第8章、加害者はどこにいるのか 第9章、研究者の位置と当事者研究 第10章、環状島と知の役割
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花びんに水をدعونا نملأ المزهرية بالماء☘️ @chokusenhikaeme

Ay ay ay, que el esclavo fue mi abuelo es mi pena, es mi pena. Si hubiera sido el amo, sería mi vergüenza; わたしの祖父が奴隷だったのは 悲しいことだ でも奴隷の主人だったら 本当に恥ずかしいと思っただろう  ~フリア・デ・ブルゴス pic.twitter.com/r2WTfCnbZa

2021-02-07 07:37:03
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前掲書(抜粋③) 第8章、加害者はどこにいるのか 第9章、研究者の位置と当事者研究 第10章、環状島と知の役割 (p.153) 加害者は〈内海〉の中心部である〈ゼロ地点〉の真上にかつて居たし、今もそこにいる。「幻影」としてだが、臨在感をもってそこに君臨している。 pic.twitter.com/IYDxMzlHJ4

2021-02-07 07:37:42
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現実の加害者はとっくに立ち去り、環状島の近辺から姿を消している。〈外海〉のずっと沖合、大洋のただ中を何食わぬ顔で漂っているかもしれない。島の人が糾弾しようとしても届かない場所。首根っこを捕まえて連れて来ようと探しても、見つかりようのない場所。

2021-02-07 07:55:44
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そもそも環状島はトラウマティックな出来事の起きた後、かなり時間が経過しなければ形成されない。生き延びた被害者が自分の痛みの由来に気づき、事の次第をようやく認識し、怒りを募らせ、加害者を問い詰めようと決意する頃には、加害者は遠く離れている。  移動の自由は力を持つ側にある。

2021-02-07 08:03:25
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(p.156) 生身の加害者は立ち去って、もはや〈ゼロ地点〉の真上、太陽の位置にはいない。けれども同時に、被害者からみれば、加害者は今もそこに君臨し続けている。中井はいじめの進行過程を「孤立化」「無力化」「透明化」に分けた。最終段階の「透明化」について、こう述べる。

2021-02-07 08:09:18
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[さらに被害者の世界が狭まってゆく。大人も級友たちも非常に遠い存在となる。遠い別世界の住人のように見えてくる。空間的にも、加害者のいない空間が逆説的にも現実感のない空間のようになる。たとえ家族が海外旅行に連れ出しても、加害者は " その場にいる " 。空間は加害者の臨在感に満ちている。

2021-02-07 08:16:21
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いつも加害者の眼を逃れられず、加害者の眼は次第に遍在するようになる。独裁国の人民が独裁者の眼をいたる所に、いつも感じるのと同じ心理的メカニズムである。]  中井の指摘する加害者の臨在感や遍在感は、対人的暴力によるトラウマのほとんどにあてはまる。DV被害者は、家のどこにいても加害者の

2021-02-07 08:22:09
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視線から逃れようがないように感じる。加害者が家にいない時間でも、見張られ、命令され、罵倒されているように感じる。頭の中に相手の言葉が鳴り響き続ける。誰かに軽く肩を触れられるだけで、生々しい触覚感覚が呼び起こされる。加害者は被害者の空間と時間を支配する。

2021-02-07 08:27:54
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ささいなきっかけで被害者を繰り返し侵襲する。PTSDの再体験症状、トラウマ性の幻聴・幻視・体感幻覚といっていい。それは「幻」というにはあまりに生々しすぎる。内面化された記憶というより、もっと現実感を伴った「外」からの侵襲・刺激の存在感。現実の世界がリアリティを失うのと引き換えに、

2021-02-07 08:41:28
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そこには鮮明すぎるほどのリアリティが存在する。加害者からすれば、それは「被害妄想」であり、第三者から見ても「過剰反応」にしか見えないかもしれない。けれども恐怖体験やトラウマ記憶とはそういうものであり、加害者の存在は脳や身体の深いところで作用し続ける。

2021-02-07 08:58:51
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被害者は加害者の幻影に被爆し続け、その作用は進行する。加害者は「幻」であっても、持続的被爆そのものは「事実」であり、厳然として存在する。  被害者にとっては圧倒的な存在なのに、第三者にとっては加害者の臨在感は想像がつかない。  済州島4・3事件に巻き込まれながら言葉にできずにいた

2021-02-07 09:11:05
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金時鐘は、「思い起こそうとすると、かたまりのまま、わっと押し上がってくるから、言葉にならない」、「事実というのは個人にとって圧倒するものであっても、それは球面体の一点のシミみたいなものだ。真上からはそのシミが大写しになってすべてのようであるけれど、角度がずれると見えない」という。

