不定期に更新。 #青の楽園 登場人物の人生のささいなワンシーンを切り取ったスピンオフ集。時系列はさまざま。フィクションです。(22.11.13.タイトルが気になったので少し修正) 8番目の話は #オトトイ食堂 はなまめさん @gp_c_ にご協力いただきました。ありがとうございます。また、街の描写には @humptyhumtpy さん #空想の街 の公式設定を使用させていただいております。お世話になっております。「空想の街」wikiはこちらhttps://t.co/KWkqwldhnf https://potofu.me/fukamura 続きを読む
1
前へ 1 2 ・・ 5 次へ
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 大きく切り取られたフロアの窓から燦々と惜しげもなく二人に注いでいる――よく見るとその女性の肌には細かな皺がいくつもいくつも刻まれているのだった。目尻に鳥の足跡、そして口許には虹。皮膚が震えている。彼女はにっこりと、念を押すようにまた笑った。 #青の楽園

2020-12-26 20:11:24
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「夢前さんに興味があって。ずっと話しかけてみたかった」 「でもあなたはもうここから去るわ」  短い髪がまた揺れた。女性が笑いながら頷いたのだ。枝のような指が胸ポケットに伸びる。すべてを味わう、なんとも緩慢な動きである。 #青の楽園

2020-12-26 20:17:55
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「そう、私、この会社は明日で辞めるから。なんせこんな体だもの、もう無理はできないからね。夢前さん、わかるでしょう? 私が体のデータ化をしてないって」 #青の楽園

2020-12-26 20:23:41
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「それはもちろん一目でわかります。あなたは体をデータ化しなかった人間、体以外をデータ化して、そしてここにやってきて、勤めて、勤めあげて、そして去る。他の人間たちよりも早くいなくなる」 #青の楽園

2020-12-26 20:29:28
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「私は記憶だけをデータ化したの。子どもの頃から忘れっぽくてね、大切な人たちのこと、忘れてしまうのが怖かった。それに――子どものうちに起きたたくさんの嫌なことは忘れてしまいたかった――それに比べたら自分の体や心なんて病もうが老いようがかまわなかった」 #青の楽園

2020-12-26 20:35:58
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「あなたは勤勉なスタッフだったわ」  遮るように言外に何かを含ませて言い切る、夢前と呼ばれた人間は相手の女性をきっと睨めつけるように見据えた。女性はたじろぐこともなく、夢前の動きに合わせて震える睫毛をじっと眺めている。 #青の楽園

2020-12-26 20:45:16
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 短髪の女性が懐から取り出したのはカードのセットだった。人々が気分転換にとゲームに興じるための、数字とマークの書かれたアナログな紙切れたちだ。 #青の楽園

2020-12-26 20:54:02
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 夢前はもどかしそうに早口で相手の女性を責め立てる。 「余計なデータ化をするとしても困らないほどにあなたはもう裕福なはずよ。なぜそうしないの」 #青の楽園 「夢前さん。もしかして私のことを醜いと思う? こんなに外見が老いた人間がこんなところにいて、あなたは許せない?」

2020-12-26 21:01:36
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「まさか! そんなこと思わないわ。データ化なんてひとの自由よ。でも部長も決まってない今の深海部にはあなたみたいな人がまだまだ必要だと思うわ。もっと長くここで働いてほしかったのに。だから」 #青の楽園

2020-12-26 21:22:27
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao リズムでも取っているように夢前の指が揺れる。組まれた腕の隙間から固い上着に包まれた肘の辺りを叩いている。相手の女性ははっきりとそれを目撃していながら、夢前のその様子につられることがない。彼女の手の中でカードがゆっくりと切られていく。 #青の楽園

2020-12-26 21:29:05
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao カードたちは――当たり前だが抵抗しない。順番を変えられようが居場所を変えられようが。 「そう、ぜんぶデータ化して働くのがよかったのかもしれないね。たとえば」 #青の楽園

