これは酷い記事だなぁ。失敗で残念っていう前提に沿ってお話を組み立てた記事。ナショジオってこういう残念な記事たまにやるよね。そも元の書籍自体に問題ありますけど。 / 残念な英雄ハンニバル、「象でアルプス越え」の失策度 | natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/12…
2017-12-19 22:35:27初めに「ハンニバルは何故アルプスルートを選んだのか」っていう前提の認識が酷い。当時のカルタゴの置かれた情勢を見るとアルプスルートを選ぶ判断は突飛ではあるが、残念でも間違いではない。勿論、ハンニバルの性急さと傲慢さでもない。
2017-12-19 22:41:47第二次ポエニ戦争開戦時のカルタゴは、かつて誇っていた海軍力を第一次ポエニ戦争で失い、その後に結ばれた条約で軍船保有が厳しく制限された為に回復しようもなく、アフリカ=イタリア間の制海権はローマにがっちし握られていた。また第一次の時と違い、コルシカ・サルディニア、シチリアも失っている
2017-12-19 22:51:40となると陸路でヒスパニア東部から北上し、ガリア南部沿いに行くしかない。当時、大軍が正直に行くならばマッシリア(今のマルセイユ)方面から南沿いにイタリア北部へと侵入するのが一番容易くて当然であり、それはローマもまた認識していて来るであろうハンニバルを迎撃すべく軍団を準備していた。
2017-12-19 22:54:02侵入ルートを抑えられ、正面から万全の体制で派遣されるだろうローマ軍団と戦うのは厳しい。だからハンニバル・バルカは当時、裏を掻いて衝撃を以てイタリアへと侵入する必要があった。だから、アルプスルートを選ぶ必要があったと言えます。
2017-12-19 22:57:36既に国力の衰えたカルタゴではローマと戦うのは厳しく、更に寡兵で遠いヒスパニアから長い遠征を経て碌に戦力補充の当てもなく、戦わなければならないからこそハンニバル・バルカは緒戦から戦略的にイニシアチブを握っていく必要があったわけで。
2017-12-19 23:00:20それに当時、北イタリアではローマによって強行された植民都市建設への反発からケルト・ガリアのボイィ族とインスブレス族がローマに反旗を翻しており、ハンニバルはこれらと合流してローマに打撃を与える計画も立てていましたし。
2017-12-19 23:04:17アルプス越えはローマ人の予想と計画された予定を遥かに超えたスピードでのイタリア侵入を成し遂げ、ティベリウス・センプロニウス・ロングスによる入念な準備を重ねていたカルタゴ本土を攻めるアフリカ遠征は中断されたし、裏を掻かれたコルネリウス・スキピオは引き返さざるを得なくなった。
2017-12-19 23:13:30確かにアルプス越えは膨大な犠牲を出したけれど、アルプスルートについてはハンニバル・バルカは別に冒険的な無謀な山越えを強行したわけではなく、事前に現地のケルト・ガリア人諸勢力に使者を送って案内人や食料、護衛(山越え中カルタゴに敵対的な部族に備えて)を用意してもらっていますし。
2017-12-19 23:16:17それでも膨大な犠牲を出たのは、そもそもアルプスを数万の大軍を以て越えるというのが前代未聞(アルプス越え自体はケルト・ガリア人のガイタサイィ族が戦士を引き連れてやったとされる記録はある)な上に道中、ハンニバル達に敵対的なケルト・ガリアの部族の攻撃を執拗に受けたというのもある。
2017-12-19 23:23:32あとアルプス越えの損失がなかったらローマ市を落とせてたって言わんばかりの内容ですけど、それは飛躍してますよねっていう。それに戦象をやけに強調しますが、ハンニバルは言われるほどイタリア戦で戦象使ってないし、頼ってねぇ!