2021-02-07 09:16:58
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言葉にならないほどの大きなかたまりなのに、少しずれるとシミにしか見えない経験。真上からしか見えない傷。被害者にしかわからない臨在感と被支配感。「主流派と直接衝突することは、槍を空に投げて突き刺そうとするようなものである」と述べたミンデルの言葉も、「真上」のメタファーを用いている。

2021-02-07 09:20:43
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主流派は上から自分たちを抑えつけ支配しているにもかかわらず、いざ立ち向かおうとすると、槍は空を切るだけで、何の手応えもない。投げた槍は重力によって自分の頭上に落ちてくる。 (p.160) 「真上」「垂直」というメタファーは、村上春樹の『ねじ巻き島クロニクル』の井戸を連想させる。

2021-02-07 09:27:35
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「ノモンハン事件」の後、中国大陸で深い涸れ井戸の底に放置され、何日も過ごす日本軍の中尉。暗闇の中、一日一回わずかな時間だけ、太陽の光が井戸の底にまで届く。真上に太陽が昇る。自分の存在が、自分の傷が、日の下にさらけ出される瞬間。もしその光が敵の懐中電灯であれば、とどめの銃弾が

2021-02-07 09:38:51
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撃ち込まれる。中尉は強烈な光を浴びた瞬間に、自分の中の「生命の核のようなもの」がすっかり焼き尽くされたように感じる。この光は、ツェランの詩集『迫る光』におけるものと同質だ。本来死ぬべきだった時に、光と共に死ねなかったという無念において、自分の中の何かは光と共にすでに死んだという

2021-02-07 09:44:41
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確信において。主人公は自ら井戸の蓋を閉じ、光を遮断し、暗闇に沈潜していく。生殺与奪の鍵を握る井戸の出口にとらわれるのを止め、そこからの光に救いを求めることを止めた時、ようやく敵の支配から自分の身を引き剥がす可能性が開けていく。加害者との「外傷的絆」を断ち切る可能性が生まれてくる。

2021-02-07 09:50:42
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☺️この『ねじ巻き島のクロニクル』の井戸は、ぼくに2つのインスピレーションを与えてくれます。  ひとつは、第二次世界大戦中、旧ソ連軍から脱走し、41年間豚小屋で生きていた実在の人物に刺激を受け書かれたアソル・フガードの『豚小屋』です。twitter.com/chokusenhikaem…

2021-02-07 10:09:30
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モーメントの中のこれ以下の部分になります。twitter.com/chokusenhikaem…

2021-02-07 10:27:01
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

#穴の中の人メタファー あなたは目隠しをされた状態で原っぱにいて、さらに道具の入った小袋を渡されていたとしましょう。そして、あなたの仕事は目隠しをしたままこの原っぱを走り回ることだ、と伝えられたとします。人生とは、そのようなものなのです。そこで、あなたは言われたとおりにします。

2015-04-22 15:52:37
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閑話休題。 (p.161) 被害者にとって加害者の臨在感は圧倒的なのに、周囲の人からはそれが見えない。これは被害者と加害者との間に期せずして結ばれてしまう「外傷的絆」を表しているといえなくもない。加害者へのアンビバレントな感情がより濃い影を落とすようになる。

2021-02-07 11:26:43
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金時鐘は済州島で迎えた終戦=日本の敗戦=植民地朝鮮の解放の日を描写する。  [8月15日が解放の日というのは、ぼくの場合は半日の解放や。午前中いっぱいは俺、皇国少年だったんだよ。祖国も8月15日の午前中はまだ植民地統治化にあった。

2021-02-07 11:33:15
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自分を思うとね、「南中をやどす男」と思う。正午でも影は足下で北の方に影をつくっている。影の部分で目を凝らしているものにぼくもおずおずと眼差しを向けてきたが、もう待ち時間のほうが底をつきかけている。その影の中にあるものこそぼくの日本語であり、ぼくが抱えるぼくの日本なんだ。]

2021-02-07 11:37:40
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細長い垂直の空間、真上には加害者、真下には被害者しかいない井戸。「外傷的絆」を示す細長い空間。加害者は被害者を支配し続け、過去のみならず、被害者の現在と未来をも侵襲し続ける。  「和解とは相手を赦すということではなく、相手が存在するのを赦すことである」。

2021-02-07 11:48:51
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それは井戸の真上に生身の加害者がいることを被害者が許容できるようになることであるといえる。  そうなるためには当然、加害者が変わる必要がある。その変化を被害者の側が実感として受け入れられるようになり、両者の関係が変化して、外傷的絆から被害者が解き放たれていく必要がある。

