田中彰『高杉晋作と奇兵隊』 より
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シービー @MrCB_Harukaze

馬関の外圧危機が収まる頃、奇兵隊は第二期に入。体制面での大きな変化は、隊員数の増加により伍をいくつか束ねた「隊」という組織が出来たことである。隊は「隊長」が束ねる。数隊を総督が統括するという形態に変わった。

2022-04-27 17:42:38
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年10月10日の藩の命令では、伍長・隊長その他の諸掛りを公式に定め、隊員の入隊月日、出身地、二男・三男等の別を届け出ることを命じた。これは、藩が奇兵隊を掌握しようとした意思表示とも取れる。14日には行軍・銃陣を整え武器を整備するように藩が回達している。

2022-04-27 17:42:51
シービー @MrCB_Harukaze

これらの藩命に従い、砲隊・銃隊・弓隊・槍隊が編成され、軍監・旗奉行・使役・小荷駄奉行・斥候・書記・金方・鼓方・貝方・会計方・機械方・小荷駄方などの諸役がも整備された。掛りには「座」が作られた。事務所のようなものであろうか。

2022-04-27 17:43:22
シービー @MrCB_Harukaze

例えば記録担当の書記座には銃隊・槍隊の伍長が一人ずつ詰め、当直座は書記と銃隊・槍隊の伍長の交代制であった。この組織編成の変更により、伍長会議は隊長・伍長会議へと拡大された。指揮官と副指揮官の合同会議と考えて良い。隊長・伍長会議は徐々に隊長会議に移行していく。

2022-04-27 17:43:32
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年10月26日、六卿は三田尻から山口に移る。これには奇兵隊が護衛したが、すぐに諸卿警備の任は解かれた。奇兵隊は三田尻で他藩人の応接、富海から小郡にかけての海岸防備を命じられた。これは、卿と奇兵隊士の関係が深くなり、生野の変を二度と起こさないための藩の意向であった。

2022-04-28 18:04:56
シービー @MrCB_Harukaze

文久3年12月18日、奇兵隊は山口政事堂から馬関出張の命を受けた。この時の行軍は次のとおりで、この頃の奇兵隊の体制が想像できる。旗奉行-大幡-幡-銃隊-幡-弓隊-大幡-馬表-幡-貝鼓金-総督-武者奉行-斥候-使番-本陣詰-幡-砲隊-幡-墳隊-幡-小荷駄-幡-騎馬-衛殿-狙撃銃手。

2022-04-28 18:05:20
シービー @MrCB_Harukaze

12月23日、奇兵隊は下関に到着する。翌日には児玉小民部が率いる先鋒隊と馬関警備を交替した。これにより奇兵隊が前田壇ノ浦砲台を守備することになる。この頃、諸隊の結成が増えて遊撃隊、八幡隊、集義隊、義勇隊などが次々に結成された

2022-04-28 18:05:41
シービー @MrCB_Harukaze

。馬関警護に着いた奇兵隊は、文久3年12月、元治元年2月の二度にわたり薩摩藩関係の船を砲撃する事件を引き起こす。当時は「薩賊会奸」として長州藩と薩摩藩はいがみ合う仲であった。一方で長州藩に船舶を砲撃された外国による外国艦隊報復や幕府による長州追討計画の情報が伝えられていた。

2022-04-28 18:05:58
シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊はこの風評に対して備えを固める。山口政事堂も諸隊に対して「紀律凜然相立候事第一」と訓令を発する(『奇兵隊日記』)。そのような状況下で3月から4月にかけて山口在住の六卿が馬韓を視察した。なお、この視察途上で錦小路頼徳が病死し、七卿は五卿となった。

2022-04-28 18:06:05
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年2月29日、当時の奇兵隊総督の一人滝弥太郎は山口の藩政府に出仕する。従い、奇兵隊の総督はもう一人の赤禰武人一人となった。それを山県小助(狂介)が軍監として補佐した。

2022-04-29 17:22:00
シービー @MrCB_Harukaze

赤禰武人は4月23日、藩政府に、奇兵隊員は「匹夫下賎のもの」ではあるが、身分を問わず「力量」で取り立てられた隊であり、「醜虜(外国人)と決戦の覚悟」をしているのであるから、入隊中は一同「士列」に殉じてもらいたい、という意見書を提出する。(『奇兵隊日記』)。

2022-04-29 17:22:14
シービー @MrCB_Harukaze

以前に晋作坊ちゃんが示した精神的支柱により、奇兵隊士の処分は「武士道」を基準としていたが、この頃は隊士間の信義・情交に比重が移っていた。そのため、赤禰は同じ奇兵隊の中で身分の格差があることを是正しようとしたのかもしれない。しかし、藩は赤禰の願い出を却下した。

2022-04-29 17:22:35
シービー @MrCB_Harukaze

それどころか藩は、諸隊内部での士庶の身分を明確にし固定する方針を示す。元治元年6月24日、藩は馬関出張中の藩士および諸隊に対し、身分を明白に示す「袖印」の着用を命じた。袖印は、藩士は白絹、足軽以下は晒し布を用い、「何条何某組」と所属と名を記させた。

2022-04-29 17:23:00
シービー @MrCB_Harukaze

この区別は徹底していて、直臣であろうが陪臣であろうが、士分は絹、他は晒し布であった。足軽以下で苗字帯刀を許された者以外はは苗字を記すことは許されず名のみ書く、とされた。

