大平喜間多『佐久間象山伝』 より
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シービー @MrCB_Harukaze

佐久間象山は、信州松代藩真田家家臣佐久間一学の子で文化8年(1811)2月11日、城下字浦町の自宅で産まれた。通称は啓之助、その後修理。諱は初め国忠、その後啓(時に大星)。字は子迪または子明。

2022-11-13 20:46:39
シービー @MrCB_Harukaze

雅号は曲水、滄浪、観水、懐帝低貞亭長、養性斎主人、清虚観道士、北阜と数多く称し、象山は27,8歳ごろから使用した。若い頃から聡明であり、神童と言われていたという。まず父一学から読み書きを習い、長じて和漢を鎌原桐山に学び、易学を武内錫命、数学を町田源左衛門、漢語と琴を禅僧活文に学んだ。

2022-11-13 20:47:34
シービー @MrCB_Harukaze

天才児であったので学業の進歩には師も驚いた。藩主幸貫はその才能を愛し、象山が21歳の時に近習役に抜擢した。その後、江戸に遊学させる。

2022-11-13 20:47:40
シービー @MrCB_Harukaze

佐久間家の禄は、五両五人扶持であった。微禄であったが、小禄父一学も文武両道で筆も見事で藩主の側右筆を務めるほどであった。そういう家系なのか、象山は2,3歳の頃には周易の六十四卦名を覚えてしまったという。他にも三歳で字を書けたという逸話も残っている。

2022-11-14 19:26:35
シービー @MrCB_Harukaze

幼年期は病弱であったが6,7歳の頃には丈夫になり「佐久間の門から石がふる、石投げ小僧の啓之助悪戯小僧の啓之助」とからかわれたという。文政6年(1823)松代藩は新藩主真田幸貫が継いだ。幸貫は白河藩主松平定信の第二子である。賢主であり、才能のある者を重用した。

2022-11-14 19:26:56
シービー @MrCB_Harukaze

文政8年(1825)2月26日、15歳になった象山は元服し、4月15日に藩主幸貫への拝謁が許された。幸貫は象山の神童ぶりを知っており、将来を嘱望して目をかけるようになる。当時の松代藩の慣習として、身分の低い出身の者は婚姻しても武士の正妻になれず妾として使用人のように扱われた。

2022-11-14 19:27:58
シービー @MrCB_Harukaze

そのため象山は母と呼ぶことを許されなかったという。道場で幸貫に褒められ褒美を授けると言われたとき、母(まん)を公然と母と呼びたいと哀願したという。幸貫はまんを訪ね目通りを許し、それにより正式な妻と認められ、象山はやっと公然と母と呼ぶことができたという。象山は幸貫を生涯敬慕する。

2022-11-14 19:29:20
シービー @MrCB_Harukaze

文政10年(1827)に父一学が中風を患う。そのため、翌11年に隠居し、象山は18歳で家督を継いだ。21歳に藩主幸貫から近習役に抜擢されたが、世子の教育係であったため自身の学問の時間がないという理由でお役御免を申し出て許されている。こういう我が侭を許すほど幸貫は象山を目にかけていた。

2022-11-15 21:08:49
シービー @MrCB_Harukaze

ところが、翌年幸貫が家臣の武芸を上覧する機会に家老といざこざを起こす。さすがの幸貫もかばいきれなかったのかその年4月21日付けで閉門が命じられた。持ち前の強情、頑固、不遜な性格が災いしたのである。閉門中に一学の症状が重くなり、余命幾ばくもないとの判断か、藩は8月17日に閉門を解く。

2022-11-15 21:09:14
シービー @MrCB_Harukaze

閉門では自由に行動できないことから、残り少ない期間を存分に看護させてやろうという配慮であろう。だが、8月20日に一学は死去する。象山は江戸への学問修業を願い出て、許可される。学資は御手元金(藩主のお金)から支給されるという好待遇である。象山は天保4年の冬に江戸に入った。23歳の時である

2022-11-15 21:09:57
シービー @MrCB_Harukaze

佐久間象山は江戸で佐藤一斎に師事する。当時の江戸では経学(四書五経)では一番と言われていた。そのため、日本中の俊才が集まったが、象山は同門の山田方谷と共に門下の二傑と呼ばれた。(松下村塾での久坂と晋作坊ちゃんみたいなものか)

2022-11-16 19:11:24
シービー @MrCB_Harukaze

佐藤一斎は、元々は林羅山を祖とする徳川家の学問朱子学の林家の塾長であったが、密かに陽明学に傾倒していく。(松陰先生や晋作坊ちゃんも傾倒していた学問)しかし、象山は純粋な朱子学者で陽明学を嫌悪していた。