2021-02-07 11:53:52
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被害者は加害者に真の謝罪を望む。心からの謝罪を望む。真の謝罪は、加害者がもう事件当時の加害者ではないことを示し、そこには二度と戻らないということの宣言だからである。井戸の出口や、〈ゼロ地点〉の上空で、全能的な力を振る舞い続ける存在ではもはやないということが示され、被害者もそれを

2021-02-07 12:00:38
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信じることができ、過去の幻影から解放されるからである。未来にも影を落として拘束し続けるような臨在感からも解放されるからである。  上野は、一貫性のある「責任主体」という法的な概念とは別に、変容することで果たしうる責任主体があると論じる。加害者と被害者との間には、リアリティをめぐる

2021-02-07 12:05:22
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乗り越えがたい溝が横たわっている。 (p.167) 外傷的絆から被害者が少しずつ解放されていくために加害者ができることは、加害者自身が変わり、それを被害者に示すことである。  加害者への働きかけが有効に作動しない場合はどうすればいいのか。支援者や治療者が加害者の〈かつていた〉場所に行く

2021-02-07 12:10:26
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ことで、被害者を助け出すことはできるのかもしれない。加害者の幻影の前に立ちはだかること。いまだ怯え、また加害者がやってきたと思って、ますます深く奥に潜ろうとする被害者に対して、「私は加害者ではない。あなたの味方なのだ」と手を差し伸べ続けること。twitter.com/chokusenhikaem…

2021-02-07 12:21:36
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「私には落ち度がある」と信じる必要がありそうですか?責める行為は、穴の縁に立って、中にいる人の頭の上から土を投げ入れながら、「掘って出て来い! 掘って出て来い!」と言っているのと同じことです。 pic.twitter.com/Aal7N3OBdY

2015-04-22 17:11:35
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「あなたの見ているのは幻影であり、あなたの恐れているものはもう過去になった」と繰り返し伝え、頭ではなく身体で信じてもらえるようになること。twitter.com/chokusenhikaem…

2021-02-07 12:26:09
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誰かが鉄の梯子を下ろしてくれたとしたら? あなたがまず先に、掘るという発想を手放さない限り、あなたはその梯子を使って掘り続けようとすることになります。そして、梯子はシャベルとしては使い勝手がよくありません。シャベルが欲しいのなら、あなたはすばらしくいいものを既に持っています。

2015-04-22 17:34:40
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そういう意味では、被害者が治療者や支援者に加害者の像を投影して激しい感情反応が起きた時こそ、被害者にとっての回復の転機になりうるのかもしれない。同時に再外傷の起きうる一番危険な時でもあるが。twitter.com/chokusenhikaem…

2021-02-07 12:30:40
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あなたがシャベルを手放すまでは、何か他のことをするだけの余地がまったくありません。そのシャベルが手から離れない限り、あなたの手は、本当の意味では、ほかの何もつかめません。手放すことが必要なのです。

2015-04-22 17:38:25
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(p.171) トラウマをめぐる発話に研究者はどんな影響を与えているだろうか。どのような関与のしかたがありうるだろうか。  研究者の位置としては、二通り考えられる。当事者たちから距離を置き、上空から全体を俯瞰する位置。 当事者に密着し、地を這う低いところに視点をtwitter.com/chokusenhikaem…

2021-02-07 12:39:22
花びんに水を☘ @chokusenhikaeme

あなたには、ほとんどの人が決して学ぶことのない何かを学ぶチャンスがあります。それは、穴というものから出る方法なのです。今の穴に落ちなければ、あなたがそれを学ぶことは決してなかったことでしょう。

2015-04-22 17:51:54
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置いてものごとを見る位置。環状島との位置関係は図の①と②であらわされる。  〈内海〉の存在を見いだせるのは上空にいるからこそである。それが何を意味するかを否認せずに受け止められるかどうは、別問題であるが。  上空から見下ろすか、地を這うか。鳥瞰図か虫瞰図か。etic か emic か。 pic.twitter.com/3f3lTxm3ps

2021-02-07 17:13:48
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マクロかミクロか。量的研究か質的研究か。①の上空の位置と、②の地上の位置は対照的で、当事者との距離も、トラウマへの「被爆」や「感作」の程度もまったく違う。  ②の地上の位置においては、当事者の側が研究者から受ける影響も大きいことは指摘しておくべきだろう。当事者と支援者の間に起きる

2021-02-07 17:19:52
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葛藤やトラブルはすべて、研究者との間にも起こりうる。②の位置においては同じフィールドという空間にいるため、研究者と当事者の間に同一化幻想がはぐくまれやすいが、両者は同じ地平にいるわけではない。研究者は必ず「跳躍」をする。学問には、概念化や理論化、一般化や相対化に向けてのモーメント