2020-12-26 21:42:07
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 逸らされた女性の視線の先に人影がある。ここに何の用があったのか、どこからどこへ行くのか、天使の梯子と呼ばれる巨大なエスカレーターの上にその者たちは立っている。 内側のきらめく黒々としたマントを背に流している娘はこの会社の社長だ。 #青の楽園

2020-12-26 21:51:38
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao そしてその後ろに付き従うその存在こそ、すべてをデータに変換させたともっぱらの噂になっている経歴年齢性別すべてが不明、いや不明どころか無いといっても過言ではない人物である。杭のように伸びた長身、虹色に光るすがすがしい銀髪、オーロラを思わせる輝きのバイザー、 #青の楽園

2020-12-26 21:56:40
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 無垢な服、膝小僧、そして子どものようなあどけなさも持つ大きな大きな青い瞳。その青は深く、しかし湖面のように平らでどこまでも静謐に澄んでおり、もしも誰かが指で押し込もうものならそのまま指ごとその人間は吸われて閉じ込められそうだ。 #青の楽園

2020-12-26 22:03:41
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao しかしかの人物の大事なところは外見などではない、――社長の付き人であるという点さえ些細なことだ――すべてをデータにしたというそれが重要な点である。遠くからでもかなり存在感があるのもそれが所以であろう。夢前もいつしかその長身痩躯を物も言わずに見つめている。 #青の楽園

2020-12-26 22:11:17
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 振り子の前でテーブルを囲んで座っている二人の視線は今、社長の付き人に集中し、そこでぶつかりあっているのだ。 「たとえばあのひとみたいにね。でも私はそうはしなかった。お金なら確かにもうだいぶ貯まったけど、でも、データ化はもういいと思って」 #青の楽園

2020-12-26 22:16:09
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 女性の有無を言わさぬ口調に夢前はいっとき押し黙った。振り子が二人に近づき、また離れる。それを数回繰り返すまでたっぷり夢前は口をきかなかったが、ややしてから首を振り振り話し出した。 #青の楽園

2020-12-26 22:20:37
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「それで結局どうしてあたしに声をかけたの? あなたはいなくなってしまうのに。――もう会えないかもしれないじゃない。だってあなたは――何のつもりなのかしら」 #青の楽園

2020-12-26 22:25:46
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「いなくなるからって仲良くしないなんてもったいない、という理由じゃあ満足してくれない?」 #青の楽園

2020-12-26 22:36:12
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 夢前と呼ばれた人間が先程からずっと何一つ納得していない様子であるのをすっかり置き去りにして、カードを持った女性は悠々とカードを二人分配り始める。 #青の楽園

2020-12-26 22:43:37
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「夢前さんと遊びたい。仲良くしてみたかった、信じて、それだけだから。でも今日までずっと勇気がでなかった。ねえ、よかったら友達になって。今日だけでいい」 ――夢前と呼ばれた人間はどこかぼんやりとしている。 #青の楽園

2020-12-26 22:47:57
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 彼女にはよくわからないのだ。いろんな人間たちがいずれ離れること、彼女自身の感情、思い出が時間の経過と共に消えていくこと。 彼女にはどうしてもわからない、だから彼女は考え続けてしまう、 #青の楽園

2020-12-26 22:52:36
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao いずれ去り行く人間たちのなかでなぜ彼女に興味を持つ者がいるのか、そもそもどうして人々は出会ってそして別れていくのか、別れることがわかっているのになぜ関わり合って生きようとするのか、 という、おそらくは答えがないだろうことを。 #青の楽園

2020-12-26 22:55:32
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 礼儀正しく並ぶ置物の、なぎ倒されるその瞬間を目にするためには長々と、この広場で同じ姿勢で。まだわずかに戸惑いを残した瞳だが、しかし夢前の指は何かを決したように、相対する女性の持つカードを取ろうと持ち上げられる。形のやさしく整った指先がカードに近づいていく。 #青の楽園

