最近なにかと話題の「悪霊左府」こと藤原顕光さんについて、オタクが簡単に解説してみました。
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平安時代中期の公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原兼通の長男。官位は従一位・左大臣。

父・兼通が関白になると、昇進して公卿に列するが、兼通の死後はその弟・兼家(顕光の叔父)と道長(顕光の従弟)父子に実権を奪われる。無能者として知られ、朝廷の儀式で失態を繰り返して世間の嘲笑を買った。晩年、左大臣に上るが失意のうちに死去し、道長の家系に祟りをなしたと恐れられ、悪霊左府と呼ばれた。
「藤原顕光」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2019年5月4日 (土) 03:54 UTC

簡単に説明

藤原顕光は平安貴族ですが、無能で有名でした。あの藤原道長とは政治的なライバルでしたが勝てなかったよ…。死後、道長の娘が次々亡くなったのは顕光の祟りだとされ「悪霊左府」と呼ばれました。安倍晴明のライバルで有名な蘆屋道満の雇い主としての説話も有名です。

久賀フーナ @hu_na_

平安中期の左大臣だけどおっちょこちょいな無能者で有名で最終的に悪霊になったり蘆屋道満の雇い主な話ができたりしてる藤原顕光ちゃん滅茶苦茶可愛いな〜〜〜〜!!!!(検索汚染をするな)>RT

2019-01-09 21:24:51

彼の生い立ちについて

幼少期+弟について
 944年、顕光は、藤原兼通と昭子女王の長男として生まれました。父は後に関白に登るほどの有力者であり、母も天皇の孫娘という非常に高貴な血筋でした。
 しかし、彼は父からは跡継ぎとして見なされていなかったようです。代わりに優秀な弟の朝光が跡継ぎとして扱われていました。二人は別々の母親から生まれましたが、どちらの母親も同じ位高貴な身分の女性だったため、生まれの優劣によりそうなった訳ではないと思われます。おそらく、兼通が顕光母と疎遠になって以降は朝光母と同居しており、顕光とあまり顔を合せなかったこと(当時は基本母親の家に子供も住んでいたため)、朝光が容貌も性格も詩歌の能力も優れた才人であったこと、などが顕光が後継に選ばれなかった理由だったのではないでしょうか。(二人の母については諸説ありますが、おそらく異母兄弟だろうという意見に基づき説明しています。)

 角田文衞『承香殿の女御』では顕光が「内気」「愛情に飢えている」などと評されていますが、それはこうして父親から選ばれなかった幼少期の体験から来たもののような気も…
 ちなみに、朝光はその美貌をよく称えられますが、父兼通も『大鏡』でその美貌を称賛されています。また、顕光の子供たちも皆整った顔立ちだったと言われているので、顕光も美形だったんじゃないかな!(※個人的見解です)

 さて、その後、顕光朝光も関白の息子として、官人としての道を順調に歩みはじめます。しかし、後継者として扱われていた朝光に比べ、顕光の昇進スピードは遅かったようです。また、父・兼通の没後、兼通の弟・兼家(道長の父)に実権が移り、兄弟の昇進は止まってしまいます。

余談(読まなくてもいいよ)
 朝光は常に官位の面で兄より先を行っていましたが、特に朝光が24才の時に参議に補されたのをもって、彼が兼通の跡継ぎであると周囲に明確に示されたと考えられます。(顕光はその一年後、32才で参議になっています。)
 ちなみに、朝光は3年間で蔵人頭→参議→権大納言になっています。早すぎて草 顕光も弟に遅れた官位とはいえ、一年ちょっとで参議から中納言になっています。偉い!ただし、兼通が死んで実権が兼家に移ってからは2人ともずっと大納言・中納言で据え置きされています。草(草ではない)

壮年期~中年期の顕光

 顕光は、32,3歳ごろに盛子内親王と結婚し、一男二女をもうけます。はじめは妻の屋敷(広幡第)に同居していましたが、40代になると父から譲り受けた平安京屈指の名邸、堀河第に移り住みました。
 当時の顕光は、道長ともそれなりに親しかったようです。このころ政治の実権を握っていた道長の兄・道隆は朝光と非常に親しく、それが朝光と疎遠だった顕光道長に近づける機縁になったと考えられます。

