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シービー @MrCB_Harukaze

安政3年(1856)1月12日、村田蔵六は、宇和島藩主伊達宗城の江戸への参勤に同行を願い出て許可される。宇和島で一緒に暮らしていたお琴は鋳銭司に帰された。3月11日、藩主一行らは乗船。翌12日、別船で大野昌三郎に送られ、二宮敬作と途中まで同道し「卯之町にて別れる。内の子泊まり」と記している。

2021-11-15 19:46:12
シービー @MrCB_Harukaze

その後讃岐丸亀から船に乗り、途中大阪の適塾に寄り、師の緒方洪庵を訪問しつつ、4月9日「江府(江戸)着」と記されている。14日には「松平三河守お屋敷に行き、箕作阮歩甫を訪ねる」とある。箕作は幕府蕃書調所教授だったこともあり、蘭学を使った身の立て方を相談したものと想像される。

2021-11-15 19:53:56
シービー @MrCB_Harukaze

安政3年(1856)4月に江戸に入った村田蔵六は、身分は宇和島藩のお雇いである。逆上ること、安政元年(1854)2月13日に「村田亮庵儀(略)近々妻儀も罷り越し候趣につき(略)以来米六俵ずつ雑用のため下しおかれ」と記録にある。3月10日には、宇和島藩主伊達宗城の命で良庵から蔵六に改名している。

2021-11-16 19:36:07
シービー @MrCB_Harukaze

宇和島藩での蔵六は、主として洋書の翻訳、海防の近代化と増強に従事していた。有名な所では、樺崎砲台の構築と蒸気軍艦雛形の設計であろう。藩主伊達宗城の江戸参勤の同行が許されたのは、その二つの仕事成功に対する褒美の面もあったと想像する。

2021-11-16 19:42:53
シービー @MrCB_Harukaze

安政3年(1856)5月6日、村田蔵六は江戸で「練塀小路大槻(俊斎)に入る」と記している。大槻は有名な蘭学開業医である。宇和島藩が蔵六の蘭学修行を許可したものと思われる。そこで学ぶうちに、自身の蘭学の力に自信を持ち、私塾を開業しようとする。

2021-11-16 19:49:32
シービー @MrCB_Harukaze

10月1日、村田蔵六は麹町で売りに出ていた幕府御家人の屋敷を買い取り、私塾「鳩居堂」を開く。弟子は、二宮逸二(敬作の子)を初めとして当初は8名であったが、この年と翌年で95人、文久3年までで述べ160人である。かなり繁盛している。

2021-11-16 19:56:15
シービー @MrCB_Harukaze

弟子の中には長州藩士も10数人おり、久坂玄瑞(!)、中島四郎、遠藤謹助などの名前も見える。塾のシステムは、無級から9級までの等級があり、以前に学んだ咸宜園と同じで、初心者テキストにはガランマチカやセインタキスが使用され、これは適塾と同じである。

2021-11-16 20:01:33
シービー @MrCB_Harukaze

2020年7月に建てられた鋳銭司の大村益次郎像。ちょうどコロナが広がったこともあり、まだ訪問出来ていません。些少ですが寄付させていただいたので、名前を入れてもらっていますので、来年にはぜひ行きたいです。 pic.twitter.com/EQxOVMiz2G

2021-11-16 20:09:41
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シービー @MrCB_Harukaze

この頃幕府は、安政2年(1855)7月に海防策として洋学所を創設していた。それが安政3年(1856)2月に「蕃書調所」と改称される。主な仕事は、海防に必要な蘭書を翻訳し、海防に必須な技術を研究し、それを活かせる人材を育成することであった。場所は偶然にも「鳩居堂」の近くに存在した。

2021-11-17 19:09:12
シービー @MrCB_Harukaze

この蕃書調所に村田蔵六がスカウトされる。安政2年正月に老中阿部正弘が勝麟太郞(海舟)と小田又蔵を蘭書翻訳御用に任じ、洋学所設立準備に当たらせた。二人は、洋学所の教授候補を調べ上げている。適塾関係は緒方洪庵・郁蔵、登場英庵、大鳥圭介らの名前が挙がっているが、蔵六の名はない。

2021-11-17 19:22:47
シービー @MrCB_Harukaze

その頃村田蔵六は宇和島藩に居て江戸では無名であったのだろう。ところが、これらの教授候補選抜に箕作阮甫が関わる。安政3年11月に阿部正弘が宇和島藩に村田蔵六を蕃書調所出役(出向のこと。宇和島藩士身分のままで幕府お雇いになった)教授手伝」として出仕を求めた。給料は1年で15両。

2021-11-17 19:31:20
シービー @MrCB_Harukaze

宇和島藩は申し出を受け入れ、村田蔵六は晴れて蕃書調所教授手伝となった。蕃書調所の開業式は安政4年(1857)正月18日で、191人が入学した。もっとも、蔵六が蕃書調所に出仕していた期間は、11月までという短期間で、その後講武所へ出役替えになる。