2020-12-26 23:01:23
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao もはや二人に会話はなく、短髪の女性はというとただ優しくカードを扇のように広げて捧げ持つだけだ。 二人の背景として振り子がゆっくりと減衰しながらまた戻っていく。二人のもとへ近づいて、離れ、何時間でも見続けなければわからないほどにわずかに弱まりながら揺れ、振れ、 #青の楽園

2020-12-26 23:07:06
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao ――周囲に並ぶ置物たちをなぎたおし、そして二人の過ごす時間が刻一刻削られていくことを容赦なく教えている。 #青の楽園

2020-12-26 23:10:15

5.ララとせんろ ゆるしてあげる

(現在)

※殺生、虫

 相手の涙を見るのはそれが初めてだった。
 茂みから立ち上がり、もと来たところを振り向くと草原の真ん中にせんろがひっくり返っている、まるで出会ったときを思わせるその光景を視界に入れた途端にララの頭のなかで警鐘が鳴り響く。倒れている原因は毒のある生き物だろうか、むやみに拾い食いなどするなとよく言い含んであるからたぶん食べ物のせいではない、いやまさか今朝、ゆうべ、それともその前のものが今ごろになって悪さをしているのか、それとも相手の悪い癖がでたのか。何にしてもとにかく様子を見てやるのが先決だとバイクもそっちのけに駆け寄ってそして、仰向けに寝転がったせんろが小さな白い手で顔を覆っていることにやっと気がつく。ごねるみたいに、眉と目をぎゅっと顔の真ん中に寄せて役立たずの線にして、声をころして絞るように涙を押し出して泣いているのだ。
 こういうときいつだって日光が祝いのようにやたら優しいのはどういうことだろう。
 かける言葉をつい失ってすぐ隣で立ちつくしたがそれは一瞬のことで、ララは慌てて自分を叱咤してその場に膝をつき、どこか痛いのかとせんろに確認してみたが、問われたせんろはというとこれがなかなか答えない。まさかこちらの声が聞こえていないのかと焦ったララがせんろの肩に手をかけようとしたそのときだった。まっすぐな吐息と共にまぶたの隙間から熱い滴をしぼり出したせんろが、掠れた声で「蟻が」と呟く。
 蟻。
 言われなければわからなかったがそういえば足元に行列があるようだ。せんろに触れようとした手もそのままにララは膝を動かして地面を見て、草の間に小さく無害な虫たちが行進しているのを確認した。毒がある種類には思えない、どこにでもいる平凡な蟻に見える――せんろの足元に数匹転がっているものがいる。そこで一度列が途切れたようだ。ララの足元にもいくつか――そこでララは愕然とする。もしかしなくともこのためにせんろは泣いているのか? どうして。かわいそうだから? いや、明らかに外部から力が加えられたようだから、あの足元の数匹はせんろがつぶしたのだ。それでだろうか。申し訳ないと思ってか? しかしどうして今さら、魚だって蛇だってとかげだって捌いて二人一緒に食べてきたのに、なんならララはせんろの前でもっと大きめの獣を仕留めさえしたのに、彼らのときせんろは涙のひとつも見せなかった。あれだけ食べて生きてきてそれでどうして今、食べるわけでもないこんなに小さな虫に。食べるわけでないからだろうか。急に愛着や罪悪感がわいたのか。
 せんろは起きもせずまぶたがくっついてしまったような顔でずっと涙をこぼし続けるだけだ。軽く途方に暮れたララは両肩を落としたままでしばらくしゃがみこんでいた。せんろが泣いている理由よりもそれをあれこれ邪推する自分、そしてなにより無意識に命に順位をつけている自分自身に気がついてしまい、急に疲れてしまったのだ。

