ハビトゥスの概念を用いて・還元主義について
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花びんに水をدعونا نملأ المزهرية بالماء☘️ @chokusenhikaeme

✄---------- 『#なぜふつうに食べられないのか』磯野真穂(春秋社2015.1) から、拒食と過食についての文化人類学的アプローチ ----------✄ pic.twitter.com/wyWhESRxt4

2015-08-07 21:02:43
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たとえば、国籍が日本かアメリカかで、両者の間にくっきりとした境界を引くことは可能である。しかしこれは、私たちが「アメリカ人」についてよくわかったことを意味しない。なぜなら国籍は区別であって、理解をもたらすものではないからである。

2015-08-07 21:40:48
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ひるがえってなぜ私たちは、少しおかしなあの人と私たちの間に、「病気」と「ふつう」という境界が引かれただけで、わかった気になるのだろう。それは、少しおかしなあの人が病気の世界の住人とされた瞬間に現れる、「代理人」の存在による。

2015-08-07 21:46:35
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代理人は、あの人にかかわる、ありとあらゆることについてたいへん流暢な説明をする。そして代理人の言葉を熱心に聞く私たちは、少しおかしなあの人についてますますわかった気になってゆく。しかし心の病を持つ人に対してなされがちなこのような理解のされ方は、本来のわかることからは遠い所にある。

2015-08-07 21:52:45
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アメリカ人についてわかりたいと思ったら、代理人ではなく、多くのアメリカ人と直接言葉を交わすべきであろう。その対話が、同じ人間であるという謙虚な姿勢においてなされれば、その対話から、アメリカ人とはどういう人たちか、さらには、私たちはどういう人間かが今以上にわかってくるはずだ。

2015-08-07 21:57:12
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しかし私たちは、こと心の病の話になると、その人たちを、別種の人間として捉え、その人たちを遠目から取り巻き、本人ではなく、代理人の声を聞くことに熱心になりがちである。

2015-08-07 22:01:29
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しかし代理人の言葉を聞いて私たちが感じる少しおかしなあの人へのわかったつもりは、わかるという名の無関心ではないだろうか。少しおかしなあの人を同じ人間としてとらえる姿勢の放棄ではないだろうか。

2015-08-07 22:04:40
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私は「拒食や過食がやめられない」という一見大多数の人とはかけ離れた女性の人生の中に、人が食べて生きることの根源的な意味を見出したいと思う。そのためにまず、彼女たちと私たちを分け隔て、別種の人間としてしまう「摂食障害」という病名を、彼女たちから外してみよう。(はじめに ⅰ-ⅳ )

2015-08-07 22:11:33
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(第13章 反転する日常 Ibid.,254-256) 彼女たちの食べ方は、祝祭の時空間における人々の食べ方の相似形といえる。異常とされる彼女たちの食のあり方の向こう側には人間に普遍的に見られる食べ方の決まりがある。

2015-08-07 22:47:19
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彼女たちは症状とされる食べ方の渦中にあっても、食べ物によって日常と非日常を作り出すという人間らしさを失ってはいない。キャベツで過食ができないことには、論理的な理由があるのである。

2015-08-07 22:56:52
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しかしながら彼女たちの過食は、祝祭の時空間における食のあり方と全く同一ではないことにも注意したい。差異の一つ目は、過食における時空間の反転は中途半端に終わるという点である。

2015-08-07 23:00:28
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彼女たちは過食中に食べ物を味わうことはなく、また過食後は嘔吐や下剤乱用によって過食の事実を消しにかかる。つまりこの食べ方は祝祭の席に身を置きながら、その場に意識が向かないよう、違うことを考えたり、あえて仕事をしたりするような行為といえる。

2015-08-07 23:04:38
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時空間の意味は、人間が積極的に参与することで初めて成立する。したがって、そこに参与することを意識的に拒む身振りを本人が選んだ場合、非日常の時空間は成立しきらない。

2015-08-07 23:11:39
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彼女たちは、食べ物の選択や量という点において時空間の反転に成功しているのであるが、肝心の本人が食べつつもそこから離脱しようと試みるため、結果的に完全なる反転は起こらないのである。

2015-08-07 23:12:25
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二つ目の差異は、過食は続ければ続けるほど、孤立を深める食であるのに対し、祝祭における食はそこに居合わせる者同士のつながりを深めたり、関係性を確認したりと、人と人との紐帯を作り出し、継続させたりする機能を持つことにある。

2015-08-07 23:17:31
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特別な時空間で同じものを身体に取り入れることで、人々の関係性が確認され、ひるがえってそれが日常の時空間に戻った時の円滑な人間関係の構築と維持に寄与するのである。しかし過食の場合、そのような紐帯の構築・維持は一切生じない。

2015-08-07 23:27:25
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やせていること、食べないことを心のよりどころとする彼女たちにとって、それと矛盾する過食は、他人にはさらしたくない姿である。だからこそ彼女たちの過食から、必然的に他者は排斥される。

