田中彰『高杉晋作と奇兵隊』 より
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シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年3月15日、萩藩で干城隊が組織される。総督に寄組士鈴尾駒之進、頭取に大組士佐世八十朗(前原一誠)が任じられた。翌16日、諸隊の総督は政事堂に招集され、諸隊全体の定員を1500人に削減することを告げられた。

2022-05-10 20:00:06
シービー @MrCB_Harukaze

なお、第四代奇兵隊総督寄組士山内梅三郎は干城隊総督見習いを兼務、御盾隊総督大組士太田市之進は干城隊の頭取を兼務している。この藩軍事体制の再編成は、内訌時に高杉晋作が構想したものである。

2022-05-10 20:00:26
シービー @MrCB_Harukaze

藩軍事体制の中心に干城隊を置き「諸隊の規律法度も干城隊より初まり、諸隊の指揮号令も干城隊総督政府より請け、(諸隊)会議所の総管を呼出し申合様」の意図である。坊ちゃんは藩主を山口に戻し、干城隊を常設し、干城隊が政府の命を請け諸隊に号令する体制を考えていた(慶応元年2月5日付け某あて)

2022-05-10 20:02:08
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんが内訌時に感じていた諸隊の増長を抑えるための施策であることは想像に難くない。諸隊は、新体制と定員削減に不満を持つ。それを感じた晋作坊ちゃんは諸隊幹部(太田市之進、佐々木男也、山県狂介、片野十郎、福田良輔、林半七、堀真五郎、赤川敬三他)に手紙を書き、

2022-05-10 20:02:56
シービー @MrCB_Harukaze

「外患内憂互に切迫の時勢であり、少々の不平は堪忍せよ」と述べている。「藩政府も一新し、干城隊も組織されたので内憂は反政府と干城隊に任せて、諸隊は外患(征長軍)防御に当たることが急務である」とも訴えている。要は諸隊の不満を幕府に向けさせようとした。

2022-05-10 20:03:15
シービー @MrCB_Harukaze

この体制を構想した晋作坊ちゃんはこの頃、英国遊学を考えていたが実現せず、下関開港を視野に入れた「馬関統一論」(長府・清末両支藩を替え地して馬関を萩本藩が治める論)を唱え、両支藩士の怒りを買ったため4月中旬、おうのを連れて脱藩して伊予へ、さらに讃岐に潜伏した。

2022-05-10 20:03:54
シービー @MrCB_Harukaze

奇兵隊は慶応元年4月12日に山口から吉田(現下関市)に転陣した。一部萩に残っていた奇兵隊も4月28日に合流した。その間に萩藩主毛利敬親が萩から山口に移り、政事堂も山口に戻ったことは前に述べた。以後、諸隊は山口に「御親兵」を交替で派遣する。

2022-05-11 19:17:14
シービー @MrCB_Harukaze

これは、警護と称した「押し売り御親兵、言い換えれば監視兵である」(松浦玲先生)。このような状況下の中で、萩藩の軍政改革・軍事力近代化が進む。慶応元年5月28日、藩主毛利敬親は西洋陣法での軍備近代化を唱えた親書を発する。萩藩はゲベール銃をはじめとした外国製銃砲・艦船の購入に力を入れる

2022-05-11 19:18:14
シービー @MrCB_Harukaze

続いて、軍政改革を任せられる人材の登用を行う。慶応元年3月13日、村田蔵六(大村益次郎)を手当掛兼兵学校用掛に任じ、5月27日に軍政専任用所役に引き上げた。後には三兵教授役兼軍政用掛を兼任する。

2022-05-11 19:18:44
シービー @MrCB_Harukaze

蔵六は、農商兵の組織化を積極的に進めた。慶応元年5月には、藩令で農商兵の定員を1600人とし、藩の厳正な指揮下に置くこととした。諸隊の例を反省した施策と思われる。第三に、軍事力の再編を行う。

2022-05-11 19:19:11
シービー @MrCB_Harukaze

高杉晋作が構想した、藩の軍事力は干城隊をトップに据え、その指揮の下で諸隊等が動く、という体制は事実上機能せず、相変わらず諸隊が力を持っていた。藩も手をこまねいていた訳ではない。諸隊定員を1500人に制限した後、諸隊隊内の幹部・役員の定数も制限する。

2022-05-11 19:19:36
シービー @MrCB_Harukaze

隊員50名ごとに総管・軍監・書記・斥候・隊長・押伍を1名づつ置き、50名増えるごとに書記以下を1名追加、とした。また、農町民の諸隊入隊に制限を加える。しかし、5月には諸隊の定員を430人増員している。諸隊の不満への懐柔策であった。このように、干城隊による諸隊を管理下に置く施策は失敗した。