 その後疫病が大流行し、朝光や道隆を含む高官が多く亡くなりますが、それにより右大臣となった道長は、次席である大納言に顕光を任命しました。顕光道長の部下として勤勉に働いたようです。顕光はあまり鋭い人ではありませんでしたが、道長にとって自分の下に置くには丁度良かったのかもしれません。無能ではありましたが、それ故に周囲から敵視されなかったことが、顕光の官人人生をいくらか長らえさせたと考えられます。

顕光の子供たち

 顕光が右大臣になった長徳二年(996年)、彼の長女の元子が一条天皇のもとに入内します。『栄花物語』では顕光による婚儀の支度が「古風」であることが仄めかされ、これでは帝の愛も薄いだろう、と囁かれていました。しかし、その風聞とは反対に、元子はそれなりの寵を受けたようです。このころ、先に入内し、寵愛を受けていた道隆の娘・定子は父の死や兄の失脚、そして懐妊により里居しており、道長の娘・彰子もまだ幼く入内できる年齢ではありませんでした。そのため元子にとっても丁度いい時期だったと思われます。
 翌年には元子も懐妊し、出産のために後宮を後にしました。その際、他の女御の女房が群がって見物し、御簾が膨らんでいるのを見た元子付きの女童が「御簾だけが孕んでいる」と嘲笑したことが『栄花物語』には書かれています。この時は顕光も皇子が生まれる期待で胸を膨らませていたことでしょう。
 しかし、出産を迎えた彼女の腹からは、赤子ではなく水のみが流れ出るばかりで終わりました。現代でいう早期破水、前期破水などにあたる現象だと考えられますが、皇子の出産を期待した元子周囲、そして本人には苦しい結果となりました。

 さらに、元子の出産からまもなく、顕光の妻・盛子内親王が亡くなります。加えて道長の娘・彰子が一条帝のもとへ入内します。そのころには元子も後宮へ戻っていましたが、彰子の入内により元子は以前ほどの愛情は受けられなかったと考えられます。
 こうした悪い状況が折り重なり、出仕が不定になるほどこたえていた顕光ですが、ほどなくして藤原遠量女と再婚します。お互いに配偶者を無くした者同士の結婚であり、これが心機一転するきっかけになったようです。

 しかし、再び顕光にとって思いがけない事件が起こります。長男重家の、突然の出家です。彼は容姿端麗で態度もすばらしく、「光る少将」と呼ばれるほど周囲からの評価も高い青年でした。そんな彼が突然寺に向かい、剃髪したのです。彼と一緒に道長の養子成信も出家しましたが、顕光には跡継ぎとなる男子供が重家一人しか居なかったため、この事件へのショックは道長以上だったと思われます。二人は出家した息子たちへ翻意を促したようですが、それもむなしく終わり、顕光は再び深い憂慮に沈むことになりました。

元子の密通事件

 寛弘八年(1011)、一条帝が崩御し、未亡人となった元子は参議源頼定と恋仲になります。しかし、これに顕光は相当立腹したようで、『栄花物語』では顕光自ら元子の髪を切り落とし、尼にした様子が描かれています。(ただし藤原実資の日記『小右記』の目録を見ると、実際には元子自ら髪を切り尼になった様子が伺えます。)
 ですが、その後も元子は頼定との交際をやめませんでした。また、世間も彼女を深く咎めませんでした。先帝の女御を娶るということはすでに先例があり、頼定も参議という顕官を務める立派な男性だったからです。世間にとっては顕光がそこまで立腹することのほうが不思議であり、その仕打ちに非難が集まっていました。
 ではなぜ、顕光は二人の交際を許さなかったのでしょうか。まず、頼定は、かねてより道長や実資などの朝廷の実力者と近い立場にあったので、もともと顕光は微妙な感情を抱いていたというのが考えられます。また、頼定はすでに妻帯者だったため、顕光が元女御である娘を妾として差し出すことに屈辱を感じたと思えば、立腹したのも分からなくはないように感じます。

