで露骨なことはしないだろうと思っていたのかも知れない。これは、箱館戦争での黒田了介に対しても同じであっただろうと個人的に思う。

2021-08-28 17:07:43
シービー @MrCB_Harukaze

山田顕義は、帰国後報告書の執筆に没頭していた。『理事官山田顕義報告書』「兵、何を持って国家に至要なるや。兵は凶器なり」で有名な建白書である。7月7日東京鎮台司令長官に任じられた後も続ける。9月13日、山田は完成した報告書を太政官正院に提出した。だが、報告書は無視された(後に民間で発行

2021-08-29 18:29:36
シービー @MrCB_Harukaze

その報告書はおそらく山県有朋は読んだであろう。陸軍省のトップであるから読まざるを得ない。そして、それを読みいよいよ危機感を持ったのだろう。11月24日、山田顕義は、東京鎮台司令長官を解任され清国特命公使に任命される。市ぃは狂介の軍政を止めて改革しようという意気込みにあるふれていた。

2021-08-29 18:33:56
シービー @MrCB_Harukaze

困った山田は木戸孝允に相談する。清国公使は受けず、野に下るという。木戸は「いったん拝命し、病気ということにして赴任をしなければいい。その間に努力してみよう」という。市ぃは木戸の言葉に従う。市ぃは俊輔にも手紙を書くが、俊輔からの返事はなかった。

2021-08-29 18:38:45
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.