2015-08-07 23:31:36
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加えて、過食が精神疾患の症状であるという事実が、彼女たちの孤立を深めてゆく。病気というレッテルは、病気の人とそうでない人の間に越えがたい壁も作り出す。

2015-08-07 23:39:22
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その食べ方は病気であり、それを修正するには特別な知識と方法が必要という専門知により権威づけられた考え方は、彼女たち自身に、自分は他とは異なる存在であるという認識を植えつけざるを得ない。

2015-08-07 23:40:49
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そしてその異なり方が、特技があるとか、富があるとか、そのような羨望を生む差異ではなく、多くの人ができればそうはなりたくないと願う形であることを、彼女たちは過食の時空間から抜け出すたびに確認せざるをえず、その自覚は次なる過食に自らを引き込む契機となる。

2015-08-07 23:46:13
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彼女たちがうまく食べられなくなったきっかけは、いじめ、身体への揶揄、友人・家族関係のいざこざなど、人々とのつながりの間に生じた亀裂であった。その亀裂が苦しかったからこそ、彼女たちはやせることに活路を見出そうとしたのである。そして彼女たちの試みは、ほんの一時であるが、成功を収めた。

2015-08-07 23:55:43
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成功体験は彼女たちが抱えてきた苦しさを少なからず取り払った。彼女たちが食べ方を変えたそもそものきっかけは、人と人とのつながりをより快適なものに修正することだったのである。しかしそれは結果的に、孤立という彼女たちがもっとも望まない方向に彼女たちを誘導することとなった。

2015-08-08 00:01:02
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日常の食を反転させる形で行われる過食は、フローを引き起こし、それは彼女たちが不安と心配事がうずまく日常を乗り切るための術として定着した。しかし、そのフローは誰とも共有することができない。過食は続ければ続けるほど孤立を生む、ひとりだけの悲しい祝祭なのである。

2015-08-08 00:06:50
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(「ふつうに」食べられない、とか「ふつうの」人という、取りようによっては非常に語弊を招きかねない表現を、なぜ著者はとるのか、「うまく食べられなくなったふつうの人たち」について、著者は、食という慣習行動を、ピエール・ブルデューのハビトゥスという概念を使って文化人類学的に捉えている)

2015-08-08 05:28:01
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(Ibid.,261-282) 私たちは生きるために食べると人は言う。しかし生きるとはどういうことだろう。どうやって食べたら、生きるために食べていると言えるのだろう。

2015-08-08 05:36:30
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食は栄養摂取と同義ではない。栄養摂取は一人でもできるが、食べることによる紐帯を一人で作り出すことはできない。

2015-08-08 05:39:40
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摂食障害の専門家、自助グループゃ親の会は、摂食障害が特別な病気でないことを主張すると同時に、「正しい知識」も持てと言う。摂食障害が特別な病気でないのなら、なぜ正しい知識が必要なのだろう。一方で特別扱いしないよう求め、他方で当事者を理解するための正しい知識の獲得を要求する。

2015-08-08 06:26:23
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彼らの主張の眼目は、摂食障害と診断された人々を、そうでない人たちと地続きの地平でみる事だ。もしうまく食べられなくなった人たちを、そうでない人たちと地続きの地平でみなすのであれば、正常・異常という境界を必然的に作り出す「摂食障害」という名称を意識的に取り外すことも必要であろう。

2015-08-08 06:34:50
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食べ物と他者はよく似ている。それらはふたつとも、人間にとって怖いからである。食べることも、他者と交わることも、自らの境界の内部に外部を招き入れること、つまりそうすることで自らの内部に何らかの「ゆらぎ」を生じさせる点で同じである。

2015-08-08 06:41:07
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そのゆらぎは自らにとって心地良いこともあるが、一方それは凶器となり、自らをひどく傷つけることもある。どちらに転ぶかわからないからこそ、食べ物と他者は、自己と外界の区別ができる人間にとって本質的に怖い。

2015-08-08 06:47:56
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ふつうに食べられなくなった彼女たちが怖いのは、気づかぬところで彼女たちを優しくおだやかに守ってくれていた、食についての当たり前の数々をやせようとする過程で自ら捨て去ったからであり、食べ物と身体についての理解が専門家からみて誤っているからではない。

2015-08-08 06:54:34
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彼女たちが犠牲にした一見とるに足らない当たり前のそれぞれは、日々の暮らしの中で心地良く食べ、食を通じてつながりを作り出すための知に浸されていたのである。

2015-08-08 06:59:13
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還元主義にもとづく医療モデルは、心あるいは身体に存在する問題が解消されれば、症状としての拒食や過食は解消されると措定する。還元主義は身体と心が正常であれば、人間はふつうに食べることができると措定しているのである。