2022-05-11 19:21:59
シービー @MrCB_Harukaze

干城隊や軍政改革期に諸隊が「奇兵」という立場を貫いたか、というと違う。干城隊の指揮に入らないという姿勢は示すが、征長軍に対抗して藩を守るという志は、藩の「武備恭順」の方針と一致したものであり、その意味で藩には協力をしており、「正兵」化も見られたと言える。

2022-05-12 18:34:59
シービー @MrCB_Harukaze

当然ながら、藩による対征長軍軍事態勢に組み入れられることになる。この時期、藩政府首脳が諸隊に対してどういう思いを抱いていたかが分かる史料がある。

2022-05-12 18:35:59
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年閏5月9日、萩藩主毛利敬親、世子元徳と岩国領吉川経幹(監物)が会談した。その席で吉川が「諸隊をどうするおつもりか(意訳)」と問う。敬親は困惑し黙り込む。元徳が代わって「解隊という訳にはいかないので、やむを得ず分屯させる」と応えた。

2022-05-12 18:36:13
シービー @MrCB_Harukaze

吉川は重ねて「諸隊は”お困り者”ではないか」と聞く。元徳は「そのとおり。甚だ困っています」と応えた(『吉川経幹周遊記』)。萩藩主父子にとって「困り者」ではあったが、対征長軍との戦争を考えると必要不可欠なものであった。

2022-05-12 18:36:32
シービー @MrCB_Harukaze

時間を戻す。慶応元年夏頃、高杉晋作が四国への脱藩から戻る。前後して但馬出石から桂小五郎も帰藩した。これを機に萩藩の軍政改革も硬いものとなっていく。(個人の妄想であるが、晋作坊ちゃんは、時が必要としたとき突然現れ雷電の如く行動するよなぁ)

2022-05-12 18:36:54
シービー @MrCB_Harukaze

慶応元年9月6日、晋作坊ちゃんは用所役・国政方となり、桂さんは9月26日、海軍興隆用掛となった。なお、晋作坊ちゃんは馬関で薩摩との交易用務を担当している。この辺、後の薩長同盟を見据えた藩の思惑が見て取れる。

2022-05-12 18:37:10
シービー @MrCB_Harukaze

晋作坊ちゃんは、11月17日、馬関での米金銀の責任者となり、藩の経済にまで影響を及ぼす立場となる。これは晋作坊ちゃんに甘い藩主父子の影響だけでなく、この時期、奇兵隊諸隊が高杉晋作を藩に対抗するために、再び盟主的な位置付けで担いだことが大きい。慶応2年1月、薩長同盟が結ばれる。

2022-05-12 18:37:33
シービー @MrCB_Harukaze

第二奇兵隊は慶応元年1月、白井小助らが当初南奇兵隊として創設した。熊毛・大島・上関・都濃の各地域の有志を集めた隊で、本営を石城山に置く。定員は100名であったが、実際は300-400名所属していたと言われる。この第二奇兵隊が脱隊騒動を起こす。

2022-05-13 19:27:32
シービー @MrCB_Harukaze

11月ごろ第二奇兵隊隊士が「種々無量の苦情」を言い、士官が言い含めたが聞き入れないという動きが出てきた。(『第二奇兵隊記録』)その後、慶応2年4月、立石孫一郎ら隊士百数十名が倉敷に脱走し、幕府領の代官所を襲撃するという騒動を起こす。

2022-05-13 19:27:49
シービー @MrCB_Harukaze

この事件の原因は、第二奇兵隊書記楢崎剛十郎(毛利家家臣)が隊士の不満を抑えようとしたしたところ、ある隊士が楢崎を斬ってしまい、自暴自棄となった隊士らが他藩で名を挙げ罪をを償う(ちょっと、何言ってるかわからない理論)以外にないと脱隊したという説のほか諸説あり真相は不明である。

2022-05-13 19:28:15
シービー @MrCB_Harukaze

第二奇兵隊の事件に対して萩藩は厳しい姿勢で臨み、斬首は45名にも登った。この頃は萩藩の軍政改革の真っ最中であり、諸隊の反乱的な動きは改革を無に帰するものという危機感があったと思われる。

2022-05-13 19:29:00
シービー @MrCB_Harukaze

ちなみに、この第二奇兵隊脱隊騒動の仕置きには萩藩軍事のトップ村田蔵六がわざわざ大島まで出向き、直接調査・仕置きを行っている。それだけでも藩が抱いた危機感の大きさが分かる。当然、他の諸隊で同じような動きが出ないよう「見せしめ」的な目的もあったであろうことは想像がつく。