2021-11-17 19:38:54
シービー @MrCB_Harukaze

ただし、前のつぶやきと異なる説もある。安政3年11月に蕃書調所と講武所の二つに同時に出役していたという説である。ちなみに前説は木村紀八郞先生、後説は山本栄一郎先生が述べている。

2021-11-17 19:43:27
シービー @MrCB_Harukaze

この頃の有名な逸話。舞鶴藩士伊藤雋吉が帰国することになり蔵六に相談「台場と大砲を造れとの命だが当惑している」「なるべく大きく縄張りをして1年、2年目論んで(計画?企画?)していればそのうち国家の形勢が変わり造らなくてもよくなるであろう。それを画餅という」

2021-11-18 16:27:30
シービー @MrCB_Harukaze

ちなみに、この時、あの江川英龍が造ったお台場砲台も「画餅」と評している。別に辛口ではなく、蔵六にしてみれば理に合わないことを合わないと言っただけであろう。

2021-11-18 16:29:50
シービー @MrCB_Harukaze

講武所では砲術を教え、その一部の時間を割いて兵学を教えていたという。蔵六は、その講義と洋書テキストの翻訳を担っていた。安政4年、5年頃の収入記録が残っている。月に蕃書調所から5両2分、宇和島藩から2両と2分2朱、講武所手当銀10枚などあり、安政4年は118両1分3朱12文と記録されている。

2021-11-18 16:38:47
シービー @MrCB_Harukaze

幕府の平均的御家人で44両ほどであり、その3倍の収入を得ていたことになる。まさに手に職があると強い。江戸での買物帳もあり、酒1日5合から1升、肴に豆腐、鯛、たこ、蛤、かつお、くじら、あわび、刺身、寿司と記録がある。練兵館塾頭桂小五郎は麦飯、味噌汁、漬物である。

2021-11-18 16:42:57
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんは、朝雑炊、昼一汁・漬物、夜野菜と一汁、たまに魚の干物であり、蔵六は収入が良かったこともあり、この時代としては、かなり贅沢な食生活であったことがうかがえる。さらに鳩居堂からの収入もあったであろう。そんな蔵六に長州藩が目を付ける。

2021-11-18 16:47:54
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六の名は遠く長州藩の吉田松陰先生の耳にも入っている。安政4年(1857)4月の日記に「須佐の書生田村塊庵の書状によると(略)幕府洋学所へ村田蔵六という人物も召し出されている(略)蔵六は秋穂生まれの人で洋書を読む力量は東条・手塚より優れているという」

2021-11-23 19:24:33
シービー @MrCB_Harukaze

また、松陰先生から桂さん宛の手紙(安政4年9月2日)に「村田良庵へ同居生富永弥兵衛(有隣)より(略)洋学所をよく見て帰れ」と添え書きしている。蔵六も松陰先生は知っていて「一昨年、美船に乗らんとして罪を得たる長州の人」と安政3年5月4日大野昌三郎宛の手紙で書いている。

2021-11-23 19:31:01
シービー @MrCB_Harukaze

山尾庸三も村田蔵六と面識がある。安政3年6月、蔵六は山尾の父親に頼まれ庸三を鳩居堂に呼び出し、国に帰るよう説得した。結局山尾は帰らなかったが、当時斉藤弥九郎の練兵館に世話になっており、ひょうっとしたら塾頭の桂さんに話しはしたかも知れない。

2021-11-23 19:35:07
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六が長州藩に本格的に知られるようになったのは、安政5年3月、長州藩上屋敷にて蘭書会読会を開催することになった時である。このアイデアは青木周弼である。この時に長州藩士だけでなく、長州出身のものを自主参加を勧誘し、村田蔵六が加わった。このときの会のメンバーが桂小五郎が居た。

2021-11-23 19:40:54
シービー @MrCB_Harukaze

蘭書会読会は安政5年5月26日から12月16日まで18会開かれたらしい。村田蔵六は自身で出席簿(会日出席簿)を付けており、桂さんもメンバーであるが最初の3回しか出席していない。なお、言い出しっぺの青木周弼は藩主毛利慶親の帰国に同行することになったため出席できていない。

2021-11-24 19:38:30
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩の思惑としては蘭書から主に武器や兵制を学ぼうとしていたであろうことは想像がつく。蔵六が会の主導的な役割を担っていたと思われる。安政5年6月に正義派の周布政之助が政務役に返り咲く。さらに8月には軍政・民政の改革綱領が決定する。

2021-11-24 19:45:17
シービー @MrCB_Harukaze

軍政改革は山田亦介を責任者とし、来原良蔵以下22名の藩士を西洋銃取得のため長崎海軍伝習所に派遣する。さらに江戸の藩士には江川英龍の塾で高島流の大隊操練を学ばせた。