2015-08-08 07:10:05
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オードリー・リチャーズは、どこにも異常がなければふつうに食べられるという還元主義の前提に、真っ向から反対する。食を人間の本能と仮定するのであれば、それを生まれたての赤ん坊が乳を吸う行為に限定するか、食に関わることすべてを本能としなければならないと主張する。

2015-08-08 07:14:24
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食は慣習行動のひとつである。慣習行動とは、何をどうしたらよいか、いちいち考えなくともなめらかにそれができる行動のことを指し、それは膨大な知識に支えられている。ジョン・サールは、知識の一群を、「背景(The Background)」と名付けた。

2015-08-08 07:23:40
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意識の彼岸にある背景がなければ、その行為は慣習行動として成立しない。 それでは食にはどのような背景が存在するだろうか。食べるためにはまず、自分にとって何が食べ物かを見分ける必要がある。この区分は他者から繰り返し教えられることでやっと身につく。

2015-08-08 07:28:24
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海外旅行に行くと何を食べたらよいかわからなくなるのは、食べ物の選択についての本能が働かなくなったからではなく、食べ物の選択に関する自らの背景と、渡航先の人々のそれがずれているからである。

2015-08-08 07:35:37
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食の背景は状況依存性が高く、状況に応じて変化する食の背景に対応できなければ、「ふつうに食べる」ことはできない。 レストランなら椅子に座るが、ピクニックだったらベンチよりも芝生を選ぶ。普段の食事でのご飯一升と大食い大会でのご飯一升とでは、行為に対する評価が変わる。

2015-08-08 07:48:01
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食事はイスに座ってとることが適当であるとか、ご飯一杯が適量であるとかいった決まりは絶対的ではなく文脈に応じて変化する相対的なものである。私たちは、状況に応じて変化する食の背景を一瞬で読み取り、それに応じた食べ方を即興的に選択しているからこそ、ふつうに食べることができるのである。

2015-08-08 07:56:00
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ふつうに食べるためにはその社会における食のあり方を当たり前のこととして一度受け入れ、それを反復実践することで身につけなければならない。 社会学者のピエール・ブルデューは、このように背景が身体化された状態をハビトゥスと名付けた。

2015-08-08 08:01:23
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私たちがふつうに食べられるのは、自らの住まう社会が規定する食の背景を長い時間の学習と実践の中でハビトゥスとしたからであって、私たちの身体に埋め込まれた、ふつうに食べるための本能が開花したからではない。心と身体が正常であればふつうに食べられるとする還元主義は、食を単純化し過ぎている

2015-08-08 08:08:48
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しかしながら味噌汁をストローで飲まないことに合理性などは存在しない。一見、非合理な食の背景を他者と共有しそれをハビトゥスとすることで、私たちは生きるうえで欠くことのできないあるものを手にする。それは他者との紐帯である。

2015-08-08 08:15:01
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ふつうの食を支える背景は、生まれながらにインプットされているものではない。すべて他者から教えを受け、他者の模倣をして、初めて身につく。私たちは紐帯がなければ食についての知識を学ぶことはできず、また知識を学ぶからこそ、その行為を通じて紐帯を創造することができる。

2015-08-08 08:27:49
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さらに食に関する知識を身体に溶け込ませ、それをハビトゥスとした後は、そのハビトゥスに準じて食が実行される。同じ釜の飯を食うとは、同じものを食べ続けることは、すなわち同じハビトゥスを共有することであり、その共有の過程で他者との紐帯が作られ、維持されていく、ということである。

2015-08-08 08:35:47
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たとえ食のハビトゥスが異なっていたとしても、それらの人々の間に紐帯を作ろうとする意思があれば食を通じた紐帯は必然的に生まれてくる。

2015-08-08 08:47:15
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ハビトゥスが異なることを認識しつつ、それを尊重しながら食を共にしようとすれば、お互いの交渉から新たな食の背景が生み出され、その交渉と背景の創造過程の中で、新たな紐帯が育まれていくからである。

2015-08-08 08:48:08
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食は栄養摂取と同義ではない。栄養摂取は一人でもできるが、食べることによる紐帯を一人で作り出すことはできない。 いっけん非合理で、何の必然性もないような食にかかわる膨大な知識の数々は、人間が生きるうえで欠くことのできないつながりを作り出しているのである。

2015-08-08 08:53:37
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ふつうに食べられなくなることの結末を想像するのはたやすい。その結末とは、食を土台に他者とのつながりを生み出し維持する力の喪失、すなわちその個人の社会的な孤立である。

2015-08-08 08:57:43
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食のハビトゥスに準じて食べるということは、日常生活の中に食の準拠点をおいて食べるということに他ならない。日常生活の中で学んだきまりを日常生活の中で稼働させるからこそ、ふつうに食べることができる。しかしやせようとする場合、今までのハビトゥスに沿っていてはやせることはできない。

2015-08-08 09:06:57