 そんなこともあってろくに移動できず、その日は合流した地点からほんの少しだけ離れた場所に布を敷いて小山を作ってその中に入り、早めに休むことにする。ふだんよりもせんろはいろいろに気を遣っているようで、ララはそれを複雑な面持ちで見守る他なかった。余裕というものがララにはない。今だってせんろよりも戸惑っているかもしれない。
 月が雲をまとうのは、なんとなく生き物と寝床の関係に似ているようにも見える。生き物も月のようにうっすら光を帯びたなら夜中に心細くなることもないのかもしれない。
 せんろのことを何があっても泣かない人間のようにララは思っていた。狭い部屋に閉じ込められていたと言う割にはせんろはのんびりしているように見えるし、何より大人びていて、感情的になるところなどほとんどない。気が強いのかと思うくらいで、今日の昼間のように音もなくただただぎゅっと閉じた目から水を湧かせる、あんなことはせんろからはいちばん縁遠い泣きかただろうと勝手にララは思っていた。
 やはり「蟻が」と本人が言っていたのだし、蟻のつぶれていたことが理由で間違いない。
 しかし本当にどうして今だろう、そこがどうしてもララにはよくわからない。何度も言うが今まで食べてきたものだって命だったのだ。ララと一緒に食べたものたちだけでない、せんろがコロニー内部で食べさせられてきたものがどんなものか詳しいことはわからないが、それだってきっともとをただせば生きていた命だっただろう。命に違いはないはずだ。命を奪うなんて今さらのことなのだ。それをあの大人びたせんろが今までみじんも考えたことがなかったとはララにはどうしても思えない。今までは何とも思わなかったのだろうか。どうして気にならなかったのか? 克服していたのかそれとも単に現実味がなかったのか。やはり食べるものだからこそ気にならなかったのかもしれない、食べる対象と食べる行為を許されるものとがいて自分は後者からゆらがない、その安心感があれば、いろいろ考えたとしても気がかりになるというほどにはならないものかもしれない。強さというのは、自由というのは、「選べる」ということで、つまりどの存在の命を奪うのかを決めてしまえることだ。更に言えばそんな気がなくとも奪うことさえできる。いちいち考えなくていいのだ。
 しかしこんなふうにあれこれ考えても結局どうしてせんろが泣いていたのかわからないし、それをこんなに一生懸命考える自分のこともララにはよくわからなかった。自分を守りたくてこんなに考えるのだということだけうっすらとわかったが、それだけだった。
「こう言うと言い訳みたいなんだけど、あのね、わたしあんなことするつもりなかったの。そうじゃないんだ。下を見たらそうなってたの。わたし、そこにいることも知らなかった」
 唐突に隣から囁くような声が聞こえ、ララは首をそちらに回す。
「外にいろいろ生き物がいるってことは知ってた。わたしがふだん何を食べてるのかだってわかってるつもりだった。ララにだってたくさん教わったし、それでわかったつもりになってた。命はおんなじで、でも生きるためには他から奪うことも必要だって。でもぜんぜんだめ。せんろ、知らないうちにつぶしちゃった」
 夜風に織り込まれる告白をララは頷いて相槌をうちながら聞いている。
「食べるためでもないのに踏んじゃったりして、かわいそうとか、ごめんなさいとか、そういう気持ちもあるんだけど、でもわたしが落ち込んでるのはそうじゃなくて」
「うん」
「あのときね。足をあげてわたしが何をしたのか気づいて、しまったとか、痛そうだなとか、悪かったなとか、足汚れたかもとか、草も折れてるとか、なんだかへんな光景だなとか、たくさんいろいろ思って。それでまだ他の蟻がたくさんいて、よく見たら他の虫もいて、ああこんなに生き物いるんだ、世界って命ばっかりなんだなって思って、それでね、」
 話しているうちに焦ってきたのか、どこか息苦しそうにするせんろの話をララはそれでも遮らない。せんろは暗闇のなかでどうしているのか小さな声だけをララにちぎって渡してくる、ララはそれを受けとるだけである。
「生きてるのもたくさんいたの。死にそうだけどまだ生きてるのもいたの。それでわたしもう一回、もう一回足をおろしてまたあげたらどうなるのかって、やってみたいような気もして、やりたくなくてもできるんだってわかって、それで」
 そう思った自分が怖くて嫌になって、でもたぶんこれからずっとそういう自分を抱えて生きていかなきゃならないんだって思って、そしたらつらくて。だから。
「わたし知ってる。そういう気持ちはどんなひとでも少しは持ってるふつうの気持ちなんだって知ってる。勉強したから」