2021-11-24 19:47:54
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六が桂小五郎を(噂は別として)顔を合わせたのはこの会読会であろう。桂さんは前にも手塚律蔵の塾で蘭学を学んだことがあるが長くは続かなかった。この会読会も藩の命令であるが3回しか参加していない。よほど蘭語は苦手だったと思われる。ちなみに、鳩居堂に通った久坂玄瑞も同様である。

2021-11-24 19:51:29
シービー @MrCB_Harukaze

大河『花神』では、桂さんと村田蔵六がはじめて出会ったのは、安政6年(1859)10月26日となっている。桂さんは松陰先生の遺体を小塚原に貰い受けに行ったとき、偶然、女囚の解剖をしていた蔵六を見て運命の出会いを感じた・・・。というくだりである。

2021-11-25 23:49:26
シービー @MrCB_Harukaze

そのくだりは、「史実ガー」の方々にとっては、許しがたく、焚書すべきものかも知れない。しかし、その後、長州藩の軍事改革を任せて明治政府までの桂さんと蔵六の深い信頼関係を表すのに、これ以上の「創作」はないと思う。一度、大河『花神』のくだんのシーンを観て欲しい。

2021-11-25 23:52:55
シービー @MrCB_Harukaze

なお、この女囚解剖における感動の出会いは、蔵六が桂さんに宛てた年月不明の手紙が原因と山本先生は解釈している。「一昨日はご馳走いただき(略)明日午後にお伺いすると申し上げましたが(略)明日は小塚原にて解体があり」という手紙である。蔵六は「明日は松陰先生の墓参りに」とまで書いている。

2021-11-25 23:58:05
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六と桂さんを結びつけたものの一つに、竹島(現在お隣の国と揉めている竹島ではなく、その北の鬱陵島を指す)の件がある。安政5年9月に久坂玄瑞が松陰先生の手紙を桂さんに渡した。その中で竹島開拓の話題が出ている。

2021-11-28 17:49:32
シービー @MrCB_Harukaze

村田蔵六は、安政5年12月4日に、長州への帰省を理由に140日の休暇を幕府に届け出て認められた。安政6年1月14日に秋穂の藤村家に到着する。そして、21日に萩に帰省中の桂さんを訪ねる。この時に話し合われた話題が竹島開拓である。竹島について松陰先生から運動を請われたので蔵六に相談した。

2021-11-28 17:56:17
シービー @MrCB_Harukaze

そういう意外な繋がりでも桂さんと蔵六が結びついている。もっと言えば、松陰先生ー桂さんー村田蔵六という系列が見受けられる。

2021-11-28 17:58:29
シービー @MrCB_Harukaze

安政6年6月16日、長州藩と宇和島藩での休暇を終えて、途中大阪で緒方洪庵を訪ねた後、村田蔵六は江戸に帰還した。この頃から、長州藩による蔵六のスカウト活動が活発になる。なにせ、幕府施設の教授などを担っているということで藩内には名声が伝わっていたこともある。

2021-11-29 19:47:46
シービー @MrCB_Harukaze

まず、蘭書会読会言い出しっぺの青木周弼が安政6年6月に江戸の藩庁に「なにとぞ徳一亭会業所(蘭書会読会)へ(正式メンバーとして)差し出され候」と願い出ている。会読会は桜田上屋敷から麻布中屋敷に場所を移して続けられていた。そして、青木は武田庸伯と交代する形で会読会のリーダーとなる。

2021-11-29 19:52:50
シービー @MrCB_Harukaze

7月に長州藩の江戸藩庁は青木の申し出を受け入れ、12月18日に桜田藩邸にて村田蔵六と手塚律蔵に対し、三人扶持を与え、会読会の正式メンバーとした。この頃の蔵六の身分は複雑で、宇和島藩士であり幕府への出向者でもあり、さらに長州藩への出向者とも言える。

2021-11-29 19:56:42
シービー @MrCB_Harukaze

なお、長州藩も当然ながら村田蔵六の身元調査を行っている。安政6年9月、出身地である鋳銭司を管轄する小郡代官所に対して命じている。長州藩では士分以外が藩を出る場合に「地下暇」という手続きが必要であったが、蔵六がその手続きを取って宇和島に向かったのかという点である。

2021-11-29 20:01:22
シービー @MrCB_Harukaze

小郡代官所の回答では、当初、蔵六は「地下暇」の手続きを取らずに宇和島に移住したことが判明した。そして、長期休暇で帰国した安政6年に「地下暇」の手続きをしたことが分かった。藩はこれを咎めず、「きっと御用に相立べく」と採用を許可している。