2022-11-16 19:12:10
シービー @MrCB_Harukaze

そのため、一斎の説にしばしば反対し、「陽明学は国に害を及ぼすから極力排斥すべき」と一斎に伝え、以後は文章詩賦講義のみに出席し、経書の講義には出席しなかった。父と主君幸貫をこの上なく敬慕していた象山にとって朱子学は絶対だったのであろう。

2022-11-16 19:12:40
シービー @MrCB_Harukaze

象山の凄さは、これだけ意見が対立した佐藤一斎について、ある人から「本邦における近世詩文の大家」を問われたとき、「詩は菅茶山、文は佐藤一斎」と答え、意見を意にする部分はあるが、その才能は素直に認めていたことである。

2022-11-16 19:12:46
シービー @MrCB_Harukaze

藩主から御手元金を受けていたとはいえ、象山は5両5人扶持の小禄であったので、生活は苦しかった。江戸への出発費用が足りず、家老矢沢監物から7両を借りた。江戸での生活も大変で、名門に入門していたこともあり、生活費、学費やらで支援金年18両ではとても足りない。

2022-11-17 18:21:14
シービー @MrCB_Harukaze

象山はまた矢沢に金を借りる。「万一修行怠惰(略)御座候は、早速厳重にご処置」と学問に励むことを担保に10両借りている。このように学問一筋であっったがその一方で楽曲が好きであった。年少の頃から禅僧活文に琴の指南を受けている。

2022-11-17 18:21:34
シービー @MrCB_Harukaze

藩内では「男子のするものではない」と批判を受けていたが「諸葛孔明や陶淵明も琴を弾いたそうです」とまったく気にかけなかったという。江戸遊学中も旗本二木山岳から琴を習い3曲以上の奥義を伝授されたという。

2022-11-17 18:21:50
シービー @MrCB_Harukaze

気に入った古琴をずっと所持していたが、松陰先生の事件に連座して藩で蟄居を命じられたため友人の渋谷修軒を預けた。9年後赦免になり、その琴を返して貰った。このように風月を楽しむ一面もあった。

2022-11-17 18:21:57
シービー @MrCB_Harukaze

象山は、天保6(1835)年、江戸での修行を認められ御城付月次講釈助(たぶん、お城の助教授かな)を命じられ、天保7(1836)年2月に帰藩する。その年は松代藩にとって飢饉の年であった。領内では食糧が不足し、その日の食糧にも困る者が少なくなかった。藩からの効果的な支援も得ることができずにいた。

2022-11-18 18:53:12
シービー @MrCB_Harukaze

象山は、藩に対して藩の蔵を開き食糧を配るように進言した。しかし、藩の蔵にも配れるほどの余剰がある訳ではなかった。象山は、藩の富豪商人八田嘉右衛門を説得し、藩に金と穀物を献上させた。藩はそれを元に困窮者に対して支援を行い、飢餓を救うことができた。その数、日で2000人、類型で数万という

2022-11-18 18:54:22
シービー @MrCB_Harukaze

この結果、藩は面目を施し、八田も藩の覚えのめでたい商家となった。思想家や技術家として優秀、風月をたしなむ者、だけでなく、為政の面でも象山は才能を発揮している。

2022-11-18 18:55:02
シービー @MrCB_Harukaze

象山はお城勤めよりも学問がしたかったようで、天保8(1837)年には再び江戸遊学を願い出た。さすがに藩は許可せず、ようやく翌天保9年(1838)11月5日に許可が下りた。とはいえ、役目のこともあり、出発は天保10(1839)2月12日とした。

2022-11-18 18:55:26
シービー @MrCB_Harukaze

江戸出発の際、象山の母は「学問を修べく郷里を出発する以上、これからは何よりも真面目でなければならない(略)もし、不真面目、不勉強で一流になれないようならば、決して喜ぶことはない。万一この約束に違うようなら、その時は我が子と思わぬ」と訓戒したという。象山は母の訓戒をよく守った。

2022-11-18 18:55:44
シービー @MrCB_Harukaze

象山が二度目の江戸遊学をした天保10年6月1日、神田お玉ヶ池に住み、「象山書院」という塾を開いた。お玉ヶ池は現在の岩本町付近である。当時、柳が5本あったので「五柳精舎」とも呼んでいた。象山は門人に講義を行う意かたわら佐藤一斎の門に出入りし、研鑽を怠らなかった。

2022-11-19 21:03:34
シービー @MrCB_Harukaze

象山は当時の江戸で有名な大家をすべて訪ね、その人物を評価して結局佐藤一斎と松崎慊堂の二人以外は教えを乞う人物でないと判断した。相変わらずな性格である。江戸でも評価の高い佐藤一斎の秀れた門人として象山の名声は江戸中に広まっていく。