敦明親王と延子

 顕光には、もう一人娘がいました。それが延子です。彼女は元子よりも五歳ほど年下で、敦明親王と結婚していました。敦明親王は当時の帝である三条天皇の第一皇子で、うまくいけば彼が帝になる可能性もありました。敦明延子夫婦の関係はかなり親密で、元子の事件で疲弊した顕光は二人の行く末に期待をしていたようです。
 しかし、三条天皇は当時重い眼病を患っており、道長との関係もうまくいかず度々対立していたため、しきりに譲位をせまられていました。ついに長和五年(1016)、敦明親王を皇太子に立てることを条件に譲位し、後一条天皇が即位します。後一条天皇は道長の娘・彰子を母とし、即位したときはまだ8歳の幼帝だったため、道長が摂政として権勢を振るいました。
 譲位後ほどなくして三条天皇は崩御しますが、その4か月後、敦明親王は皇太子を辞退します。この事件についてはっきりとしたことは伝わりませんが、皇太子に代々伝わる壺切の剣が道長により渡されなかったこと、道長に遠慮した人々が敦明親王の身の回りの世話をおろそかにしたことなど、様々な圧があったことが史料から推察されます。また、東宮傅の顕光と大夫の斉信の仲が微妙で全く敦明親王のためになってなかった、とも道長が実資に語っています。敦明本人も奔放な性格だったため、圧力を受けながら帝になることに不安を感じたり、自分より年下の帝の次に即位するのは現実的ではないと思ったりしたのかもしれません。

 この皇太子辞退にともない、道長は自分の娘である寛子との結婚と、上皇に準ずる待遇を敦明親王に約束しました。華やかな道長周辺に迎えられた敦明親王は延子のもとへほとんど通わなくなり、顕光は悲嘆にくれ、延子もずっと寝込むような有様でした。まだ幼く、状況が分かっていない延子の子供が、顕光にまたがってお馬さんごっこをして遊んだけれども「この馬は元気がない」と言い、延子は一層目もくらむ気持ちになった、という話が『栄花物語』に収録されています。また『小右記』では、顕光が延子の髪を切り、呪詛を行ったという風聞も書きとめられています。
 そして皇太子辞退から3年経った寛仁三年(1019)、延子は失意のまま病死します。湯上りに体調が急変し、喀血して亡くなったため、死因はストレスによる肺結核の悪化ではないかと考えられます。このとき延子はまだ35,6歳であり、顕光は「なぜこんな老いぼれをのこして若い人を連れていくのか、返してくれ」と嘆いたことが『栄花物語』に見えます。
 そして治安元年(1021)いまだ勤勉に働いていた顕光は従一位に叙せられ、位人臣を極めました。しかしだんだんと出仕する回数が減り、ついに5月24日(新暦の7月7日)に病により亡くなります。享年は78歳で、当時としてはかなりの高齢でした。

悪霊左府

 顕光、延子の死後、道長の娘が次々と亡くなりました。万寿二年(1025年)に寛子が病死、同年に嬉子も出産直後に急死。万寿四年(1027)には皇太后妍子も崩御しました。
 こうした人々の急死や、顕光親子に対する後味の悪さから、二人が悪霊になり祟っているのだと人々は言い、顕光は「悪霊左府」という不名誉な名前でも呼ばれるようになりました。『栄花物語』によると、病に苦しむ道長の娘のもとに顕光、延子の怨霊が現れたりもしたといいます。

顕光と蘆屋道満

 さて、顕光とよくセットで取り沙汰される陰陽師・蘆屋道満ですが、二人はどのような関係だったのでしょうか。
 実は、二人が確実に出会っていたことが分かる史料は存在しません。そもそも、蘆屋道満という人物そのものの史料がほとんど無いのです。唯一彼らしき人物の存在が確認できるのは、藤原伊周の叔母、高階光子が道長を呪詛した事件の記録のみです。(『政事要略』)しかも犯人は別の人物であり、普段光子邸に出入りしてた陰陽師として「僧道満」の名前が挙げられているだけ、という塩梅です。しかしここから、道満が高位貴族の屋敷に出入りし、呪詛を行うような陰陽師であったことは推察できます。資料が残っていないだけで、実際に顕光の呪詛に関わったこともあったのかもしれません。(そもそも顕光はよく呪詛をする人物であり、実資は日記内で苦言を呈しています。)