2021-11-29 20:06:13
シービー @MrCB_Harukaze

小郡代官所への調査依頼は、政務役周布政之助によって指示されている。長州藩は宇和島藩へ山添金之助を派遣し、「蔵六なる者は、大膳太夫出自の者でそちら様が差し支えなければ召し抱えたく思っております」と申し込んだ。宇和島藩は、今後翻訳などの仕事を継続させる条件で承知している。

2021-12-02 19:41:17
シービー @MrCB_Harukaze

また、幕府は蕃書調所と講武所への出仕を継続することで長州藩の召し抱えを許可した。ここで少し問題が発生する。宇和島藩の藩士になっているとはいえ、長州藩では村医者出身である。そのまま長州藩士にスライドさせることは長州藩の身分制度上具合が悪かった。

2021-12-02 19:45:25
シービー @MrCB_Harukaze

そこで、長州藩の伝家の宝刀「育み」が使われる。青木周弼を育みとして召し抱えることになった。また、身分は、大組の下「遠近支配」で俸禄は徒下なみの年25俵(五人扶持)であった。少ないように見えるが、幕府と宇和島藩から引き続き報酬は得ており、鳩居堂の稼ぎもあり、今までと変わらない。

2021-12-02 19:51:29
シービー @MrCB_Harukaze

そして、村田蔵六は、万延元年(1860)4月26日、青木周弼育み、遠近付支配、年米25俵、兵学者、江戸詰という身分で正式に長州藩士となった。長州藩士となった蔵六は鳩居堂を引き払い、麻布中屋敷の一角に定住し、引き続き門下生に教授するこになった。5月からは長州藩士への講義もはじめている。

2021-12-02 19:57:04
シービー @MrCB_Harukaze

万延元年は、大老井伊直弼の暗殺があった年である。幕府は、不穏な情勢から蕃書調所役出向の諸藩士が国許に召還されることを恐れる。そして、有能な人間を幕臣に取り立てようとする動きを見せる。長州藩はこれを警戒し、村田蔵六に蕃書調所教授手伝の辞職を幕府に届けさせた。

2021-12-03 17:49:54
シービー @MrCB_Harukaze

幕府は、これを認め、文久元年(1861)1月12日付けで講武所勤めの功労金銀10枚、蕃書調所の功労金銀5枚を与えた。蔵六は江戸詰の身のままいったん帰国することになる。

2021-12-03 17:54:02
シービー @MrCB_Harukaze

藩が村田蔵六に命じたのは、「博習堂」の規則改定である。長州藩は安政2年に西洋学研究機関として「西洋学所」を設立した。その後、安政6年にこれを整備し、西洋兵学等の研究機関として「博習堂」を設立する。この教師には、主に松島剛蔵以下長崎海軍伝習所で学んだ者が充てられた

2021-12-03 18:01:57
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は、長州藩士になる前の安政6年2月に、「博習堂」設立のための蔵書選び等で長州藩を手伝っている。「村田蔵六へ洋学要用の書名ならびに学科の大意いたす書だし候相授け候」という江戸藩邸から国許への手紙が残っている。

2021-12-03 18:06:15
シービー @MrCB_Harukaze

この時蔵六が推薦した図書に「三兵答古知幾(タクチーキ)」がある。さらに、蔵六は、科目と履修順序まで案を出し兵学科(陸軍)と海軍科を置き、両料併用として野戦砲科、海岸砲科などを設け、必要な科目も定めている。安政6年の段階で既に蔵六の意向に沿って整備されていたが、更に改善を求めた。

2021-12-03 18:14:47
シービー @MrCB_Harukaze

文久元年(1860)1月17日、村田蔵六は萩に到着する。その後、29日に「博習堂用掛」を命じられた。ところが2月14日、藩は蔵六に対して「御手当」兼務として、下関へ出張を命じる。蔵六は海岸防御準備状況の検分を命じられたのである。(藩も都合良く使いすぎ・・・)

2021-12-06 19:10:30
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は2月27日に検分を終えて萩に戻る。3月1日、蔵六が中心となり、同じく博習堂用掛田原玄周と博習堂軍艦運用稽古掛戸田亀之助と共に規則改定に着手する。「日課規則」「会読規則」等を起草し、それらを集めて「博習堂規則」として発令した。

2021-12-06 19:16:32
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は、博習堂における各科の履修順序を定め、咸宜園と適塾を参考にした実力主義による等級制度を定めた。それらを終えて4月8日に蔵六は萩を発つ。

2021-12-06 19:21:15
シービー @MrCB_Harukaze

この後、長州藩では長井雅楽の「航海遠略策」を藩是とし、その後すぐ、藩内過激派からの反対で藩是が変更し、長井は失脚するという事件が起きる。さらに、長井に共鳴していた来原良蔵は自己の過去の言動に悩み8月29日桜田藩邸で自刃する。これについて蔵六の言が残っている。

2021-12-06 19:24:57
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.