2022-11-19 21:03:57
シービー @MrCB_Harukaze

象山の名声を聞き、全国各地から交わりを求めて訪ねてくるものが多く、門下生もどんどん増えていった。(これが松陰先生の入門の理由の一つであろう)。

2022-11-19 21:04:39
シービー @MrCB_Harukaze

あるとき、この当時交際のあった書家巻菱湖が象山が通称を啓之助から修理に変えたことに理由を聞いた。象山は最初笑うばかりで答えなかったため、巻は執拗に追求する。「天下を修理いたすのだ!」と声を荒げて答えたという逸話が残っている。天下を修理するとは、象山らしい。

2022-11-19 21:04:46
シービー @MrCB_Harukaze

ある日、経学の大家羽倉簡堂の家で会読が開催された。錚々たる学者が集まる中、象山は遅れて到着。さらに上座に座った。無礼な奴と憤慨する者が多かったが象山は「学問の会には学問の優れた者が上席に座るのが当然だ」と平然としていた。

2022-11-20 17:57:11
シービー @MrCB_Harukaze

これは傲慢な態度というよりも象山の信念であろう。仮に逆の立場であったら認めていたに違いない。傲慢と信念を貫くというのは紙一重であるかもしれない。ただ、やはりそのような態度の人は敵を作りやすい。藩主幸貫の覚えがめでたかったのに、藩内では成功・栄達しなかったのはそのせいであろう。

2022-11-20 17:57:38
シービー @MrCB_Harukaze

江戸では、幸貫の御手元金から支援をされていたが、何せもとの待遇が五両五人扶持であり、江戸では大変困窮していた。学問の修業にも支障を来すということで、象山は「天下の学者と言われるようになって、他国の人たちと交際する場合、今の状態では自分の身はともかく、藩の名を辱めることになろう。

2022-11-20 17:58:49
シービー @MrCB_Harukaze

先祖が頂戴していた百石に戻していただきたい」という嘆願書を藩に差し出した。許可されたのは天保14年である。象山はさらに加増を要求する。「千里の足はないが、五百里程度の足はあるので一食に五斗くらいは必要だ」と千里馬は一石食すという話しを引用。自分はそれだけの価値があると自負していた。

2022-11-20 18:00:43
シービー @MrCB_Harukaze

象山に目をかけていた松代藩主真田幸貫は、白河藩主松平定信の二男で、前松代藩主真田幸専(ゆきたか)の養嗣子となり、文政6年に家督を継いだ。

2022-11-21 20:56:25
シービー @MrCB_Harukaze

幸貫は少年の象山を寵愛し、御手元金で江戸遊学に行かせた。江戸で高価な洋書を手に入れることができたのは幸貫のおかである。前に書いたが、もとの100石に戻してほしいという嘆願にも幸貫は早くかなえてやりたかったが、四書に訓点を付けることを命じ、その仕事をやり遂げたので戻してやったという。

2022-11-21 20:57:01
シービー @MrCB_Harukaze

人から嫉妬されないようの心配りであろう。なお、この頃、佐賀藩鍋島閑叟(直正)公が象山を懇望していたそうであり、幸貫は手放すのが惜しい人材であることを藩家老に熱心に説いたという。象山は後に師を問われたとき、藩主真田信濃守幸貫朝臣である」と答えたという。主従の関係の深さを感じる。

2022-11-21 20:57:07
シービー @MrCB_Harukaze

天保12年(1841)正月、大御所徳川家斉が死去し将軍家慶主導の幕政に変わる。家慶は幕政改革に着手し、人事も刷新され、6月13日、松代藩主真田幸貫が老中に抜擢される。この人事は列公水戸斉昭の推挙と言われる。幕政の中心人物は水野越前守忠邦である。翌13年、幸貫は幕府の海防係を任ぜられる。

2022-11-22 20:49:17
シービー @MrCB_Harukaze

幸貫は海外の事情を知らなければならないとして、象山を顧問とした。ここでも主従の絆の強さが感じられる。象山は11月、幸貫に長文の海防意見書を上申する。「一、諸国海岸要害の所に砲台を築き、平常大砲を配備し有事に備えるべき事」「二、(略)西洋式の数百門の大砲を製造し、諸方へ分配すべき事」

2022-11-22 20:49:47
シービー @MrCB_Harukaze

「三、西洋式の大船を造り、江戸廻米の警備に当てる事」「四、海運の取締役を設け、異国との通商から海路一切の取締を行う事」「五、洋式の軍艦を造り、その操舵に習熟させる事」「六、各地に学校を興し、教化を盛んにし(略)忠孝節義を理解させる事」