2022-04-29 17:23:17
シービー @MrCB_Harukaze

さらに、7月2日には、袖印の着用厳守を申し渡し、着用しない者は処分すると命じた。藩政府が奇兵隊をはじめとした諸隊を掌握しようとする意図は明確であったが、入隊・除隊等の組織管理は隊に任されており、藩の掌握は中途半端なもので以後も続く。

2022-04-29 17:23:27
シービー @MrCB_Harukaze

以前書いたが、奇兵隊の指揮系統は「老中(総督)-司令官(隊長・伍長)-隊員」である。藩正規軍は「毛利一門衆-老中(譜代・大組)-大組士」であった。これは、奇兵隊は総督が隊の方針を決定できる立場にあり、総督の思想次第で「奇兵」にも「正兵」にもなりうるということを意味する。

2022-04-30 12:42:52
シービー @MrCB_Harukaze

初代総督高杉晋作の場合、明確に「奇兵」という思想を持っていたと思う。二代滝弥太郎・河上弥市の時代も、どちらかといえば「奇兵」寄りであったと思う。しかし、三代赤禰武人の頃は「正兵」(藩の意向を尊重すると言う意味で)の傾向があったと思う。あくまで個人の感想です。

2022-04-30 12:46:06
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年6月20日、奇兵隊の定員枠が200名から500名に大幅増となった。24日、膺懲隊も馬関への出張命令が下り奇兵隊と合流する。7月29日、僧15名が奇兵隊の協力部隊として玄武隊を結成する。外国の反撃艦隊来襲に備えての警備強化である。

2022-04-30 13:22:41
シービー @MrCB_Harukaze

その一方で、来島又兵衛が総督を担う遊撃隊などは「進発」と称し、上京を目指していた。晋作坊ちゃんは藩命により来島説得に向かうが、政務役就任時に賜った新知160石をからかわれ、京に脱藩してしまう。3月には萩藩世子元徳の命で帰国するが、新知と名等を剥奪され野山獄に投じられる。

2022-04-30 13:23:11
シービー @MrCB_Harukaze

6月5日、京で池田屋事件が起きる。その後、7月19日早朝、来島又兵衛、真木和泉、久坂玄瑞らは京で戦闘を開始、いわゆる「禁門の変」が勃発。しかし、長州勢は一橋慶喜・薩摩藩・会津藩・桑名藩ら朝廷勢に敗北し、久坂らは討ち死にする。奇兵隊は馬関警護のため京への進発軍には参加していなかった。

2022-04-30 13:23:45
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年8月2日、四ヵ国連合艦隊は下関襲撃のため豊後水道姫島に集結する。萩藩政府は野山獄から親族預かりになっていた高杉晋作を8月3日に許し、軍務掛・政務掛として藩要路に迎え外国艦隊への指揮を任せる。

2022-04-30 13:24:14
シービー @MrCB_Harukaze

長州戦力は下関を中心に、奇兵隊・膺懲隊600人、萩本藩支藩の藩兵・農兵を併せて約2000名であった。火器は、前田砲台は80・24・18ポンド等の砲20門、州崎砲台は150斤砲他9門、弟子待砲台は荻野流火砲(口径7寸)7門を配備し、総計70門であった。だが、砲台とは名ばかりの旧式装備も多かった。

2022-04-30 13:25:39
シービー @MrCB_Harukaze

元治元年8月3日、萩藩政府は四ヵ国艦隊との戦争を避けるべく伊藤俊輔と松嶋剛蔵を姫島に送ったが艦隊はすでに出航していた。藩は翌4日に井上聞多と前田孫右衛門に「日本国防長国王」と書いた書状を持たせ下関に急派する。

2022-05-01 17:37:46
シービー @MrCB_Harukaze

二人は2時間の猶予を艦隊のキューバー提督に求め、諸隊に対して発砲するべからずと命じ、それらの交渉を終えたときには2時間の猶予は過ぎてしまっていた。前田は「嗚呼国事を誤れり」と落涙したという(『防長回天史』)。四ヵ国艦隊の艦砲射撃には長州藩勢は手も足も出なかった。

2022-05-01 17:38:16
シービー @MrCB_Harukaze

すぐに前田砲台は占拠・破壊された。翌6日には艦隊の上陸部隊の猛攻撃で壊滅的な被害を被った。だが、諸隊も意地を見せ8日までは小競り合いが続いた。8月8日、藩政府は講和使節として、正使節:宍戸刑馬(晋作坊ちゃん)、副使節:杉徳輔、渡辺内蔵太、通訳:井上聞多、伊藤俊輔を派遣する。

2022-05-01 17:38:33
シービー @MrCB_Harukaze

四ヵ国艦隊から藩主の委任状を求められこの日は一旦帰還する。しかし、藩内の五卿や諸隊士は攘夷を叫び講和に猛反対する。命の危険を感じた晋作坊ちゃんと俊輔は一時身を隠した。が、藩の強い意向もあり復帰した晋作坊ちゃんの藩使節と四ヵ国艦隊の間で3回目の講和会談が開かれ和平がなる。

2022-05-01 17:38:44
シービー @MrCB_Harukaze

萩藩は、外国との講和が成った後すぐに、奇兵隊と膺懲隊に対して馬関から宮市への転陣を命じた。表向きは幕府の征長軍に備えるためであったろうが、攘夷を唱え外国と問題を起こさないよう厄介払いした、と考えるのはいじわるであろうか。

2022-05-01 17:38:50
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/むつ市/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.