2022-05-13 19:29:36
シービー @MrCB_Harukaze

慶応2年4月24日、萩藩政府は戒勅例を諸隊に下し、軍規の振粛を強調した。広沢真臣は、植村半九郎宛ての手紙で「この蜂起への対処は、規律締りになるため、雨降って地固まる、不幸中の幸い」と言っている。桂さんと蔵六が主導した軍政改革の本気度が分かる。

2022-05-13 19:30:04
シービー @MrCB_Harukaze

慶応2年6月7日、大島郡で四境戦争の火蓋が切られた。軍の配置は、芸州口方面は指揮役毛利備前、遊撃隊他、小郡方面は指揮役毛利出雲、八幡隊・荻野隊他、三田尻方面は指揮役毛利常太郎、御盾隊他、萩方面は指揮役毛利宣次郎、干城隊・鐘秀隊他、上関方面指揮役毛利伊賀、第二奇兵隊他、

2022-05-14 20:04:05
シービー @MrCB_Harukaze

石州方面指揮役御神本主殿、南園隊、徳地方面指揮役益田孫槌、膺懲隊他、馬関方面指揮役山内梅三郎、奇兵隊、八幡隊(小郡から転戦)、鴻城隊、山口方面、干城隊、鴻城隊、集義隊他である。他には干城隊を含む藩正規軍も派遣されているが、方面軍の主力は諸隊であることが分かる。

2022-05-14 20:04:19
シービー @MrCB_Harukaze

四境戦争は、概ね、大島口勝利、石州口勝利、芸州口引き分け、小倉口辛勝と長州藩の判定勝ちに終わったと言える。慶応2年8月21日、休戦の御沙汰書が出て、9月2日に休戦協定が結ばれ四境戦争は終結する。慶応3年干城隊は干城中隊と名を改め、事実上他の世禄隊(藩士軍)の一隊的な扱いとなる。

2022-05-14 20:04:36
シービー @MrCB_Harukaze

その後、奇兵隊を創設した高杉晋作は慶応3年4月14日に死去する。晋作坊ちゃんは死の直前意識朦朧の中、百姓の蜂起を気にかけ、「山口へ只今より出府」とうわごとを言ったという(慶応3年4月16日、松原音三から楫取素彦宛手紙)。最後まで藩主父子を気にかけていたのであろう。

2022-05-14 20:04:51
シービー @MrCB_Harukaze

『奇兵隊日記』4月14日には、「高杉東行、昨宵一時遂に落命の由、唯今五つ半報知有之。片野十郎帰陣、隊押伍司令官聚会、東行死去候断布告す」と記載されている。16日、晋作坊ちゃんの棺は馬関から吉田の奇兵隊本陣に運ばれ清水山にて神葬祭で埋葬された。

2022-05-14 20:04:56
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吉田の奇兵隊本陣跡、奇兵隊士像 pic.twitter.com/7Z0ZmjKKJk

2022-05-14 20:15:02
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慶応3年2月3日、諸隊は再編成された。御盾隊と鴻城隊が統合され整武隊、南園隊と荻野隊が統合され振武隊、膺懲隊と第二奇兵隊が統合され兼武隊、八幡隊と集義隊が統合され鋭武隊にそれぞれ編成された。奇兵隊・遊撃隊はそのままであった。諸隊定員を400人前後に揃えるためのものと思われる。

2022-05-15 17:48:18
シービー @MrCB_Harukaze

再編成された諸隊は11月に上京する。上京した諸隊は、奇兵隊が第一、遊撃隊が第二、整武隊が第三、鋭武隊が第四、振武隊が第五、第二奇兵隊が第六、毛利内匠の一隊が第七、膺懲隊が第八の中隊となった。(第二奇兵隊と膺懲隊は明治元年12月から建武隊となる)。

2022-05-15 17:48:35
シービー @MrCB_Harukaze

このうち、奇兵隊の主力は馬関守備のため長州藩吉田に戻る。諸隊会議所が慶応3年3月4日に公認されているが、その少し前から実質そうであったが、諸隊は「奇兵」ではなく「藩正規軍」に組み入れられたと考えることができる。

2022-05-15 17:49:15
シービー @MrCB_Harukaze

青山忠正先生はこの頃の諸隊会議所について、藩と諸隊・諸隊と諸隊を結ぶ連絡機関に変わったと言う。内訌時諸隊の中枢は諸隊本陣であったが、四境戦争時は各方面の中枢は政事堂が握り、諸隊はその指揮を受けていたことで明らかである。すでに諸隊は「奇兵」ではなく「正兵」となっていた。

2022-05-15 17:51:24
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.