「外傷的傷」は、ふるさとのコミュニティや家族とも、学校や教師とも結ばれているかもしれず、それは振りほどくことも、どちらかを選ぶことも簡単にできないしろものだからだ。 「ネイティヴ人類学者」は自分の発する言葉そのものが自分を裏切っているようで、「失語症」に陥るかもしれない。
2021-02-11 02:54:39既存の学問の言葉で伝えようがないものを伝えようとする時、「エクリチュール・フェミニン」「バイリンガル・テキスト」「クレオール主義」といった言葉の模索と格闘が始まる。 (p.185) 「ネイティヴ人類学者」は、インフォーマント以上、欧米の人類学者未満の存在として、一般に伝わるよう複数言語を
2021-02-11 03:18:50駆使できる便利な存在として、いつでも「許可証的(トークン)マイノリティ」にも「植民地支配の道先案内人」にも登用されうる。暗号が見逃されている限りは。 第10章、環状島と知の役割 (2) イシュー化のための概念や用語を生み出し、環を作りやすくする[…] 一方的な流用や占有にならず、初期の触発性 pic.twitter.com/L2VGvTNoJ9
2021-02-11 03:35:23を保ちながらそれを行なうことは容易ではないが。 (4) 〈波打ち際〉の徴候を感じとり、読み解いて、〈内海〉を小さくする[…] ジュディス・バトラーのインテリジビティー(発話明瞭度・明快度)と重なるものがあるかもしれない。 (p194) 古代から人類は傷つきながら生き延びてきたのであり、
2021-02-11 03:43:58これらの知恵は〈内海〉に堆積し、波に洗われながらつねに感受されるのを待っている。 (9) 〈水位〉を下げる、とは、聞く耳を持った受け手をつくること、弱者が自由に語ることのできる場所や媒体を提供したり広げること、一般市民に状況提供することなどであり、広い意味での教育や啓発である。
2021-02-11 03:50:43同時に研究者や専門家自身が一市民として被害当事者の訴えに耳を傾け、そこに含まれる意味や重みを掬い取ることも重要だ。 (p.199) ある領域を選んでしまったらもはや問うことのできない問いもある。各領域では、いつも最初から議論を蒸し返さずにすむように、ある程度議論の前提が明示的または暗黙に
2021-02-11 03:56:18設定されているからである。今後、ある学問だと何が見えて何が見えなくなるのか、それらがどれほど可変的なのかを明確にする「比較学問学」のような分析が必要かもしれない。 (p.203) 信用性や中立性はアカデミズムにおける賭金として重要だから、研究者や科学者はバッシングに脆弱性をもつ。
2021-02-11 04:02:52トラウマに関してはFMS(虚偽記憶)論争が記憶に新しいが、攻撃の対象となるかもしれないという怖れによって、被害者に近い専門家がその問題から自発的に手を引くよう仕向けられるメカニズムがそこにはある。これは被害者を孤立化させ、加害から世間の目をそらすためのきわめて効率のいい作戦と言える。
2021-02-11 04:07:50(p.206) 悪用できない知などたいした知ではない。だからこそ、研究者や専門家、知識人は自分の知的営為の置かれた文脈や波及効果をもっと意識してみる必要があるし、知的営為を可能にする資金の流れや、生み出された知識の流通のされ方に、より敏感になる必要がある。
2021-02-11 04:13:12(p.208) 「専門家でもない者が口出しするな」という物言いに対し、「でも、専門家だからこそ切り捨ててしまう視点や事実がある」と言い返すことができる。 (p.209) パッシングとは、マイノリティの人がそれを隠して差別や不利な状況から逃れ、マジョリティのふりをして生きることを主に意味する。
2021-02-11 04:18:25(p.210) 当事者研究という括り方には限界もある。それは、当事者であると名乗る(カムアウトする)ことが前提となっており、そのためには自分が当事者であることを受け入れ、引き受け、できれば愛することまで必要になるからだ。 捉え直しはステップにもなるし、アウティングされ、公的にスティグマを
2021-02-11 04:25:24貼られてしまっている場合も、「開き直り」の契機が生まれる。ただ、一般論としては、その人の抱えるトラウマが個別散発的なものであり深いものであればあるほど、当事者として名乗ることには困難が伴う。パッシングは、社会の差別的価値観を肯定し、マジョリティに与えられる恩恵を享受しており、
2021-02-11 04:30:57卑怯なことというニュアンスがつきまとう。けれども人はみなさまざまな事情を抱えて生きている。カムアウトしない・できない事情は山のようにある。他人に説明できる事情などたいした事情ではないとさえ言えるかもしれない。ほとんどの人がパッシングをして生きていると考えたほうが理屈に合う。
2021-02-11 04:34:41だから「隠れ当事者研究」をしている人もいるだろう。自分のトラウマに直接取り組むのではなく、関連したテーマを選んで「ずらし当事者研究」をしている人もいるかもしれない。 そもそも自然科学のように、研究者自身について記述する余地のまったくない学問領域も多いし、研究者自身について記述
2021-02-11 04:39:25する慣習がなく、客観的書き方しか今も受け入れない学問領域も少なくないだろう。研究者自身、何に突き動かされて研究をしているのかわからないかもしれない。 (p.212) 「生命学」を提唱する森岡は、「自分を棚上げしない」姿勢を重視する。けれども同時に、それを他人の批判に、特に人々の面前では
2021-02-11 04:45:06使わないことが重要であるという。また、「私語り」は生命学の重要な手法だが必須ではなく、慎重な配慮が必要であることを指摘している。 人間の多面性や複雑さ、誰も皆うかがい知れぬ側面、他人が簡単に触れるべきではない部分を持っていることへの理解と敬意が必要である。
2021-02-11 04:50:49環状島は、本来語ることができないはずのトラウマを語ろうとする時、どのようなことが起きるのか、という問いから生まれた。 (p.214) 声を出さない当事者はどこにいるかわからない。見えないもの、知らないことに想像を働かせる時、そこには補助線が必要になる。さもなければ想像自体が、
2021-02-11 04:56:12見えないものに対する暴力となりうる。〈内海〉を想像するためには、声の出せる人や、その証言から補助線をひくことができる。 そういう意味では、すべての証言は代弁で〈も〉ある。証言は証言そのものとして尊重され深く受け止められるべきであるとともに、より内側にいる犠牲者の代弁としても
2021-02-11 05:00:48理解され深く受け止められるべきである。声をあげ続ける人たちへの敬意と、声をあげられない人たちへの想像は両立するはずである。 アボリジニーのドリーミングは、欠けた月の静かにゆらめく暗い部分を見ることに喩えられるが、発話する当事者に敬意を払うとともに、その内側に常に影が存在すること
2021-02-11 05:06:48感受されるべき沈黙が存在することを想像してみたい。発話そのものに敬意を払うとともに、それでも語られずにいること、表現されえない何かが存在することを想像してみたい。そういった受け止め方や聞き方、たたずまい方を体得していきたい。
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