 顕光死後、鎌倉時代に成立した『宇治拾遺物語』『十訓抄』『古事談』などに、顕光道満に命じ、道長を呪詛するも安倍晴明に見抜かれ失敗する話が収録されるようになります。道長晴明コンビvs顕光道満のコンビのイメージはおそらくここに起因するものではないでしょうか。また、これ以降、様々な道満伝説が生まれ、創作作品でも悪の陰陽師・蘆屋道満のキャラクターが見られるようになっていきます。

おまけ

無能伝説

 ところで、顕光は様々な紹介の場で真っ先に「無能」と説明されます。具体的には何をやったのでしょうか。
 例えば、長和五年(1016)には、譲位の式に臨んで、彼は自作のメモ帳(懐中草子)を見ながら事を進めていきました。しかし、順序を多く誤り、彼が退出したのちに人々は一気に嘲笑し、道長も「至愚の中の至愚なり(バカ中のバカ)」と語ったと言います。
 また、能吏であった藤原行成は「顕光が即位礼の宣命使の経験者なので聞きにいったら色々話してくれたが、何も得るところはなかった」と書き残しています。
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顕光と従者

しかしそれだけではなく、いい面も残されています。例えば、彼が家司(従者)を大事にしていた点です。顕光の家に仕えた雑色達は躾がならずしばしば暴れることもあったようですが、おおむね彼は優しく接していたと思われます。特に、顕光第一の近習であった橘内成の家が全焼した際には、すぐさま自分の屋敷の廊を崩し、住居として分け与えています。実資に「こんなことは世間が納得しない」と批判されていますが、これは愛情に敏感であった顕光なりの優しさの発露ではないでしょうか。内成は若いころ顕光の屋敷の一角に住居を貰い、家族で暮らしながら仕えていたため、特別親しい家司だったと思われます。
また、『栄花物語』には、顕光の最晩年まで付き従った「氏忠」という家司の名前が見えます。延子の死後、斜陽の顕光に見切りをつけた下人たちが屋敷を出ていく中、彼は最後まで顕光の側に残っていたようです。顕光と同じ位の老齢と記されていますが、彼の存在は『栄花物語』以外に見つけることが出来ません。以下はかなり妄想に近い意見ですが、彼は上記の橘内成と同一人物だったのではないか、と思っています。『栄花物語』の諸本の中には彼の名前を「うちたか」とするものがありますが、当時実資に使えていた内成の弟の名前が「内位(うちたか)」でした。また、『栄花物語』の作者は「氏忠などいふ人の…」というように、余り名前をはっきりと覚えていなかったようです。『栄花物語』の作者は赤染衛門ではないかと言われていますが、彼女はかなり道長に近い女房であったため、顕光周辺の家司の名前の記憶が曖昧になっていたとしても不思議ではありません。内成は長年顕光に仕えた家司として何度か日記類にも名前が上がっており、最晩年まで仕えた氏忠という人物像にかなり合うのではないでしょうか。

顕光と和歌について

 また、弟と違い彼の和歌はほぼ残されていませんが、一首のみ彼の名前で詠まれた歌が勅撰和歌集に入首しています。

(詞書)右兵衛佐のふかた、まかりかくれにけるに、おやのもとにつかはしける

右大臣

ここにだに つれづれとなく ほととぎす ましてここひの 杜はいかにぞ
(『拾遺和歌集』巻二十・哀傷・一二八二)

[この都ですら物寂しくほととぎすが鳴いている。いわんや(ほととぎすの名所である)こごいの杜はどのようであろうか。]
 