「うん」
「けどわたし、知ってたけど、今までこんな気持ちになることなかった。だってわたしはいろんなひとに見張られててそれがふつうで、他の生き物と触れあうことだってなかったんだから。他の生き物と関わるのって、自分自身と関わり続けるってこと? だったらすごくつらいよ」
 ララがとっくの昔に忘れたものを、しかしララだって毎日毎日向き合っているはずのものをしげしげと見つめては驚き、おそれ、恥じ、怒り、かなしむ、そういう丁寧な過程を惜しげもなく晒してくるひそやかな声。
「どうしよう。せんろ、ああいうことばかりする大人になるのかもしれない。ああいうのが他の人より好きなのかもしれない」
 とつぜん声がひしゃげたのでララは思わず起き上がった。抜けた草と被っていた布がつられて舞って夜の空気に触れておとなしくなるのを尻目に、せんろのほうへ体を傾ける。こうして体を動かして骨の浮き出たところが地面に当たるとなかなか痛いのだが、今はそんなことは無視だ。
「ならねえよ。たぶん。嫌だって思ったならそれがせんろの本当の気持ちなんじゃないか。それを信じろよ」
「わからない。嫌じゃないのかもしれない。わからなくてそれがこわい」
 ララはわかる? と問われてそこで答えに窮する。
「それを聞かれたら俺も自信ない。していいことといけないことの区別はついてるつもりだけど、それが正しいかどうかなんて言い切れないし俺だってこれから変わっちまうかもしれないし」
「ララはこわくないの? せんろはあの部屋にいたほうがよかったのかな」
 俺だって怖いよ。つい最近も同じような言葉をよく似たシチュエーションで返した気がしてララは口をつぐみ、しかしまたすぐ息を吸う。
「でも俺はお前に会えてよかったと思ってる」
「ほんと?」
「うん」
「ほんとのほんとに? せんろが弱い生き物を踏み潰してばっかりの人になったとしても?」
「うん」
「それが食べるためじゃなくても?」
「うん」
「その相手がララになっても?」
「うん」
 ララの喉の奥が鳴り、そうなったら止める、と続けて声を作る。止めないで逃げていいよ、と呟くせんろに「逃げねえよ」とララは答える。じゃあララもわたしにそうしてね。そう続けられてララはしばらく表情を消して瞬きだけしていたが、やがてそれにも頷いた。
「お前がお前と向き合うときはそばに俺がいるよ。俺だけじゃない、お前にはもう大事な知り合いがいっぱいいるだろ。お前はひとりじゃない。だからやっぱり施設の部屋から出てきてよかったんだよ」
 それに、と付け足しながら体を横たえる。草がララの重みでしゃんと鳴いたのを聞いて、今のももしかしたらあまりよくないことなのかもしれないとふと思うがそれだけで草に悪いとは思わないし、とくに嬉しくもならない自分をララは確認する。
「せんろ、自然って正直だから。集団に属してルールのなかで暮らすならまた別だけど、二人だけで危険の多い旅なんかしてて、おかしくなったらだいたいすぐ生きていけなくなるんだ。自然と戦うのなんてほとんど不可能だ。正常な判断ができなくなったらこの世から弾き出されてそれで終わりだ。でも俺たちはまだ何も終わってないだろ。だからたぶんまだ大丈夫、俺たちは何もおかしくない、お前の好きなこの世界を信じろ。もう今日は寝ちまおう」
 おかしくなったら世界のほうから締め出してくれるよ、とララはそう締めくくってそして雲でも編むように笑う。せんろはしばらくララのことをじっと見ていたようだった。せんろは猫のような目つきなのだしもしかすると夜目がきくのかもしれないとララはぼんやり頭の隅でそんなことを考える。よく見ていると目が慣れること、月光や星明かりはあんがいものを照らすこと、わかっているからこそ顔を隠さない。
 ――そんなことはそばにいるのに何にも支障にならないのだ、そんなことがせんろを遠ざける理由になるはずがないのだ、――
 どうしてこんなに言葉は弱々しいのだろう。せんろより何年も先を生きて何度も痛い目を見てはそのたび学んできたはずなのに、ララはまだ何も知らない。こんなときに気のきいたことのひとつも言ってやれない、それはやりたいことばかり追いかけて、人間と向き合う機会のなかったララの弱みなのかもしれなかった。思考が落ちきる寸前に、もうとっくに忘れたと思っていた父親の背中が見えた気がして呼びかけそうになって、そして隣からの寝息で何度も目を覚ます。浮き沈みを繰り返しながら少しずつ少しずつ深くなる眠りのなか、せんろの小さな吐息の音がララに忘れさせない、今がいつであり、ここがどこなのかを。