2017-12-19 23:32:39そもカンナエの戦い以後にローマ攻めをしなかったのは別にハンニバルに攻城戦の才能がなかったわけでも戦力不足(戦力の温存を図ったのは事実だろうが)だったわけでもなく、もっと大きな理由があったと考えられて。
2017-12-19 23:40:07ハンニバル・バルカは、長期戦になってしまったヒスパニアでのサグントゥム攻めや、カンナエ直後のローマ市攻囲の進言を退けたことからのマハルバルの「ハンニバル、あなたは戦争に勝つ術を知っていても、勝利を活かす術は知らない」という台詞から、しばしば攻城戦の才能がなかったと言われますけど
2017-12-19 23:41:37前にも言及した記憶がありますが、元々シチリアのギリシャ植民都市との戦争の頃から伝統的にカルタゴが様々な理由から攻城戦を苦手としていた上に、当時の(しかもカルタゴ本国軍ではない)植民地門閥バルカ一門の軍ではヒスパニアでの経験から攻城戦は到底無理だし、避けるべきだとしてやらなかったと
2017-12-19 23:43:09カンナエ以後、カプアやイタリア南部の旧マグナ・グラエキア都市の離反で根拠地を得るまでは、消耗戦になりがちで時間と戦略的イニシアチブを失う攻城戦を”なるべく"避けるのは当然の判断で。
2017-12-19 23:45:14特にカルタゴ本国軍よりも更に傭兵比率が高く、アルプス越えからずっと戦い続きで子飼いの専属傭兵や同盟部族、市民兵が消耗していた植民地門閥バルカ一門の軍ではより避けなければいけない。ガリア人達も絶対の信頼が置けるというわけではなかったし。
2017-12-19 23:45:15そんなバルカ一門の軍が、カンナエで大敗し悲嘆と恐怖が蔓延していたローマ市といってもその内部にはまだニ万前後(新兵が大半とはいえ)の軍団を抱えていたし、カンナエの余勢を駆ってローマ市の攻城にかかっても手こずる可能性は高いと言える。ローマ市自体の防御力はあんまり高くないとはいえ。
2017-12-19 23:48:06更に周辺のローマ同盟軍(Socii)や新たな軍団が万単位で形振り構わず新たに召集されていた可能性も考えられ(後にこれは事実となった)ことから、ローマ市の攻城で手こずってる間にそれらに背後を突かれていたらカンナエの大勝など関係なくなってしまうだろう。
2017-12-19 23:48:06これではローマ市の攻城がいけるとされる理由がない。マハルバルやローマ攻めを進言したバルカの諸将はかの名言「戦争に勝つ術を知っていても、勝利を活かす術は知らない」で"ハンニバルの限界"を示したと見せかけて、結局は"自分達の状況判断力と戦略眼の無さ"を露呈する結果となっていると言える。
2017-12-19 23:49:52でも、これでもバルカ一門はカルタゴの伝統ある軍人の名門だし、国際的に見ればとりあえず水準以上と言えるのが、こう、ローマの異常さを逆に表してる感がある。
2017-12-19 23:51:14カンナエの結果でカプア市を初めとしたローマ傘下都市の離反が相次ぐまで、第二次ポエニ戦争初期~中期にかけてのハンニバル・バルカの軍は明確な根拠地を持たない流浪の軍勢でした。本国との連絡線は途絶えたまま。食料や物資はとりあえず略奪でなんとかなるが兵力補充の当てもない。
2017-12-19 23:54:48だから彼はそれを逆手にとり、常に移動し、数倍の敵を相手取っても勝てるよう自分に都合の良い戦場を選定できるという戦略的なイニシアチブを握れる野戦主義を徹底してきたし、カンナエの勝利効果が分からず、根拠地も得られないままの勢いだけのローマ攻城戦に慎重になるのも納得が行くわけです。
2017-12-19 23:54:48カンナエの勝利後、イタリア南部に根拠地を得てカルタゴ本国と連絡線を回復し、ハンニバルとカルタゴ元老院は植民地紛争の勢いのまま始まり、全面戦争に至ってしまった戦争の落とし所をカルタゴ有利な講和に定め(たと考えられる)、その方針に従って動き始めるのだけどそれは別の話なので置いておく。
2017-12-19 23:54:49あとこの記事の元となっている「失敗だらけの人類史~英雄たちの残念な決断~」(元の本は「Encyclopedia Idiotica(略)だったかな?)はちゃんとした歴史本ではなくコンビニ本レベルのいい加減な内容が多い娯楽本です。真面目に受け取るものではないと思います。
2017-12-20 00:08:02著者のStephen Weir氏は作家であって研究者ではなく、致命的な事実誤認だけでなく、面白おかしくお話を捏造したり捻じ曲げたりしてよく批判されてる人です。ナショジオェ……
2017-12-20 00:08:03ハンニバルがカンナエの後、何故ローマを攻めなかったのかという話で「カルタゴは陸軍の主力が傭兵になって以降、伝統的に攻城戦を苦手としていた」「徹底した野戦主義で戦略的イニシアチブを握り続けてきた故に勝っていたのにそれを失いかねない攻城戦を行うのは考えにくい」等と述べてきましたが
2018-05-12 11:34:33もっと単純に「カンナエからローマまでだいぶ遠い」というのは話してなかったなと。これは意外に言及されていないのだけれど。 カンナエからローマまで実に直線距離で300km以上、街道なら400㎞近く離れているので馬と人の当時の移動手段では攻めるにしても遠すぎるという話になるのですハイ。
2018-05-12 11:34:34