この歌は”右兵衛佐のふかた“が亡くなった時、その親に宛てて詠んだ哀悼の歌です。当時、ほととぎすは夏を代表する風流な鳥であると同時に、冥土からの使いの鳥、懐古の鳥としても捉えられていました。その鳴き声に哀切な想いを重ねたのがこの歌です。
 また、この“右兵衛佐のふかた“という人物は、恐らく藤原伊尹の息子惟賢ではないかとされています。藤原伊尹の歌集『一条摂政御集』にも伊尹に宛てた歌としてこの歌が収録されているためです。ただし、こちらでは致仕大納言源重光が詠んだ歌であると記されています。
 どちらが正しいのか今の所はっきりとしませんが、『拾遺和歌集』と密接に関係する私撰和歌集の『拾遺抄』(藤原公任撰)にも“堀河大臣“の名前でこの歌が収録されているので、個人的には顕光が詠んだ可能性も高いのでは…と思っています。また、『前大納言公任卿集』には公任が顕光夫妻の元を訪れた際の歌も収録されているので、そうした交流から顕光の歌が収録されたということもあるのかもしれません。唯一残っている、詠んだ(かもしれない)和歌が哀傷歌というのは切ない感じもありますが、彼のイメージにも合う気がして、かなり好きな一首です。(ただ、これについては本当に私の勉強不足の可能性もあるので、もしこれについて詳しい情報をご存知の方は是非ご教示ください…)
 さらに余談ですが、顕光の正妻であった盛子内親王の母親源計子は、歌人としても有名でした。彼女は村上天皇の妃であり、帝から届いた和歌の謎かけを見事解いた逸話なども残されています。また彼女の父(盛子の祖父)源庶明も歌人でした。そうした和歌の家に生まれた盛子もまた、和歌をよく嗜んでいたと思われます。顕光とのやりとりは残っていませんが、想像してみると楽しいですね。

おわりに

こんにちは。久賀フーナです。読んでくださった方、誠に有難うございます。普段全然文字を書かないため乱文で申し訳ありませんが、すこしでも顕光に興味がある方が増えたらいいな!という思いでまとめさせていただきました。顕光と言えば「悪霊左府」として、死後怨霊になった話が有名ですが、生前もすごく面白い人だったんだよ~!というのが伝われば幸いです。
このまとめは簡単さのみに全振りしたまとめであり、間違っているところもあるかもしれませんので、顕光に興味が出た方はぜひWikipedia(めちゃ綺麗にまとまっている)や下記の参考文献も読んでみてください!

また、今年の七夕(2021/07/07)は顕光さんの千年忌になるのですが、それに合わせてアンソロジーを制作中なので気になった方は是非よろしくお願いします!(宣伝魂)
こちらのTwitterアカウントで情報を発信していきますので、気になった方は是非フォローしていただけると嬉しいです。

藤原顕光千年忌記念アンソロジー @Akimitsu_1000

こんばんは。こちらは2020/07/07日発行予定「藤原顕光千年忌アンソロジー」公式アカウントです。今後、発行に向けての情報をこちらで告知します。よろしくお願いいたしします。

2021-01-01 19:01:13

最後にうちの顕光さんも見ていっていただければ嬉しいです(小声)

久賀フーナ @hu_na_

能の和服マスクがすごく良かったので落書きした… pic.twitter.com/5n2PFatohw

2020-07-04 23:51:54
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参考文献

繁田信一『呪いの都平安京 呪詛・呪術・陰陽師』吉川弘文館 2006
告井幸男「摂関期の有職故実 -御堂流の検討から-」『摂関期貴族社会の研究』塙書房 2005
角田 文衞『承香殿の女御―復原された源氏物語の世界』中央公論新社 1963
彭溱 「『栄花物語』の歴史叙述の一面 : 藤原顕光の家風・政治的営みに対する評価をめぐって」『国文論叢』55巻
保坂 弘司『大鏡 全現代語訳』講談社 1981
松村博司 『栄花物語全注釈』 角川書店 1969
松村 博司、山中 裕『日本古典文学大系 栄花物語 上/下』岩波文庫 1993
和田英松・佐藤球『栄華物語詳解』明治書院 1900
「藤原顕光」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原顕光(最終閲覧2020/12/02)
摂関期古記録データベース - 国際日本文化研究センター
https://rakusai.nichibun.ac.jp/kokiroku/(最終閲覧2020/12/02)

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まとめたひと
久賀フーナ @hu_na_

平安時代と片目隠れ好きのイラストレーター。藤原顕光のオタク。◆書籍装画/ILLUSTRATION 2022/アズールレーン/絵師100人展💌kugahunar@gmail.com(現在個人の方のご依頼は停止中)🌸skeb skeb.jp/@hu_na_ 📘顕光アンソロ@Akimitsu_1000