6.ハイマと恋とみまる マイ・バギー・バグ

(数年前)

青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

細い腕に力を込めてハイマは小窓を乱暴に開ける。メンテナンス部切ってのハイマの頭脳をもってしても、今日も今日とて廊下をうろつく虫を追っ払う方法がわからない。仕事以外ではこの相手とは極力関わらないようにと今まで思ってきたが、そろそろ堪忍袋の緒も限界である。 #青の楽園

2021-01-26 21:56:56
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「恋! 貴方昨日もここにいましたね、一昨日もそのまた前日も更に前日もずっとずっと毎日毎日よくもまあ飽きもせず!」 #青の楽園

2021-01-26 22:12:58
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 違うとは言わせない。体だけでなく記憶までデータ化したハイマには恋の行動を詳細に記憶することなどなんの造作もない。ついでに言うと、今立ち止まった相手・恋が定期健診の際のブラックアウトを苦手としていることだってうんざりするほど知っている。 #青の楽園

2021-01-26 22:13:59
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 担当医でこそないが、平素のシニカルで落ち着いた様子からは想像できない、メンテナンスのたびに叫ぶ恋のあの情けない姿をハイマは何度も目撃している。何を隠そうハイマはそのさまを、いつも心から軽蔑し見下しつつも楽しみにしているからだ。 #青の楽園

2021-01-26 22:25:35
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao ――恋と個人的に親しいわけではないが、立場上ハイマはこのコロニー内の人間のことなら大抵把握しているのだ――ブラックアウトが嫌いなら健診のとき以外はもうここに来なければよいものを、 #青の楽園

2021-01-26 22:26:56
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao ふつう嫌なものを連想させる場所は避けないか? ハイマには恋のやることの一から十まで徹頭徹尾何一つ理解ができない。そう、それこそ自慢の頭脳をもってしても不愉快かつ不可解きわまりない。 #青の楽園

2021-01-26 22:38:24
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 話しかけられた恋はというと、メンテナンスのことなど何も気にしていないとでも言いそうなすかした顔でハイマへと近寄って笑う。その朗らかさたるや驚嘆ものだ。 #青の楽園

2021-01-26 22:40:07
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 分厚く揃った黒髪がカーテンのように束になって揺れて、そこから光が広がっている。そういえば恋の頭部には見る限りいつも乱れのない天使の環が光っている。それに気づいたハイマはとたんに鼻白んだが、相手はというとそんなハイマの反応などやはりどこ吹く風のようだ。 #青の楽園

