長く伸び過ぎた足の爪を何度かに分けて切り整えていくプロセスを一緒に体感するにつれ、それは、排除してきた身体の末端の存在にまずは気づき、馴染ませ、少しずつ取り戻し、統合していくという象徴的な意味を伴った営みであるように思えてくる。
2021-02-02 11:05:52排除してきたものは、すぐには身体に馴染まない。ゆっくりと時間をかけて取り戻していく必要がある。 (p.27) このような排除の臨床のプロセスを想定した際、「包摂」という言葉に対しては、どこか違和感を感じる。包摂という概念は、高いところからトップダウンで降りてきたもののように感じらる。
2021-02-02 11:10:27排除の臨床は、ゆっくりと、ボトムアップでしか進まない。末端に気づき、時間をかけて向き合い、足元から統合していく必要がある。そしてそのプロセスの途中では、時々、しっかりと休む必要もある。
2021-02-02 11:13:16「排除と包摂」と名づけた途端に、そこから排除されてしまう何かがある可能性に自覚的である必要があるのではないかと思う。排除は悪で、包摂は善という二元論で片付けられるほど、排除の臨床は単純な仕組みではない。高いところから降りてくる「包摂」という言葉には注意したほうがいい。
2021-02-02 11:17:07(p.28) スーパーで購入してきたステーキを焼いて「食べろ」と差し出される。病院や施設、きれいなオフィスで待ち受ける臨床場面において培われ語られてきた臨床知を、その場に適用することは難しい。そうした専門知は、何かを排除することによって出来上がってきてものだからだ。
2021-02-02 11:22:45おそらく答えは存在しないが、ここには葛藤を持ち続ける必要がある。 出された熱いステーキを食べた時、何を一緒に受け取ったのか。ステーキを押し返した時、何を受け取ることをしなかったのか。 この人が何(誰)から排除され、何(誰)を排除してきたのか。そして、私が何を排除してきたのか。
2021-02-02 11:27:05この人は、そして私は、何を排除し続けていて、何を取り戻そうとしているのか。 排除の臨床はそれぞれのペースでゆっくりと、互いに影響を及ぼしたり及ぼさなかったりしながら、パラレルに進んでいく。排除は一方向的に行われるものではなく、様々な形で多層的に重ねられているものであるから、
2021-02-02 11:33:04排除してきたものを一人で取り戻そうとすることは難しい。 排除の臨床において、包摂という概念はそぐわないのではないか? そう考えているうちに、いつの間にか、また何かを排除してしまう。 けれども、排除してきたものを取り戻そうとする人が、ここに確かにいることに、ふと気づく。
2021-02-02 11:37:06そのような人の存在に気づくことによって、取り戻されていくものが確かにある。排除の臨床は、そのようにして、ちぐはぐな掛け合いの中から、ゆっくりと進んでいくようなものなのではないだろうか。
2021-02-02 11:40:38(p.30) 台風や感染症が猛威を振るい、「自宅に非難している」ことが規範として求められる中、安全な住まいを持たない人たちは、(Web会議などのように)こうして生まれた安全のための新たな規範からすらも排除されている。
2021-02-02 11:44:44それでも私たちはみなで生き延びることをあきらめず、排除と向き合い、それに抗し続けていかなければならないということだけは言えるように思う。
2021-02-02 11:47:34