2022-11-22 20:49:58
シービー @MrCB_Harukaze

「七、賞罰を明らかにし、公儀の威光を高め、民心を団結させるべき事」「八、すぐれた人材を登用する法を設けるべき事」いわゆる有名な海防八策である。近いうちに列強の侵略があるという予想のもとに、それに備え準備を進めるべき、という主張である。

2022-11-22 20:50:05
シービー @MrCB_Harukaze

象山は意見書の中で「日本国中の寺院堂宇の梵鐘類はみな取り潰し、それで放銃を鋳造すべきである」とも主張。だが採用はされなかった。象山は悔しがったが、後の安政2年(1855)に朝廷から同じ勅令が出される。象山は喜ぶと共に、亡き幸貫がもっと長く老中であったならと無念の思いをにも沈んだという。

2022-11-22 20:51:40
シービー @MrCB_Harukaze

象山は藩主幸貫が老中に就いたとき、ある意味運命的な出会いを経験する。幸貫は伊豆韮山の代官江川坦庵を藩邸に招き高島流砲術の訓練を披露させた。象山ははじめて見る?実際の西洋砲術を見て感激し、坦庵の門人となった。天保13年7月7日のことである。

2022-11-23 17:34:44
シービー @MrCB_Harukaze

当時の江川塾では砲を操作するための筋力訓練を主としており、肝心の砲術学は中々教えてもらえなかった。象山は(その性格からか)堪忍袋の緒が切れて「すでに半年も教えを受けている。そろそろ伝書を授けていただきたい」と坦庵に要望した。

2022-11-23 17:34:58
シービー @MrCB_Harukaze

坦庵は「5,6年たったら」と答える。長年の太平で武士は鍛錬をしておらず、まずは心身の訓練が必要という考えによるもので「あった。象山は「海防係幸貫の小紋であり、実際に砲を撃つ者ではない。特例として明日から伝書を授けてもらいたい」と嘆願する。

2022-11-23 17:35:16
シービー @MrCB_Harukaze

だが坦庵は「塾則なのでそれは無理である」と拒絶した。「江川は師とするに足りない」と象山は退塾した。「江川の塾では実に莫迦を見た。(略)あのような修行なら一人でも半月もあればできる。江川の手品はこの本一冊だよ」と蘭書の兵書を人に見せて大笑いしたという。

2022-11-23 17:35:22
シービー @MrCB_Harukaze

この話しは、象山と坦庵の教育への姿勢の違いであろう。司令官と兵卒の役割の違いに対する考慮が坦庵には不足していなかったかなと思う。まぁ象山なので言い方とか態度に難があったかなとは思うが・・・ 僕は『風雲児たち』以来の江川太郎左衛門(坦庵)ファンなので両者を尊重します。

2022-11-23 17:42:43
シービー @MrCB_Harukaze

江川坦庵との関わりの中で「伝書」という言葉が出る。象山はこういった一子相伝ではないが、学問について狭める考えは嫌っていた。世の中に役に立つことは広めるべきという考えである。「公益のために公開するべき」としたためた手紙が存在する。象山の凄さはここにもある。

2022-11-25 16:12:58
シービー @MrCB_Harukaze

また、象山の凄さは、相手が誰であれ、自分と意見が衝突する人間であれ、自分より秀れていることは学ぼうという精神である。これは佐藤一斎門塾でもそうであったが、江川坦庵に対しても同じであった。象山は「蘭語」について江川塾から必要性を痛感した。

2022-11-25 16:13:24
シービー @MrCB_Harukaze

高島秋帆の理論は素晴らしいが、輸入された蘭書の砲術書は最新の理論を解説してくれる。だが、オランダ語が分からなければ読めないし、理解できない。象山はオランダ語を勉強し、通常1年かかる文法理解を2か月で済ませたという。

2022-11-25 16:13:47
シービー @MrCB_Harukaze

これは、象山の地頭もあるであろうが、睡眠や寸暇を惜しんで勉強に励んだ結果と思う。「佐久間という男はいつ眠るか分からぬ」と象山の蘭学教授に評されている。人は偉業を為す人を「天才」の一言で済ませがちである。しかし、天才は努力によって創られるものと思う。

2022-11-25 16:15:55
シービー @MrCB_Harukaze

象山のオランダ語に対する取り組みは大変なものであった。当時40両もしたシヨメールの百科事典を購入し、知識を広く、深く得ていった。ガラスの製造を試みている。

2022-11-26 20:10:47
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.