2021-01-26 22:48:06
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「どうも、代表の先生さま。いやはや今日も絶好調のようで何より」 「そっくりそのままお返ししますよ。『虫』とは『したたか』の代名詞でしたっけ……、別に嬉しくもありませんが、こうして改めて話すのは初めてかもしれませんね」 #青の楽園

2021-01-26 22:50:12
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「存在だけならお互いよく知ってるのにね」 見事と言う他ない面の皮の厚さだ。ウインクひとつ放った顔を見上げ、ハイマは舌打ちをぶちかました。 「――忌々しい。こういうやつだとわかってたから話したくなかったんですよ。――本題ですが貴方、人助けしてまわってますね?」 #青の楽園

2021-01-26 22:53:05
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「それが何か」 「きょとんとするんじゃない、わたくしには通じませんよ。あのですね、今の貴方はただの宇宙部のいちスタッフ、ただの平社員でしょうが。立場を弁えなさいよ。面倒ごとは何もかもあの毒クラゲにやらせればいいんです、ぜんぶ面倒見るって言ってるんだから」 #青の楽園

2021-01-26 22:55:08
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「毒クラゲ? ああ永遠さんのことか。確かに永遠さんにぜんぶ譲り渡しましたけど、でもオレはオレでやりたいことあるんで」 #青の楽園

2021-01-26 22:55:50
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「それはそれは立派なことですねえ感激して泣きそうです。しかしなるほどね――ここなら人の出入りが多いから困っている人を捕まえられるだろう、とか大方そういう理由――河岸替えしなさいよ。廊下見るたびに貴方のやぼったい姿が視界に入るわたくしの気持ちにもなってみなさい」 #青の楽園

2021-01-26 23:04:29
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「邪魔でした?」 「ですとも」 じゃあやめます、と恋はあっさりひいた。 #青の楽園 これだ。恋のこういうところがハイマにはわからない。気にくわない。

2021-01-26 23:07:34
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao わからないものというのはハイマにとってはこの上ない悪である。恋はというとハイマが困惑の表情を浮かべたのをすぐさま悟ったらしくその長い指を振って、 「今日のところは退散しやしょう。いちばん困った人を無事に見つけられたんで満足です」 #青の楽園

2021-01-26 23:12:35
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao とこのように答えてきたのだが、これもハイマにとってはむしろ謎が増しただけである。この男は何をこんなに嬉しそうにしているのか。珍獣のようだ。ハイマには相手がいやしいものに思えてならない、腹立たしいことこの上ない。 ……そういえば恋は心をデータ化していたはずだ、 #青の楽園

2021-01-26 23:15:42
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 次の定期健診のときに更正プログラムでも流してこの癇に障る性格を勝手に変えてやろうか、いやそれはさすがにまずいか。不意に湧いた企みを気取られぬようハイマは仰々しく腕組みをしてやる。 「あいにく謎かけは好きじゃないんですよ。会話はもう少しシンプルにするものです」 #青の楽園

2021-01-26 23:22:16
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 「いやはや、メンテ部はいいっすねえ。ブラックアウトはごめんですけど、それを抜かせば最高の場所かも。というわけでまた明日も来ます」 「無視するんじゃない! だからもう来なくていいです! こら待て、去るならちゃんと説明してからにしなさい! 恋!」 #青の楽園

2021-01-26 23:32:48
青の楽園/「羊たち」 @nowhereao

@nowhereao 小窓から手を伸ばしたところで逃げ足の早い恋に届くわけもなく、ハイマの手のひらは空を掻いただけでおわる。すぐにその手に一本のメモリが差し込まれ、再びハイマが顔をあげるとそこには丸眼鏡をかけたハイマの部下が立っていた。 #青の楽園

2021-01-26 23:39:49
前へ 1 2 ・・ 5 次へ

作者のオススメ