2021-02-07 17:26:03
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がある。これが「跳躍」である。そのために、蓄積された知識の活用、歴史的理解、比較検討、複数の視点からの突き合わせ、構造的分析などの営為がついて回る。また研究者の身体にも、所属領域特有のハビトゥス( habitus )が血肉化されている。そして研究者は、いずれ「帰郷」する。

2021-02-07 18:04:54
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going native (そのまま現地の人間になってしまうこと)という選択もありうるし、それはそれでラディカルな、時には誠実な方法ではあるが、学問の枠から外れたことになってしまうし、研究者自身も自らを「研究者」とは呼ばなくなるだろう。  当事者と研究者の間の同一化幻想は必然的に破滅する。

2021-02-07 18:11:23
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「当事者と親しくなればなるほど、研究者として優秀であって、素晴らしいものが書ける」といった思い込みが、いかに甘いロマン主義だったのかに気づかされる。「当事者の視点」は「学問的中立」のもとに相対化・抽象化され、「当事者のため」という熱意は、学術的な「場」からの要求と齟齬をきたすか、

2021-02-07 18:16:12
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パターナリスティックな専門家倫理に変容していく。  当事者は、研究者個人の背景に自分たちの知らない物事が多々あったことに徐々に気づく。研究者に裏切られたように感じる。コミュニティからは、内部の秘密を外部に漏らしてしまった恥さらしだと非難される。フェミニズムの難解化に対しての

2021-02-07 18:21:42
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「一般女性」の批判や失望感なども、これに関係する。自分の圧倒されるような経験が軽視されるような感じ。ワンオブゼムにされてしまうことへの抵抗。知られすぎてしまう恐怖。 (p.180) 研究者から当事者への接近や接触のあり方、そこでの互いの位置、その中で当事者をさらに傷つけたりしないような

2021-02-07 18:27:12
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配慮、というのはもちろん大事だ。けれど研究者にとっても当事者にとっても後でより重要になるのは、そういった直接の関係よりも、むしろ研究の成果物の提出のされ方のほうかもしれない。当事者との関係については調査プロセスのほうが重視されがちで、研究成果の報告・発表・表象のされ方については、

2021-02-07 18:32:12
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対象者のプライバシーの保護が強く言われるくらいで、あまり議論されていない。 (p.181) 当事者が研究者になるというパターンは図の③の〈内斜面〉を徒歩で登っていくイメージである。研究者が歩んでいく軌跡がそのまま環状島の稜線になっていく。  ネイティヴ人類学者だけでなく、フェミニズム、

2021-02-07 18:37:14
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マイノリティ研究、ポスト・コロニアル研究、障害学などもここに含まれる。  学問の営みこそが、トラウマをもたらす直接の原因であることもある。先住民の子どもたちのように、学問をすること(教育を受けること)が主流派への同化政策と結びつき、マイノリティとしての自己否定や自己憎悪、

2021-02-07 18:41:48
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コミュニティの崩壊につながってしまうといった例があげられる。障害者や病者のように主体性や尊厳を奪われる扱いをされたり、学問をする側ではなくされる側として、パターナリズムによる専門家支配に絡め取られるという例がある。  学問の営みからこれまで排除されていた人たちや、学問によって

2021-02-07 18:47:19
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傷つけられてきた人たちが、「自分探しの旅」から「ネイティヴ人類学者」への道をたどろうとし、「当事者の時代」を堂々と宣言するようになっている。そこには解放があり、同時に苦悩がある。  解放は、生きる主体を取り戻す作業となる。専門家に「自分の苦労を丸投げ」するのではなく、

2021-02-07 18:51:47
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「自分の苦労の主人公になる」のだ。「「問う」という営みを獲得すること」がどれほどのエンパワメントをもたらすのか、逆に言えば「専門知」がどれほどの弊害をもたらし、専門家のパターナリズムがどれほど当事者の力を奪ってきたのかがそこには鮮やかに示されている。

2021-02-07 18:56:16
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(p.183) 当事者は、学問という枠そのものの窮屈さや抑圧性、学問の「場」のもつ排他性に気づかされる。そして、どのように「跳躍」するのか、どこに最終的に身を落ち着けるのか、といった選択に自身が引き裂かれそうになる。そんな状況に身を置いて、E. B. デュ・ボイスは「二重意識」を指摘し、

2021-02-11 02:45:14
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フランツ・ファノンは「自らを問い続ける身体」を語り、グロリア・アンサルドゥーアは「十字架になりなさい」と呼びかけ、エドワード・サイードは「亡命者」として知識人をとらえようとする。「ネイティヴ人類学者」が自分の出自を遡り、現在までの軌跡を辿り直すことには、深い痛みが伴うだろう。

2021-02-11 02:50:17